【連載】無声記者のメディア批評(浅野健一)

日本のアジア侵略の共犯 戦争犯罪を免責された大新聞と〝文化人〞

浅野健一

私は長く、戦時中、新聞記者は軍部に弾圧されて真実の報道ができなかったと思い込んでいた。1938年月に成立した国家総動員法体制下では、大本営発表報道を強制されていたという通説を信じ、戦時中、記者たちも日帝の被害者だったと考えていた。

しかし、実際は、後述するように新聞・通信社は嬉々として軍の広報機関を務め、軍が侵略・強制占領したアジア太平洋諸国において、新聞・雑誌のマーケットを分割して利益を得ていた。取材で知り得た重要な情報を秘匿して、「勝った、勝った」と報道し、商売していたのだ。

それをはっきり知ったのは、二十二年間務めた共同通信を退社して大学教授になった1994年のことだった。

・アジア侵略の共犯大新聞の戦争犯罪

新聞学専攻(2005年からメディア学科)浅野ゼミ一期生の韓国人留学生が「日帝支配下の韓国の新聞」をテーマに卒論を書いたことを契機に、日本に侵略されたアジア太平洋諸国で、日本の新聞社・出版社が何をしたかを調査したいと考えた。調査研究資金は松下国際財団が提供してくれた。

 

ゼミ生も参加した九カ国での調査の結果、戦時下で大手新聞・通信社のほとんどの記者たちは陸軍・海軍の軍幹部と癒着し、嬉々として侵略・強制占領の片棒を担いでいたことがわかり、『天皇の記者たち 大新聞のアジア侵略』(スリーエーネットワーク、1997年)を刊行した。

日本ではほとんど知られていないのだが、大日本帝国皇軍が真珠湾攻撃より約一時間五分前にマレー半島に侵攻した直後に、朝日・毎日・読売の各新聞と同盟通信などの報道機関が国・地域ごとにメディア市場を分割して、その国・地域での新聞・出版・放送の運営に当たった。大新聞から派遣された新聞人は、軍の諜報機関と一体となり、言論弾圧の側に立ったのだ。陸軍と癒着していた朝日はジャワ、海軍に近かった毎日はフィリピンを任された。ラジオは日本報道協会(現在のNHK)が接収した。インドネシアでは占領下で、「エヌハーカー」と呼ばれていた。

井伏鱒二はシンガポールで発行された英字新聞「SHONAN TIMES」(日本はシンガポールを「昭南島」と改称)に寄稿していた。このほか、中島健蔵・海音寺潮五郎・藤田嗣治らも投稿している。また、歌手の藤山一郎はジャワ島東部スラバヤで慰問活動をして捕虜になった。漫画家や映画監督も東南アジアへ派遣された。

朝日新聞社が発行した「ジャワ新聞」、毎日新聞社が出した「マニラ新聞」、読売新聞社が発刊した「ビルマ新聞」、同盟通信社が刷ったシンガポール・マレーシアの新聞は、ほとんど残っていない。植民地へ派遣された新聞人は、日本の敗戦が濃厚になったと知るや否や、自分たちが出した大東亜共栄圏、皇国史観を刷り込む新聞をすべて焼却したからだ。連合軍に戦争責任を問われることを恐れての証拠隠滅だった。

朝日など日本の新聞社には、海外で発行した新聞・雑誌がほとんど保存されておらず、日本新聞協会が横浜に設立したニュースパーク(日本新聞博物館)にも所蔵されていない。オランダ・米国の大学とインドネシア国立公文書館などにはかなり保管されている。

・むのたけじも語らなかったジャワ新聞の実態

敗戦後の新聞界で、戦争責任を感じ、社内で戦争責任を巡る議論がないことに抗って退社した新聞人がいた。その代表的な人物がむのたけじ(本名・武野武治)氏だ。むの氏は戦時中、約二年間、朝日が陸軍とともに現地で発行した「ジャワ新聞」の記者をしていた。むの氏は「負け戦を勝ち戦のように報じ戦争の本当の姿を伝えられず、国民を裏切った新聞人としての責任をとり、けじめをつける」と終戦の日に退社した。

