【特集】沖縄の日本復帰50周年を問い直す

ウチナーンチュから聞こえる<沖縄の不条理>50年(前)

西浜楢和

■「反復帰論」は、当時の青年たちに何をもたらしたか

問:1970年前後に新川明が「反復帰論」を展開しましたが、それと出会った時、どのような印象、あるいは見解を持たれましたか。

[島袋]あり得るなぁと。詳しくは覚えていないが、感じとして日本を信用していないのだなと思った。

[伊佐]1994年、19歳、大学2年になる前に知った。日本に憧れはしても同化していくことはダメじゃないかと。ウチナーンチュはウチナーンチュなんだよという気持ちは中学生くらいから持っていた。朝起きてから寝るまで365日、日本人がやってないこともしてますから。冠婚葬祭の仕方もそうだし、火の神[ⅲ]がそうだし。カテゴリーは日本人なんだけれど、自分は日本人ではないと思っていた。「反復帰論」はピタッときた。「反復帰論」を知って、恥ずかしいと思わなくていいんだなぁと思った。こんなにはっきり言っていると思った。「そうそうそう、そうだね、やっぱりね」みたいな。よけい誇りになるとか胸を張れますよね。これが私たち、これが私みたいな。何だろう、違うんだよなというもやもやがなくなった。

[大城]中学、高校の頃からずっとヤマトに違和感を持っていてヤマトと一緒になるという復帰運動に反発があったのでとても新鮮だった。初の主席公選で独立派候補に内心エールを送っていた。大学3年の時、半年間休学して地域の青年会活動にかかわった。会長になりシマ起こし運動をしてきた。「地域史を学ぶ講座」を1年やり、新川さんにも講師をお願いした。それで身近な存在になった。「反復帰論」はぼくにとってはシマ起こし運動の延長のようなものでダブルわけですよ。だからずっと共感を持っていた。

[安里]1979年沖縄国際大学を卒業後上京し東京で働いていた時、私の職場の近くに沖縄タイムスの東京支社がありたびたび行っていたので、当時東京支社におられた新川さんとは何度かお会いしている。みなさんと一緒に新川さんのご自宅に一度訪問したこともある。すごく共鳴します。民衆は復帰に期待したのに蓋を開けるとそうではなかった。これに対し「反復帰論」は先見の明があったなあと思う。

(新垣)自分は2015年から基地反対運動にかかわるようになった。辺野古では沖縄県民の民意を無視して工事が強行され、琉球弧にどんどん自衛隊基地が造られていく。こういうことにほとんどのヤマトの人たちが無関心な状況なので、沖縄は未だに植民地なんだという認識になり、今では「反復帰論」という考えを理解するようになった。辺野古新基地を闘っている人たちは多分「反復帰論」をしっくり受け入れるんじゃあないですか。

[高良]1967、68年頃には、これは望んでいるような復帰じゃあないんじゃないかと感じていたので、「反復帰論」が「論」として出て来た時は“それはそうだな”という感じですね。望むような復帰というのは、憲法のもとに行く、基地がなくなるとか、そういうようなことが実現出来る復帰になるという期待で、最初の時はあった。復帰することによって売春防止法も適用されるわけです。1970年5月、下校中だった前原高校の女子高生が強姦を拒否したために米兵にめった斬りされ重傷を負うひどい事件があった。これだけの軍隊が駐留していることが復帰によって解決していくという期待を持っていましたね。

沖教組主催前原高校女子高生刺傷事件県民抗議大会(1970年6月2日)

 

[宮城]「反復帰論」は復帰反対じゃあないんです。反対側には沖縄独立論があった、この当時は右派が中心にやっていた。本土一辺倒に復帰運動をやっているのに対する一つの反発と捉えていましたね。琉球大学の学園祭に新川明を呼んだこともある。

[比嘉]我々は日本の国家に幻想を抱いてきた。日本は憧れを持つような国でもなく野蛮な国だ。「反復帰論」はその国家に対して反対を唱えていることは素晴らしいことだ。日本の国に裏切られたという感情を在日沖縄青年として持っていたので、反ヤマトゥ、反復帰、反返還の運動をと、新しい沖縄の運動の芽生えだと「反復帰論」にシンパシーを持っていた。

[宮城]が述べているように「反復帰論」は単純に「復帰反対論」ではない。端的に言えば「反復帰論」とは「沖縄は<国家としての日本>に無条件に帰一することではなく、<反国家・反国民・反権力・反帝国主義>の志向で闘うべきだとする思想」[ⅳ]である。

[金城]と[新垣]は知らなかったと答えているが、それ以外の人たちそれぞれの出会い、理解、受け止め方も多岐に渡っている。9名の中で一番若い[伊佐]の「これが私みたいな。何だろう、違うんだよなというもやもやがなくなった」との発言は「反復帰論」の内実を突いている。

(脚注)

[i] 調査年はすべて2022年である。2名が県外で生まれている。内一人は2の新垣で、奄美大島のハンセン病施設「和光園」で生まれた。当初は両親が奄美大島に戦争で疎開していたのかと思っていた。もう一人は5の高良で、父が総督府の農林省役員で農業試験場の所長を務めていた。3の伊佐は1972年の「復帰」後に生まれた。現在ヤマトゥに居住する7の金城、8の比嘉、9の宮城の3名はすでに生活基盤がヤマトゥにあるので沖縄に戻る予定はない。

[ⅱ] 人権無視の米軍支配下で、米憲兵の一方的な交通事故処理と、威嚇発砲に怒りを爆発させたコザ市の群衆が、MPカーをはじめ米軍車両に投石、焼き打ちした事件。炎上した車は73台におよび、嘉手納基地雇用事務所、米人学校なども焼かれた。(『沖縄大百科事典・中』、119ページ)

[ⅲ] 火の神(ヒヌカン) 台所に祀られる3個の石をよりましとする神。元来<かまど>そのものを拝したのであるが、やがてかまどをかたどった3個の石に変わる。現在では陶製の香炉を置いて火の神を象徴することが多い。沖縄諸島に仏壇が登場したのは後世のことで、それ以前、家庭を守る神は火の神であった。したがって、家庭に吉兆のあるときは、火の神を拝した。(『沖縄大百科事典・下』、305ページ)。

[ⅳ] 従来、沖縄には、日本(人)にたいする<異質感・差意識>があり、これが自己卑下や事大主義を生む原因であると批判されてきたが、むしろこの<異質感・差意識>にこそ日本の国家(権力)を相対化するプラスの要因があるとし、国家への合一化としての日本復帰拒否を主張した。(『沖縄大百科事典・下』、275ページ)。

 

◎「ウチナーンチュから聞こえる<沖縄の不条理>50年(後)」は8月5日に配信します。

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西浜楢和 西浜楢和

2005年、琉球大学大学院修士課程修了。2009年、大阪市立大学(現・大阪公立大学)大学院博士課程単位取得退学。研究テーマは「沖縄・琉球とヤマトゥの関係史」、「琉球独立論の思想的系譜」。

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