13 Days 2022
国際「おお神よ、耐える力を」
ニューヨークのセントラルパークにある<祈りの場所>で、サーシャは静かに唱え続けた。
2014年に米国がキエフで暴力的な政権転覆を成功させてから、一体どれだけ多くの命が失われたのだろう。昨年2月24日にロシアが軍事介入し、ロシア対ウクライナ・NATOの戦争が始まってから、世界中でどれだけ多くのロシア人が、心を痛めていることだろう。
数学者としてロシアからアメリカに移住して20年。これほどまで米国で生きづらさを感じたことはなかった。2・24後、全米の至るところで<ルソフォビア(ロシア恐怖症)>が再沸騰し、プーチンは悪魔化され、「Stand with Ukraine」の大合唱が起きた。ロシアと名の付くものは、文学であれ音楽であれ、徹底的に差別され、ボイコットされた。ロシアレストランの中には、破壊され、爆破予告を受けた店さえある。ロシア的であることが憎しみの対象になり、倫理的な罪になった時代…。
アメリカでの「市民権」を再獲得するために、ウクライナとの連帯を必死に示すロシア系移民たち。プーチン政権に反対し、ロシアの軍事行動を全否定し、「特別軍事作戦」を支持する大多数のロシア国民を馬鹿にしなければ、<異常なロシア人>というレッテルを貼られ、軽蔑されるようになった米国社会。
サーシャは静かにため息をついた。これじゃあまるで文化的・精神的抹殺じゃないか。ロシア人に対して重大な肉体的または精神的危害を加えるジェノサイドじゃないか。
おれは祖国ロシアを愛しているが、研究者として人生のセカンド・チャンスを与えてくれたアメリカに対し、深い尊敬と感謝の気持ちを忘れたことはない。多くの立派なアメリカ人と出会い、同じ人間として理解し合うことを心がけてきた。
それでも、世界が完全に狂ってしまった今、真理の探求を誓った一学者として、西側社会の問題を冷徹に分析し、正しくないものは間違っていると声を上げ続ける使命がある。特定の国民・民族・人種・宗教を差別し、その存在を否定するような言動には、この命が尽きるまで、断固として闘い続けよう。
◇
6月6日、ウクライナ南部のカホフカダムが破壊された。ドニエプル川が氾濫し、尊い人命が失われ、多くの市民が自宅と財産を失い、途方に暮れている。一体誰がやったのか?
西側メディアのほとんどは、十分な証拠もないのにロシアがやった可能性が高いと報道した。西側諸国の政府や国連も、「ロシアのウクライナ侵攻がもたらした悲劇的・壊滅的結果」と口をそろえている。
繰り返される戦時宣伝など無視して冷静に考えれば、すぐに結論が出るだろう。ソ連時代に自ら建設し、ロシアの黒海艦隊司令部があるクリミアに水を供給するダムをロシアがわざわざ破壊するはずがない。洪水が起きればヘルソン州の住民に多数の死傷者が出るし、ロシア軍の防御陣地も流される(実際にそうなってしまった)。
去年12月29日のワシントン・ポストの記事では、ドニエプル川の氾濫を画策していたウクライナ軍のコヴァルチュク少将が、「ウクライナ人は、ハイマース(米国が供与した高機動ロケット砲システム)でカホフカダムの水門の1つに対してテスト攻撃を行い、金属に3つの穴を開けた」と告白していたじゃないか。
ドンバス(ウクライナ東部)でのジェノサイドに関する「BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)情報ポータル」の今年5月11日付記事によると、2014年のマイダン・クーデター後の9年間、ウクライナ軍とネオナチ民兵は5000人超の民間人を虐殺してきた(負傷者、9528人)。一般市民へのテロ行為を繰り返してきたウクライナ軍が、バフムート陥落後にかつてないほど圧倒的不利になり、重要インフラだったカホフカダムを破壊したことは、間違いないだろう。
ウクライナ政府、西側メディア、米当局のこれまでの動きを1つ1つ丁寧に分析すれば、今後キエフ政権がどんな嘘をついても、戦時宣伝に騙されない免疫力で抵抗できる。
例えば、昨年8月、ロシアの思想家ドゥーギンの娘で29歳のジャーナリストだったダリヤを爆殺したのは誰だったか?西側メディアは一斉に「ウクライナ当局は関与を否定」と報道したが、10月にはニューヨーク・タイムズやウォール・ストリート・ジャーナルなどが、「ウクライナ政府がこの事件に関与したと米情報当局が結論づけた」と報じた。
