シリーズ日本の冤罪㉟:高知白バイ事件事故、直後から〝犯人〞は決められていた
メディア批評&事件検証・最初から片岡さんを「加害者」と見立てていた
2010年2月23日に加古川刑務所を満期出所した片岡さんは、同年10月18日、高知地裁に再審を請求した。その審理で、高知地裁の平出喜一裁判長は、高知地検に県警が提出した証拠写真のネガフィルムの開示を要請、片岡さん側による精査を許可するという画期的な判断を下した。
弁護団は、三宅洋一・千葉大学名誉教授にネガフィルムの鑑定を依頼。鑑定結果は、ブレーキ痕は人為的に作られたもので、現場写真には至る箇所に画像を切り貼りした跡が見られ合成の疑いがあるとの内容だった。さらに前出の自動車事故鑑定人・石川氏からも「必ず付くはずのタイヤの溝の跡もなく、タイヤ痕は前輪にしかない。後輪はダブルタイヤなので、迅速に捏造できなかったため」などの説明も加えられた。
しかし、残念なことに2013年、平出裁判長と交代した武田義徳裁判長は、事実調べを打ち切り、裁判を早期に終結させるため、最終意見書を早急に提出せよと片岡さん側に迫ってきた。
弁護団は裁判長の忌避を申し立てたが認められず、翌2014年12月16日、再審請求は棄却。弁護団は高松高裁に即時抗告を申し立てたが、2016年10月18日、半田靖史裁判長が棄却、最高裁第3小法廷も2018年5月7日付けで特別抗告を棄却し、再審開始の扉が開くことはなかった。
一方、片岡さんの妻の香代子さんは、夫が収監中の2009年3月2日、高知県と同県警の警察官6人に対し、1000万円を請求する国家賠償請求訴訟を提訴していた(2012年11月13日、最高裁で上告が棄却)。
その過程で、支援者が高知県に情報公開請求を行ない、高知県警の2通の内部文書が明らかになった。その1つは、当時の県警本部長名で、警察庁長官官房や交通局などに事故の発生を伝える「事故報告書」。もう1つは、捜査員がどのような方針で捜査を行なうかについて書かれた「事件指揮書」で、いずれも2006年3月3日、事故当日に作成されたものだ。
報告書は「警察官の殉職事案の発生について」との題名が記され、白バイ隊員は殉死した「被害者」、片岡さんは「加害者」であるとの設定が出来上がっていた。さらに、事件指揮簿には「犯罪事実」として、片岡さんが「左右の安全を確認して交通事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り(中略)折から右方道路より進行して来た隊員(当時26歳)運転の自動二輪車の発見が遅れ(中略)障害を負わせたもの」と書かれていた。
「障害を負わせた」……すなわちこの事件指揮簿は、白バイ隊員の死亡が確認される前に作成されている。確認しておくと、この時点で片岡さんは警察署に連行されたものの、事故についての取り調べを受けることなく個室で待たされていた。3日目に釈放されるまでの間も、事故についての取り調べはほとんどなく、死亡した隊員に幼子がいるなどの身の上話をこんこんと聞かされていたという。そのため8カ月後、地検に呼び出された片岡さんは「ようやく事故の話を聞いてもらえる」と安堵したというのだ。
収監前、片岡さんは「納得して入りたい。判決理由で『反省の色がない』とあるが、何を反省したらよいのか、それを聞きたい」と話していた。しかし、納得できないままの服役となり、その思いは今も変わらない。そもそも片岡さんは、仕事で運転する際にはとりわけ、急ブレーキを踏まないようにと気をつけていたのだ。
・子どもたちをも犠牲にした高知県警
「納得できない」のは、バスに乗っていた生徒たちも同じだった。「自分たちの言っていることが『違う』みたいに言われるのが凄い悔しい」と話す生徒もいた。事故後、生徒たちも捜査官に話を聞かれ、うち3人が警察署で事情聴取を受け調書が作成された。しかし、裁判に提出されたのは2人分だけで、窓側で白バイをもっともよく見ていたであろう生徒の調書は提出されなかった。