1948年から78年まで故郷の秋田県横手市で週刊新聞「たいまつ」(780号で休刊)を発行。戦争責任をとった「反戦ジャーナリスト」(朝日新聞)として知られた。78年からは講演活動を続けた。むの氏は16年8月21日、さいたま市で亡くなった。101歳だった。

私は『天皇の記者たち』を書くため、当時、秋田県に住んでいたむの氏に取材を何度か申し込んだが、病気などを理由に取材に応じてもらえなかった。むの氏は「インドネシアの人たちとの付き合いはなかった」と周囲に語っていたと聞いたが、あり得ないことだ。ジャワ新聞などで仕事をした何人かの新聞関係者は取材に協力してくれた。

むの氏は「インドネシア特派員」「ジャカルタ特派員」「従軍記者」だったと言われているが、これは事実に反する。特派員というのは、日本の新聞のために記事を書く仕事だが、ジャワ新聞はインドネシアで軍統治のために、現地の住民の宣撫政策で発行した天皇礼賛のプロパガンダ紙だった。「ジャワ新聞」記者(社員)」(朝日からの派遣は300人)だったと言うべきだ。
16年3月9日付の朝日新聞デジタルで、むの氏はこう語っている。

〈太平洋戦争が始まってまもなく、私は従軍のために日本を発ち、翌年3月1日にジャワに上陸した。途中で立ち寄った台湾で、日本軍が作った「ジャワ軍政要綱」という一冊の本を見た。日本がジャワをどのように統治するかというタイムスケジュールが細かく書かれていた。私がいたそれから半年間、ほぼその通りに事態は進んだ。その要綱の奥付に「昭和15年5月印刷」の文字があった。ジャワ上陸より2年近く、太平洋戦争開戦より約1年半も前だったんです。つまり、国民が知らないうちに戦争は準備されていたということ。 もしもこの事実を開戦前に知って報道したら、国民は大騒ぎをして戦争はしなかったかもしれない。そうなれば何百万人も死なせる悲劇を止めることができた。その代わりに新聞社は潰され、報道関係者は全員、国家に対する反逆者として銃殺されただろう。戦争中、憲兵隊などが直接報道機関に来て、目に見えるような圧迫を加えたわけではない。報道機関自らが検閲部門を作り、ちょっとした軍部の動きをみて自己規制したんだ。〉(聞き手・木瀬公二記者)

またむの氏は、NHK・ETV特集「戦争を絶滅させる」のインタビュー(15年10月11日)では「戦争になると新聞は儲かる」と説明していた。
朝日新聞は16年8月22日付の「天声人語」で、こう書いている。
〈戦中の新聞社であからさまな検閲や弾圧など見なかった、危ういのは報道側の自主規制だと指摘した。「権力と問題を起こすまいと自分たちの原稿に自分たちで検閲を加える。検閲よりはるかに有害だった」。彼の残した言葉の良薬は昨今とりわけ口に苦い。お前は萎縮していないかと筆者も胸に手を当てる。〉

15年7月に亡くなった哲学者の鶴見俊輔・元同志社大学教授も、米国から1942年に捕虜交換船で帰国後、43年に軍属としてジャカルタの海軍武官府に赴任し、敵国放送の翻訳などの仕事を二年間しているが、そのことを明らかにしたのは九八年ごろだといわれている。私は鶴見氏が務めた新聞学教授のポストに就き、鶴見氏とシンポジウムで一緒に登壇したこともあるが、ジャワ時代の話は出なかった。

小説『橋のない川』で知られる住井すゑも戦時中に書いた軍部賛美の多数の随筆・小説に関し、語ることはなかった。菊池寛が創立した文藝春秋など大手出版社も戦時中に「ペン部隊」を派遣し、各地でプロパガンダを担ったが、戦後ほぼそのまま継続した。