10月8日のクリミア大橋の爆破はどうだろう。西側では「我々は絶対に命令していない」というゼレンスキーの発言が報道され、ロシアの自作自演が疑われたが、結局、今年5月末になってウクライナ保安局(SBU)長官が爆破を認めた。
5月3日のクレムリンへのドローン攻撃は、米当局が渋々ながら「ウクライナがやった可能性が高い」と認めたが、5月30日にモスクワで民間人も標的にしたテロ攻撃を行ったのは誰だったか?もう確認するまでもない。もちろん、ウクライナ政府だ。
ゼレンスキー政権がロシアへのテロ行為を実行して関与を否定、西側ではロシアの自作自演と大騒ぎ、後に米政府がウクライナの仕業と分析。このパターンを忘れてはならぬ。
最初は信じられなかったが、機密文書を暴露したワシントン・ポストの5月13日付記事によると、ゼレンスキーは、ロシア領内の攻撃とロシア都市占領、ロシア西部の軍部隊への攻撃、ロシア・ハンガリー間の石油パイプライン爆破を内部提案していたらしい。
その提案通り、今では当たり前のように、ウクライナ軍傘下の武装勢力がロシア領内に攻め込んでは民間人を攻撃し、国境付近に住むロシア人は財産を放棄して避難し始めている。バイデン政権は、「ロシア領内の攻撃は絶対に許されない」と言ってきたのではなかったか?
モスクワ攻撃も繰り返し、レッドラインを越え続ける米英・ウクライナ・NATOの指導者たち。一瞬で制御不能になり、第3次世界大戦・核戦争に発展し得る時代…。
◇
サーシャは冷たい微笑を浮かべた。まあそもそも、テロ行為や戦争犯罪を誰が実際にやったかなんて、米国や西側諸国にとってはどうでもいいことなのだ。「ゼレンスキーは疑いようもない正義のヒーローで、祖国を守るためにウクライナがやることは全て正しく、責任は全て侵略戦争を突然始めたロシアにあり、徹底的にロシアを罰して弱体化させなくてはならない」と彼らは信じ込み、あるいは信じ込ませている。
思考停止で理性を喪失し、自らの正義を守るためには人類が滅亡しても構わないかのような極めて危険な精神状態。おまけに「ロシアが侵略さえしなければ、この悲劇は起こらなかった」というマジックワードで、ウクライナが非人道的行為を繰り返しても許される異常な状況…。
この9年間、サーシャは数学者として、ウクライナ、特にドンバスの政治・軍事情勢を客観的な情報・データに基づき、分析してきた。ウクライナ危機の本質と向き合い、2・24に至る経緯を中立・客観的な立場から検証し続けてきた。今ではサーシャにとって、なぜロシアが軍事介入しなければならなかったのか、明白だ。
マイダン・クーデター後、米国・NATO の全面支援を受けたポロシェンコ・ゼレンスキー両政権は、ロシア系ウクライナ人のロシア語を使用する権利を奪い、自治拡大と生存権を求めて闘っていたロシア語話者の自国民をテロリストと呼んで弾圧・攻撃し続けた。ジェノサイドの犠牲になった個人を特定した調査報告によると、2014年から今年4月下旬までに、キエフ政権はドンバスで5000人を超える民間人を虐殺した。
プーチン政権は、NATOと一体化して年々強大化するウクライナ軍が、昨年2月にドンバスのロシア語話者を全面攻撃し、ロシアにとって死活的に重要なクリミアもいつ攻撃するか分からない状況を「国家存続を脅かす事態」とみなし、特別軍事作戦を開始した。
プーチンは権力維持・領土拡大のために侵略戦争を始めたわけではない。これは「プーチンの戦争」ではない。ロシア国民の大多数は、「祖国防衛とロシア人解放のための軍事作戦」と考えている。そして、ゼレンスキーは祖国防衛のためではなく、ウクライナと世界でロシア人とロシア的なるものを破壊するために、この戦争を始めた。
戦争の背景がこれだけはっきりしているのに、ここアメリカでは何を言っても理解されず、ほとんどの市民は「絶対悪ロシアによる大義のない侵略戦争」と思い込み、ロシア人に対するヒステリー状態が続いている。
どうやったら彼らを説得できるのだろう。そう言えば、1962年10月のキューバ危機を描いた「13デイズ」という映画があったな。ロシアの特別軍事作戦が始まる前の13日間にドンバスで一体何があったのか、冷静に分析して広く伝えることが、この異常な状況を乗り越える1つの方法なのかもしれない。
