旧統一教会とウクライナネオナチの結節点―1970年の『WACL大会』を始まりとした歴史的考察―
国際2022年9月27日、多くの国民の反対を押し切り、安倍晋三元首相の国葬が東京の日本武道館で強行された。すでに残り2ヶ月を切った2022年は、国内では安倍元首相の「暗殺」とそれを契機に暴露された旧統一教会(現世界平和統一家庭連合)の自民党との癒着問題、そして国外にあってはウクライナ戦争が重大事件の筆頭になるのは疑いない。
そして、一見関連性が乏しいように思えるこの二つの事象は関連性を有する。そしてこの日本武道館は、それが歴史的に交差した場なのだ。
国葬があった日の52年と1週間前の1970年9月20日、日本武道館で2万人が参加したとされる大規模な集会が開催された。名称は、「WACL日本大会」。WACLとは「世界反共連盟」(World Anti-Communist League。1991年から世界自由民主連盟と改称)を指す。
WACLは、台湾の蒋介石や韓国の李承晩らが1954年に結成した「アジア人民反共産主義同盟」(APACL)と、ウクライナのナチスドイツ協力者を中心として1946年に結成された後述する「反ボルシェビキ民族ブロック」(Anti-Bolshevik Bloc of Nations,ABN)が合同して、1967年に台北で発足した世界的組織だ。
旧統一教会がAPACLに関与した形跡は乏しいが、WACL大会の日本開催には異様な意欲を燃やし、大会を領導した。そしてそこに合流したABNは、ウクライナ戦争を引き起こす主要因となったウクライナのネオナチ勢力のルーツにつながる。
そのためWACLは、旧統一教会とウクライナのネオナチ勢力が合流する場になったとも言えるが、両者は米国の冷戦政策における米国の「駒」として使われたという共通性を有する。
韓国でもともと「異端宗教」のレッテルを貼られ、しかも本音では日本への激しい憎悪を隠さない旧統一教会が、日本で世界的規模の反共集会を担えるような政治勢力へと発展できたのは、理由がある。これについて、教祖の文鮮明自身が次のように説明している。
「(日本の)右翼との問題は、悪くすると十字架の問題(注=死に直面するという意味)を引き起こす。……殉教の道となる。そのため、いかに準備するか、笹川先生、岸氏が必要、そしてそのために勝共運動がある」。
「この反共路線によって共産主義を封じ込める。そうすると統一教会の副作用はなくなる。反共運動は生死の問題だ。日本の運命は官庁等の局長クラスの人間が握っている。……国家主義である。国家主義に対して、世界的反共の基盤をつくっておく。これが勝共運動である。笹川先生によって、右翼を止める」(注1)。
言うまでもなく「笹川先生」とは戦前に大陸への侵略を煽り、戦後右翼の黒幕として君臨した笹川良一を指す。「岸氏」とは米国と開戦した際の東条英機内閣の閣僚であり、戦後は首相に返り咲いて1960年の安保闘争後に辞職した後も、政界に大きな影響力を維持した岸信介だ。両名とも戦後A級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に入り、A級戦犯7人が絞首刑にされた翌日の1948年12月24日に釈放されている。
旧統一教会は信者に「自民族よりも、自国よりも、理想の国(注=旧統一教会または教祖を生んだ韓国)を愛せよ」(注2)と命ずる。さらに日本は「サタンの国」で、かつ「エバ国家」=女としての日本が、「アダム国家」=男の韓国に尽くさねばならないとする教義を持つ。
これを正面から打ち出したら、日本のナショナリズムと衝突するのは避けられない。だからナショナリズムと唯一の共通点である「反共主義」を前面に掲げると同時に、韓国国民には本来相いれない戦前の大日本帝国で枢要な地位を占めた者であっても、政治の実力者の庇護を得る必要があった。反共であれ勝共であれ、そうした主張は日本での布教のための手段に過ぎなかった。(注3)