NHKも放送法によって戦後設立されたのに、東京放送局が生まれた1925年を起点として2005年に、開局80年を祝った。「8・15」で断絶していないのだ。

・安倍氏を追放できたはずの調査報道の頓挫

安倍晋三衆院議員が首相を勝手に辞めてから1年4カ月になるが、自民党の最大派閥の会長におさまり、「台湾有事は日本の有事」「北京五輪に外交ボイコットを」などと叫んでいる。安倍氏自身が19年10月、習近平国家主席を国賓として招待し、昨年4月に来日の予定だったが、コロナ禍で延期になっている。習主席の国賓招待状は今も有効なのを忘れているのか。

Kyoto, Japan – March 5, 2014 : Democratic Party of Japan poster with the Prime Minister of Japan, Shinzo Abe, at the street in Kyoto, Japan.

 

20年以上に及ぶ自公野合政権を考える時、安倍氏が官房副長官時代、NHKの日本軍慰安婦問題番組(01年1月)に対し、憲法第21条で禁止されている検閲を行なって番組を改ざんさせた事件で、朝日新聞が安倍氏と手打ちしたことが、なんとも悔やまれる。社会部の本田雅和・高田誠両記者が05年1月に安倍氏らの政治介入をスクープしたが、報道界は安倍氏の犯罪を全く追及しなかった。当の朝日新聞が安倍氏に屈服し、「官邸にNHK理事を呼びつけたという表現は行き過ぎだった」などと謝罪した。

安倍氏は、祖父で元A級戦犯被疑者の岸信介が主導して押し進めた日本軍性奴隷などの強制連行について「従軍慰安婦はなかった」「強制ではない」と言い張り、教科書から慰安婦の記述を消してきた。安倍氏のNHK番組への介入は絶対に許されない憲法違反の言論弾圧であり、彼は政界から永久追放されるべきだった。

12年末、「拉致」問題を政治利用した安倍氏の再登場を許し、今日までのさばらせてきたのは、日本の新聞・通信社・放送局である。皇国史観の絶滅をうたう「ポツダム宣言」をつまびらかに読んでいないと明言した男が日本を支配してきた。

私は、日本が再び、戦時体制になる危機に、朝日新聞は80年前と同じように権力と一体になって大本営発表報道の先頭に立つと危惧する。朝日新聞には米中央情報局(CIA)の工作員と思われる元主筆・緒方竹虎が敷いた流れがあるからだ。

緒方は1944年、副社長から小磯内閣の国務相兼情報局総裁に就任。8月には東久邇宮内閣成立で再び国務相兼内閣書記官長兼情報局総裁となった。緒方は敗戦処理の東久邇宮内閣で内閣書記官長を務め、文部相・内閣参与・首相と自身の秘書官などに元朝日新聞の編集幹部や記者を起用して「朝日内閣」の観を呈したという。

朝日新聞の労働者が、過去の歴史から学び、まっとうなジャーナリズムを実践することを望みたい。

(月刊「紙の爆弾」2022年2月号より)

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浅野健一 浅野健一

1948年、香川県高松市に生まれる。1972年、慶應義塾大学経済学部を卒業、共同通信社入社。1984年『犯罪報道の犯罪』を出版。89~92年、ジャカルタ支局長、スハルト政権を批判したため国外追放された。94年退社し、同年から同志社大学大学院メディア学専攻博士課程教授。2014年3月に定年退職。「人権と報道・連絡会」代表世話人。主著として、『犯罪報道の犯罪』(学陽書房、講談社文庫)、『客観報道』(筑摩書房)、『出国命令』(日本評論社)、『天皇の記者たち』、『戦争報道の犯罪』、『記者クラブ解体新書』、『冤罪とジャーナリズムの危機 浅野健一ゼミin西宮』、『安倍政権・言論弾圧の犯罪』がある。

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