それにしても、「ペンタゴン・ペーパーズ」の暴露と「ウォーターゲート事件」の報道でニクソン政権と全面的に闘い、米大統領を辞任に追い込んだワシントン・ポストがこんな姿になってしまうとは…。今では、核戦争だけは防ごうと流出した機密文書の内容を必死に暴露しているが、米政府と共に「救世主ゼレンスキー」の応援団になってしまった。
昨年9月に発生したロシア・ドイツ間の天然ガスパイプライン「ノルドストリーム」爆破事件をめぐり、ポスト紙は真実を追究せず、バイデン政権と闘わなかった。アメリカの学者・ジャーナリストの間では、「ワシントン・ポストも死んだ」と囁かれているが、少なくとも去年2月11日までは、まだ生きていた気がする。
一歩間違えれば、ロシアと西側の核戦争が勃発し、人類は滅亡するかもしれない。ウクライナ危機がいつ、どのようにして、地球の存続を左右する大惨事にまで発展したのか、おれははっきりと覚えている。さて、あの13日間について語る時が来たのだ。
Day 1 2022年2月11日(金)
勤務先の大学の授業がないので、サーシャは一日中、ウクライナ情勢を分析することにした。
結局、今日未明までベルリンで行われた独仏露ウの補佐官級会合はうまくいかず、1月26日のパリ会合に続き、具体的な成果は何も出なかった。ウクライナ側は、東部紛争をめぐる停戦協定であるミンスク合意の適用を徹底的に拒否したようだ。
まあ2021年以降の米ウ・NATOの動きを分析すれば、そうなることは予想できた。去年3月、ゼレンスキーはクリミア奪還命令を出し、ウクライナはロシアを仮想敵国とするNATOの大規模軍事演習に何度も参加した。10月にはウクライナ軍がドンバスでドローン攻撃を行い、ミンスク合意に違反している。好戦的なウクライナが態度を変えるとは思えないが、今年3月に開催される次の会合では独仏の説得を期待しよう。
ワシントン・ポストが今日、アンソニー・ファイオラの記事「なぜバイデン政権はウクライナでのロシアの脅威をこれほど公表しているのか」を掲載したが、興味深い内容だ。さすが、アメリカの政治権力と闘い続けてきただけのことはある。
記事の通り、地政学的危機において情報ほど敏感なものはないのに、バイデン政権は、ロシアの動きや計画に関する米国の機密情報を異様なほど公表してきた。
元駐ウクライナ米国大使のジョン・ハーブストは、米国の政権がこれほど多くの情報をこのレベルの特異性でこれほど迅速に共有した同様の危機は、1962年のキューバ危機かイラクでの戦争構築くらいだと言っている。
ファイオラは、イラク戦争前にブッシュ政権が紡いだ「大量破壊兵器が存在」という間違った警告を例に出し、情報の本質について重要なことを書いている:「機密情報の収集と処理は科学というより芸術であり、分析上の仮定によってまとめられた秘密のタペストリー(壁に掛ける装飾用の織物)だ。機密情報は紡がれることがあり、しばしば紡がれ、間違うことがあり、しばしば間違っている」。
ただこの記事では、バイデン政権は正しいと考える識者が何人も紹介され、ロシアのウクライナ侵攻は十分あり得ると読者に訴えており、他の米メディア同様、アメリカ愛国主義とロシア敵視が滲み出ている。米国傀儡のウクライナ政府が、2014年からドンバスのロシア系ウクライナ人に対して行ってきた弾圧や虐殺には全く触れておらず、人類的観点からの中立・客観的な分析とはとても言えない。
それでも、アフガニスタン撤退時の米当局の惨めな誤算と失敗が批判され、諜報や軍事問題でバイデン政権と諜報機関が国民に信頼されていないことが強く指摘され、比較的バランスの取れた記事になっている。
夕方、怪しいニュースが入ってきた。今日、バイデンがNATOとEUの指導者に「プーチンがウクライナの侵攻を決定し、16日にも攻撃する」と伝えたらしい。これは明らかにおかしい。今日のポスト紙にファイオラは、「プーチンが実際に侵攻の決定を下したかどうかなど、バイデン政権は知らないことを明確にしている」と書いていた。バイデンの「予言」を報じた西側メディアは同時に、サリヴァン米国家安全保障担当大統領補佐官の「最終的な決定が下されたとの情報は得ていない」という発言を紹介している。
