【連載】データの隠ぺい、映像に魂を奪われた法廷の人々(梶山天)

第6回 法廷に立ち込める「霧」

梶山天

今市事件の一審裁判は、国の刑事司法改革の目玉で「裁判に健全な社会常識を反映させる」という狙いで2009年から始まった市民が裁判員として裁判官とともに事実の認定、法の適用、量刑の3点を判断する裁判員裁判だった。一審では捜査段階での被告の自白調書が存在するがDNA鑑定結果の隠ぺいでこれといった有力な証拠はなくなり、裁判官も、裁判員も法廷で披露された取り調べの一部の録音・録画映像に心を奪われたといっても過言ではなかった。その結果が無期懲役だった。

控訴審では、一審では重要視されなかった捜査段階で被告が母親に書いた手紙が殺人を裏付ける「証拠」とみなされた。さらに予備的訴因変更を裁判所自ら検察に促し、それを認めた上で、判決においては、録音・録画に頼る一審判決を破棄した。一審を違法と断じたのはよいが、一審は訴因変更後の訴因の審理はしてない。

にもかかわらず、驚いたことに一審に差し戻しもせずに無期懲役を自判してしまった。被告は上告するが、最高裁がそれを棄却したのだから開いた口が塞がらない。この事件は裁判員を交えた合議体の裁判員裁判である。事後審の裁判官だけの合議体の判決によって被告が刑に服すことは、今の刑事システムの裁判員裁判の根底を揺るがす危機的状況だ。それでなくとも近年、裁判員を辞退する人たちが増えているというのに……。ずばり「絶望裁判」と言うしかない。

ただ、世の中まだ捨てたものじゃないと思ったのは、生涯30件以上の無罪判決を出し、検察官から証拠に厳しい裁判官と恐れられた木谷明元裁判官や1998年のロス疑惑事件控訴審での逆転無罪判決を出した門野博元裁判官、福崎伸一郎元裁判官など裁判史上で名だたる複数の元裁判官たちがこぞって控訴審のそんなの判決内容について専門雑誌「判例時報」に証拠判断などの苦言を呈し、冤罪を危惧する批判の声を上げたことだ。こんなことがかつてあっただろうか。

そもそもISF独立言論副編集長の私が「今市事件」に首を突っ込むきっかけになったのには、理由がある。初めて東京から以北の朝日新聞日光支局長として赴任して間もない16年6月にこの一審裁判の判決文を見た。42枚の傍聴券を求めて1317人が列を作った注目度の高い裁判だった。それは、市民が裁判員として参加する裁判員裁判だった一審の宇都宮地方裁判所(松原里美裁判長、水上周裁判官、横山寛裁判官)が16年4月8日に勝又被告(当時)に下したもので、実に奇妙なものであったのだ。

「客観的事実のみから被告人の犯人性を認定することはできない」。判決文の9割は、大筋でこんなふうに無罪のトーンで文章が構成され、ラストの部分でいきなり無期懲役の有罪になっていた。まるで法廷に霧がかかり、何も見えないような……。

「ええっ?何だ、この判決文は!」。そう声を上げたのを覚えている。事件記者が長かった自分にとってはほとんど見たことがない判決文だったのだ。

しかも判決日は当初、3月31日に予定されていた。ところが、判決日の2日前に突如延期になった。裁判官たちが有罪か、無罪かで意見が分かれ、折り合いをつけるための時間が必要だったのではないだろうか。判決文はある程度の裁判のめどがたてば、左右の陪席のうち主任裁判官が公判途中から書き始めるのは珍しくない。

この時に思い出したのが、10年5月18日に知人である五十嵐双葉弁護士に誘われて足を運んだ「袴田事件」を題材にした高橋伴明監督の映画で、主演萩原聖人さんの「BOX 袴田事件 命とは」の完成披露試写会の会場(東京都内)での一幕だ。07年に「袴田事件は無実である」と自ら告白した元担当の主任裁判官だった故熊本典道さんが袴田巌さんの姉の秀子さんらと車いすで舞台あいさつに登壇し、涙ながらに自分の無罪主張を判決にいかせなかった責任を吐露した姿だった。

袴田事件は、1966年に静岡県清水市(現静岡市清水区)で味噌製造会社専務宅が放火され、専務ら家族4人が刃物で殺害されていた事件。同年8月に静岡県警が殺人、放火、窃盗容疑で袴田さんを逮捕し、その後の裁判で死刑が確定再審を求めている事件。2014年3月に静岡地裁(村山浩昭裁判長)が再審開始と袴田さんの死刑及び拘置の執行停止を決定し、釈放された。

しかし、18年6月、即時抗告審で東京高裁は静岡地裁決定を取り消し、再審請求を棄却した。だが、真実は曲げられない。20年12月、最高裁第三小法廷が再審請求を棄却した東京高裁決定には、審理を尽くさなかった違法があるとしてこれを取り消し、高裁に審理を差し戻した。

 

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梶山天 梶山天

独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。

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