暴かれた密談とその後 ―砂川関連の解禁文書・新資料発見後の「新たな砂川闘争」―
安保・基地問題国営昭和記念公園には米軍基地の記録と記憶は完全に抹消されている。基地を指示し連想させるものは、緑豊かな公園内にはパンフレットを含め一切ない。昭和天皇記念館も同様で、終戦を決断(御聖断)した平和希求の天皇像が描かれて美化される。米軍基地跡の自衛隊駐屯地と天皇関連施設は、現在も続く政治的・文化的な忘却装置であり、日々新たな物語を紡ぐ。
こうして05年までに米軍立川基地の主要部分は自衛隊と天皇施設に変容を遂げた後、08年に、米国国立公文書館で伊達判決後の米国と日本政府が一体となった密談・密約の諸通信文が発見された。最初の発見者は新原昭治氏で、さらに末浪靖司氏も布川玲子氏も関連文書を入手した(『砂川事件と田中最高裁長官』など参照)。詳細は割愛するが、伊達判決直後にマッカーサー駐日大使(GHQマッカーサーの甥)が日本政府に跳躍上告を促した。さらに田中耕太郎最高裁長官と米国大使館関係者との密談に関する文書も発見され、その場では秘密裏に判決の見通しや今後の手続きが伝えられていた。
そこで、砂川事件のかつての被告たちは、原判決確定後に免訴理由が発生したとして、14年6月に憲法37条の公平な裁判を受ける権利の侵害を理由に、不当判決に関する免訴・再審請求を行った。だが、16年3月東京地裁は最高裁長官と米国関係者との面談は認めても、それは国際礼譲であるとして請求を退けた。そこで直ちに即時抗告を行うも翌年11月には高裁で棄却、さらに特別抗告も18年7月に論点が憲法問題ではなく特別抗告に該当せずとして棄却された。
今度は、元被告の土屋源太郎氏ら3名が19年3月に国家賠償訴訟を起こした。砂川国賠訴訟と呼ばれるこの訴訟は、賠償金10万円、罰金2千円の返還、そして謝罪広告を求めた。以後、22年3月現在、口頭弁論は第7回まで進んでいる。この裁判で被告の国側は、新発見文書の存在そのものを「不存在」「不知」などとしたため、原告側は裁判の過程で地裁から米国側への「調査嘱託」を行うこととなり、これも現在進行中である。
だが地裁―最高裁―外務省―国務省―州裁判所―国立公文書館へと依頼文書が送付される過程は、密談・密約の当事関係者の部署であり、どの程度、正確かつ迅速な対応となるかは未知である。第7回口頭弁論では「まだ回答なし」と裁判長は述べた。しばらくは口頭弁論が続く。土屋氏も共同代表の一人である「伊達判決を生かす会」が積極的にこの裁判闘争を支えている。それはまさに現在進行形の「新たな砂川闘争」である。
ただし、今も続く砂川闘争はこれだけではない。1970年代早々の自衛隊移駐以来、「立川自衛隊監視テント村」も意義ある活動を行っている。特にここで記しておきたいのは、2004年に反戦ビラを立川の自衛隊宿舎に配布したことで3名が逮捕・起訴され、(沖縄の山城博治氏の件を彷彿とさせるような)75日間の長期拘留を余儀なくされた点である(『立川反戦ビラ入れ事件』参照)。そしてその翌年が、昭和天皇記念館開設であった。「テント村」は、米軍横田基地反対運動も含め、現在も活発な反基地闘争を展開している。
そしてもう一つ、10年に前述の宮岡政雄氏の次女・福島京子氏が開設した「砂川平和ひろば」にぜひ触れたい。彼女は小学校教諭退職後に、砂川闘争の意義の再検証や砂川からの平和の声に焦点を当てた多彩な活動を展開している。それは、20世紀半ばと21世紀初めという時代間の溝、新旧の住民間の溝、世代間の溝、そして国家間の溝などを埋めながら、連帯の輪を広げて平和活動を実践するものだ。
事実、「ひろば」はこれまでに、砂川闘争の意義を問うシンポジウム、旧拡張予定地のフィールドワーク、無料の子ども食堂や不登校児を含む子どもたちへの学習支援、さらに外国の関係者との交流など、多様な活動を継続的に行っている。21年には、さらに砂川平和しみんゼミの開講(年間16回)、南西諸島ミサイル基地化の写真展、基地問題と東アジアの連帯と平和に関するシンポジウムも催された。これらは、反戦平和運動の深化と拡大を意識した活動で、日々の生活世界からの平和運動である。
1950年代後半に蒔かれた砂川闘争の種は、不服従や平和、非暴力などの言葉と共に、半世紀後に木々となって成長中だ。ウクライナ問題を境に日本の核武装や核共有論が一部で声高に語られる今、あらためて砂川闘争が育んだ反戦・非戦・平和への想いを実りある形にすべき時であろう。
砂川平和ひろばメンバー:砂川平和しみんゼミナール担当、平和社会学研究会・平和社会学研究センター(準備会)代表、名古屋大学名誉教授、成城大学名誉教授、南京大学客員教授。著書に『トランスナショナリズム序説―移民・沖縄・国家』、新泉社、2018年、などがある。