旧統一教会を庇護した戦犯・黒幕人脈
また、笹川や岸とA級戦犯容疑者として同じ経歴を有する「戦後最大のフィクサー」と呼ばれた児玉誉士夫も、旧統一教会が日本を拠点化した時期におけるもう一人の有力な協力者として必ず名前が登場する。
WACLについての先駆的研究で、1986年に刊行された米国人ジャーナリストのスコット・アンダーソンと弟のジョン・リー・アンダーソンの共著『INSIDE THE LEAGUE』では、次のように記されている。
「笹川良一は、統一教会に利点を見出した最初の日本のリーダーだった。……1967年7月、笹川は山梨県の湖に面した自身が所有する建物で、秘密組織の場を設定した。出席者の中には文鮮明や白井為雄、久保木修己がいた。白井は、児玉誉士夫の暗黒街の代理人だった」。
「この会合の目的は、WACLの傘下で活動でき、文鮮明の世界宣教を推進し、日本のヤクザのリーダーたちに新たな敬意に値する見かけを与えるための韓国式反共運動を創設することにあった。そして勝共連合が誕生した。笹川は勝共連合の議長となり、児玉は顧問となった。
1968年4月、勝共連合はWACLの公式の支部に選ばれた。理論上は統一教会と同一ではなかったが、実際に勝共連合のメンバーは統一教会信者と児玉・笹川のヤクザの手先で占められた」(注4)。
ここでは笹川が勝共連合の「議長」となっているが、実際には「名誉会長」で、児玉についても旧統一教会との接点はあったようだが、勝共連合の「顧問」という肩書であったのかを裏付ける資料はない。
また、登場する「久保木修己」は旧統一教会の初代会長。「秘密組織の場」とは、笹川の巨大な資金源であった「全国日本モーターボート競走会連合会」の本栖湖畔の厚生施設を指す。
「ヤクザの手先」が旧統一教会信者とともに「国際勝共連合」を構成したと見なすのは、大音響をあげて街宣車を走らせるような「右翼」の大半が、暴力団の構成員とダブる日本的事情を反映しているからだろう。
国際勝共連合事務総長や旧統一教会の会長等を歴任した梶栗玄太郎が記した『燃え上れ勝共の炎』(注5)でも、「ようやくにして日韓両国の反共首脳会議が実現し……勝共運動日本受け入れの合意が成立した」とある。
すでに韓国で始まっていた「勝共運動」を日本でも展開しようという「合意」であり、1968年4月の日本での「国際勝共連合」結成の布石が打たれたと解釈できる。
いずれにせよ、笹川や児玉の影がなければ旧統一教会が勢力を伸ばすのは至難であったろう。岸を味方につけたのも、自民党に「霊感商法」等の違法行為に対する当局の捜査に圧力を加える効果を期待してのことであったはずだ(注6)。
こうした旧統一教会にとっての「生死の問題」を解決する上で不可欠の役割を果たした戦後史の闇に潜む戦犯・黒幕とのつながりは、旧日本陸軍士官学校に在籍した韓国人の人脈が可能にした。そのキーパーソンこそ、1961年に盟友の朴正熙と共に「5.16クーデター」を起こし、初代KCIA(韓国中央情報部)長官等の要職を務めた金鍾泌であった。
「1963年2月26日付けのCIAの報告書によると、『金鍾泌はKCIAの局長時代に統一教会を組織し、2万7000人の信者がいるこの組織を政治的に利用してきた』とある。
金鍾泌はまた、韓国と日本、台湾を中心としたアジア全体の反共機構を構築するため、米国と英国が支援する全体的な取り組みの一環として、韓国と日本の関係を再構築する責任者でもあった。そして共産党と闘うのを望む、広大なアジアの秘密結社に基盤を置いた組織的犯罪機構を利用した。金鍾泌の日本の最高の人脈は、児玉誉士夫と笹川良一という二人の戦争犯罪者であった」(注7)。