この生徒はバスの後方で半分空いた窓枠に手をかけ、事故の瞬間まで白バイを見ていた。事件を取材してきたKSB瀬戸内海放送(テレビ朝日系)の山下洋平記者の著書『あの時、バスは止まっていた』(SBクリエイティブ)によれば、生徒は「結構白バイが遠くにいる頃から見えていて、白バイを目で追っていたが、本当に白バイが当たる瞬間くらいで白バイが横に倒れるのを見て、凄いスピードが出ているなと感じました」と話していた。
さらに「バスが前まで出ているんで、(バスが)行き過ぎるのを止まって待っている感じの車が何台かいた」と、バスが道路に出てからしばらく停止していたことを裏付ける内容も話していた。しかし、片岡さんを有利にするこの証言を、検察側は裁判に提出しなかったのである。
一方、裁判に提出された別の生徒の、事故から10カ月後、検察が作成した検面調書には、意図的に手が加えられたような箇所が見られた。事故直後、警察で作成された員面調書で「(白バイが)僕にとってかなりのスピードでバスの方に近づいてくる」とした箇所が、検面調書では「少し速めの速度で」に変わっており、さらに、検面調書にだけ「バスは衝突した瞬間にはゆっくりと動いていたことは間違いありません」と念を押すかの証言が書かれていたのだ。
生徒本人は、「むこう(警察官)から『こうやったね』って聞かれて、自分も記憶がそんなになかったので、その通りに答えたところもあるんですけど……バスは絶対動いてなかったといえる」と話している。中学生を言葉巧みに誘導、恣意的な調書を作成させてまで片岡さんに罪をなすりつけ、高知県警が守りたかったものとは、いったい何だったのか?
これまで述べてきたように、この事件には多くの疑問が残る。それだけに、マスコミも後追い報道を続けており、前出の山下記者も出演するKSBの報道は、現在もユーチューブで観ることができる。
それら疑問は、ここまで書いてきたものだけではない。事故を目撃したと証言したA隊員が走行していた対向車線からは、当時人間の背丈ほどあった植木によって、事故の様子は見えなかったという疑惑(木は公判が始まる頃、80センチに刈られた)や、当時国道を猛スピードで走る違法な高速走行訓練を行なっていた白バイが近隣住民に何度も目撃されていた事実だ(事故後ぱったり途絶えた)。死亡した隊員もその訓練の途中だったならば、片岡さんは加害者ではなく、違法な訓練の被害者となるのではないか。
裁判をめぐっても、不可解な点は多い。亡くなった隊員の遺族は、片岡さんとバス所有者の仁淀川町に賠償請求裁判を提訴したが、町が1億円の賠償金を支払うことで和解。なぜか片岡さんへの請求は取り下げられた。
4年もかかった再審請求では、高知地裁が棄却の判断を下す11カ月前に、確定審の「バスが動いていた」と、片岡さん側が主張する「バスは止まっていた」の折衷案、つまりバスは止まっていたが、白バイが衝突した衝撃でスリップしブレーキ痕を付けた、つまり、警察によるブレーキ痕捏造は絶対にあり得ないと強調するフローチャートを提出していた。
そして「衆人環視のもと、捏造などできない」というもっともらしい言い訳も含め、事件について調べるほど、とうてい納得できないことばかりが出てくるのだ。
高知県警は“警察”の面子にこだわることなく、これらの疑問に答え、あの日、何が起こったのかを明らかにすべきだ。
(月刊「紙の爆弾」2023年3月号より)
〇ISF主催トーク茶話会:元山仁士郎さんを囲んでのトーク茶話会のご案内
〇ISF主催公開シンポジウム:新型コロナ対策の転換と ワクチン問題の本質を問う
※ISF会員登録およびご支援のお願いのチラシ作成しました。ダウンロードはこちらまで。
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3.11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。