なぜバイデンは、いきなり2月16日という日付まで出して、「ロシアが侵攻を決定」という根拠のない結論を同盟国首脳に伝え、ウクライナからの米国人退去を決定したのか。これでは、米欧とロシアの対立がますます深まり、ドンバスで緊張が高まるだけだ。これはもう予言ではなく、新たな戦争を呼び込む大嘘じゃないか。
アメリカ側の求めで明日、バイデンとプーチンの電話会談が行われるらしい。こんな嘘をついてロシアを追い込んだ後に、一体プーチンと何を話すというのだろう。
イラク戦争から19年。米国は「大量破壊兵器がある」という嘘をつき、50万人とも200万人とも言われる犠牲者を出した。人類は何を学んだのか。国際法を無視し、世界各地で「ならず者国家」の政権転覆を図り続けるアメリカ政府。そのリベラル独裁を無自覚に盲信し続ける西側の政治家とメディア。絶対正義を捨てて相手の世界観を尊重する勇気がなければ、おそらく人類は生き残れないだろうな。サーシャは悲しそうにつぶやいた。
(サーシャには複数のモデルがいますが、本連載は、実際の出来事に基づいています)
参考記事(最終検索日、2023年6月30日)
『ワシントン・ポスト(電子版)』2022年12月29日記事:
(ウクライナ軍の将軍が「ウクライナがカホフカダムの水門を攻撃」と告白)
「ロシア外務省「ウクライナの砲撃でダム決壊」 破壊工作との訴えも」
『毎日新聞(電子版)』2023年6月13日記事:
『ニューヨーク・タイムズ(電子版)』2022年10月5日記事:
(ダリヤ・ドゥーギナ氏の暗殺事件にウクライナ政府が関与)
『ウォール・ストリート・ジャーナル(電子版)』2022年10月6日記事:
(ダリヤ・ドゥーギナ氏の暗殺事件にウクライナ政府が関与)
「ウクライナ当局、クリミア大橋爆発への関与認める 通信社など報道」
『毎日新聞(電子版)』2023年5月28日記事:
『ワシントン・ポスト(電子版)』2023年5月13日記事:
(ゼレンスキーの秘密提案:露都市占領、露西部の軍部隊攻撃、石油パイプライン爆破)
ドンバスでのジェノサイドに関する「BRICS情報ポータル」2023年5月11日記事:
(研究者やジャーナリストも閲覧しているBRICSの総合情報サイト)
「なぜバイデン政権はウクライナでのロシアの脅威をこれほど公表しているのか」
『ワシントン・ポスト(電子版)』2022年2月11日記事:
「プーチンは2月16日にウクライナを攻撃し得る、とバイデンは同盟国に語った」
『ポリティコ(電子版)』2022年2月11日記事:
「米国は、ロシアが数日以内にウクライナを侵攻する「明確な可能性」を警告」
『ガーディアン(電子版)』2022年2月11日記事:
*クーデター前後のウクライナの状況については、以下の動画を見ることをお薦めします:
「ウクライナ・オン・ファイアー(Ukraine on Fire)」:
(日本語字幕付き。オリバー・ストーン監督が製作総指揮を務めたドキュメンタリー作品)
「乗っ取られたウクライナ(Revealing Ukraine)」:
(日本語字幕付き。オリバー・ストーン監督が製作総指揮を務めたドキュメンタリー作品。年齢制限があり、YouTubeにログインする必要があります)
「ウクライナ・オデッサの悲劇」:
(日本語字幕付き。年齢制限があり、YouTubeにログインする必要があります)
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極東連邦大学(ウラジオストク)元准教授 おおさき・いわお 1980年東京都生まれ。政治学者。国際関係学博士。慶應義塾大学法学部政治学科卒。立命館大学大学院国際関係研究科博士課程修了。サンクトペテルブルク国立大学、モスクワ国際関係大学に留学。極東連邦大学(ウラジオストク)客員准教授を経て、2020年9月〜22年3月まで同大東洋学院・地域国際研究スクール日本学科・准教授。専門はロシア政治、日ロ関係。「ロシア政治における『南クリルの問題』に関する研究」(博士論文)など日ロ関係に関する論文多数。 政治学者として毎日新聞・北海道新聞・長周新聞・JBpressなどに論考を寄稿。エッセイストとしては、北海道新聞の連載「大崎巌先生のウラジオ奮闘記」(2020年10月〜22年4月)を担当。 【大崎巌の『ヒトの政治学』(ブログ)】https://ameblo.jp/iwao-osaki/ 【Twitter】https://twitter.com/iwao_osaki