戦後「自由戦士」となったユダヤ人虐殺者
つまりCIAの韓国支所と呼ぶべきKCIAの大日本帝国からの人脈によって、旧統一教会は日本の戦犯・黒幕勢力から庇護者を見出した。だがそうした勢力は本来、戦後の日本国憲法の下で決して活動させてはならないはずであった。
戦後最大の汚点である戦争責任者の児玉や笹川、岸といった面々の釈放は、米国が冷戦の進行に伴って反共優先路線へと転換し、彼らに占領政策とそれに続く米国への従属路線に忠誠を誓わせた結果に他ならない。
元『ニューヨーク・タイムズ』記者のティム・ワイナーが暴露したように、岸が「CIAに採用された工作員」で「CIAの助力によって総理大臣となり」、児玉も「CIAの工作における主要メンバー」となったがゆえに「釈放と日本のナンバーワンのギャングの地位を獲得した」(注8)という事実は、重要な戦争犯罪者であっても冷戦期の米国の反共路線に利用されたことから生じている。
旧統一教会はその狂信的反共運動が、米国によって復活させられた悪しき戦犯・黒幕勢力(そしておそらくは米国自身によっても)に価値を見出され、それと一体化することで日本での政治生命を獲得・維持できた。そしてその一体化した集団が1970年9月20日に日本武道館で出会ったであろうWACLの構成団体のABNも、米国の戦略下に置かれたという意味で共通点を有している。
「第二次世界大戦が終わった後、米国諜報機関は共産主義に対する新たな戦争を開始するため、直ちに世界のファシストたちを復権するための作業に取り掛かった。血まみれの『昭和の悪魔』である岸信介を日本の手駒の首相に変えてみたり、あるいはCIAがホロコーストの設計者である(SSの)エミール・アウクスブルクを『正直で理想主義者、偏見のない心の持ち主』などと評価してみたり。もうCIAにとって、一緒に仕事ができないファシストにはお目にかかることがないかのようだった。ヤロスラフ・ステスコとウクライナ民族主義者組織(OUN)は、そうした存在であった。……ほんの数年前までユダヤ人をハンマーで殴り殺していたステスコのような怪物たちが、米国お気に入りの『自由の戦士』となって、世界中で活動を始めたのだ」(注9)。
このステスコはABNのリーダーであり、WACLの理事としても長く活動した。若くしてガリシアと呼ばれるウクライナ西部でポーランドの支配からの脱却を求めたOUNに参加し、ナチスドイツがバルバロッサ作戦を発動して1941年6月30日にガリシアの中心地リヴィウに入城した際には、「ウクライナ国民政府首相」として「欧州と世界に新しい秩序を形成している指導者アドルフ・ヒトラーの指導の下、国家社会主義の大ドイツと緊密に協力する」と宣言した。続いてステスコやOUNは、大量虐殺に手を染める。
「『Action Petlura』というコードネームのポグロムが、ステスコのリヴィウ到着数時間以内に開始された。ユダヤ人や知識人、ロシア人、共産党幹部など『新秩序』に反対すると疑われたすべての人々は検束され、ナチスとウクライナ民族主義者の共同作戦で(約7000人が)処刑された。……続く4年間で、約10万人のリヴィウのユダヤ人を含むウクライナの100万人以上のユダヤ人が、ナチスとその協力者のウクライナ警察によって消滅させられた」(注10)。
1953年7月生まれ。中央大学大学院法学研究科修士課程修了。政党機紙記者を経て、パリでジャーナリスト活動。帰国後、経済誌の副編集長等を歴任。著書に『統一協会の犯罪』(八月書館)、『ミッテランとロカール』(社会新報ブックレット)、『9・11の謎』(金曜日)、『オバマの危険』(同)など。共著に『見えざる日本の支配者フリーメーソン』(徳間書店)、『終わらない占領』(法律文化社)、『日本会議と神社本庁』(同)など多数。