第5回 対照的な2社の報道姿勢
メディア批評&事件検証栃木県警が水面下で密かに別件の商標法違反の現行犯で逮捕した男の今市事件関与の供述固めをしている時だった。地元紙の下野新聞と全国紙の読売新聞の2社がその動きをキャッチしたのだ。
証拠はまだ不十分。スクープとして打つのか、打たないのか。その後の両社の報道は対照的だった。動いたのは地元紙で、一気に新聞、テレビの報道を加速させることになる。
密室での取り調べでは、自供をとる時間稼ぎの相次ぐ別件逮捕や、代用監獄制度を悪用した捜査側による手紙の書きかえ疑惑、取調官の暴行、健全な取り調べを強調するいいとこ撮りの録音・録画影像などがおこなわれていた。
しかも、捜査側の違法な罠がベールに包まれたまま着々と遂行されていたのも知らずにだ。
今市事件の被害者女児の遺体を解剖した茨城県つくば市にある筑波大の本田克也元教授(法医学教室)の記憶によると、2014年2月、晴天の霹靂(へきれき)であるかのような電話がかかってきた。専門分野のDNA型鑑定で足利事件真犯人追求に関わって一緒に仕事をするようになり、その後も時々連絡をくれるようになった日本テレビの清水潔記者からで、驚くべきこんな話を交わした。
清水「本田さんは聞いているかな?」
本田「何を?」
清水「本田さんが8年前に解剖をやった、今市市の事件の容疑者が捕まりそうだってこと?別件で逮捕した容疑者らしいんだけど………」
本田「いや、何も聞いてないけど。なにしろ、あの事件については私が解剖して以来、何の情報も入ってこないけど」
清水「別件で捕まっている男が、この事件の自白を始めたということらしい」
本田「えーっ!それで、その人どういう人なの?」
清水「詳しいことは知らないけど、まだ若い男らしいよ」
本田「本当かな?うーん」
当時現役だった元教授が「うーん」と腕組みして考え込んだのには、理由があった。それは「若い男」というのが、自分が試みた解剖から浮かんでくる犯人像とは違っていたからだ。もっとも事実を聞いてみなければわからない。
法医学者にとって何よりも大事なことは、事実なのであるか、である。しばしば人間の主観とは異なることが少なくないことは、これまでに何度も経験していた。
清水記者は、足利事件を含む栃木、群馬両県内での北関東幼女殺人事件に関心を抱いていたため、これら未解決計5件の連続殺人とは発生時期こそやや離れているものの、旧今市市で発生したこの事件にも関心を持っていたようで、いち早く、この情報をキャッチしたのであろうと元教授は思った。
元教授が心配したのは、もう一つあった。冤罪事件で誤認逮捕してしまった足利事件のことを思い出したからだ。あの事件は、捜査の焦りが引き起こした悲劇であったと思っているが、今回もそうだとすれば、大変心配だ。しかも同じ栃木県警なのだ。また焦りすぎで勇み足するのでは、という胸騒ぎを感じたという。
既に事件発生から8年以上も経過しているが、清水記者の話しに今市事件被害者の解剖のことがありありと蘇ってくる。当時は、すぐに解決すると思われた事件も、ほとんど進展もないまま時間だけが過ぎていった。
未解決事件というものは、自分が解剖で抱いた疑問の回答が得られないままになっているため、記憶から消えることはない。それで元教授は「どういうことなの?」と聞くと清水記者は「別の詐欺容疑で逮捕されていた当時23歳の男が突然、この事件の犯人であることをほのめかし始めた」ということのようである。
元教授は「どうして、そのようなことを容疑者がほのめかしたのか」と不思議に思ったけれども、清水記者は「確か、明日の下野新聞に載るということらしいから、手に入ったら、本田さんのところに送るよ」と言って電話は切れた。
元教授はその時、被害者の女児の解剖の時のイメージが頭に蘇っていた。少し違うなあ、というのが教授の印象だった。というのも女児には、性的な犯罪の痕跡が全くなく、通り魔的な殺人にしては殺害の仕方があまりにも執拗であったからである。元教授のイメージとしては、犯人は、もしかしたら女性で、被害者女児の知り合いではないか、と思っていたのだ。新聞には何が書いてあるのだろう、と思ってしばらく待ったある日、清水記者から送られてきた新聞を手に取ると、それは恐ろしいものだった。
独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。