『流血の記録 砂川』と亀井文夫監督
安保・基地問題亀井文夫(1908年~87年)監督による映画『流血の記録 砂川』は、50年代日本各地で取り組まれた反基地闘争の最大の山場といわれた、砂川町(現立川市)での基地拡張反対闘争を記録した56年の作品です。
砂川基地闘争は、監督が54年に「日本ドキュメントフィルム社」を立ち上げ最初に取り上げたテーマでもあり、55年製作の『砂川の人々』(25分)、56年の『麦死なず』(30分)、そして総集編となる『流血の記録 砂川』(56分)の3作品を残しました。
映画は冒頭、有刺鉄線越しに滑走路上をゆっくり移動する米軍機をとらえ、やがて米軍機は爆音を立てて離陸し測量反対を訴える旗をかすめるように飛び立って行きます。56年10月、砂川町では月内に予定されている強制測量に備え、地元の人たちが警戒に当たっています。
画面はここで、前年(55年)9月・11月の闘争に変わり、非暴力で抵抗する地元の人たちや、スクラムを組む女性たちなどが映されます。強制測量で杭が打ち込まれますが、「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」の幟を立て、さらに反対の意志を固めます。
再び56年10月、激突前の静穏なひととき、子供たちの遊び相手となる学生、スクラムごっこに興じる若者たちが映され、新潟をはじめ基地反対闘争に取り組む全国各地からの応援団体が紹介され、当時米国の統治下にあった沖縄から参加した男性が過酷な現地の状況を訴え連帯を呼び掛けます。
12日、測量隊が1300名の武装警官と共に現れ、待機していた労組・全学連と激突、双方に271名の負傷者を出します。
翌13日、この日は朝から冷たい雨が降り、測量隊が警棒・鉄兜で武装した2000名の警官隊に守られ到着、実力行使にかかります。
スクラムを組むピケ隊、押し込む警官隊、警棒で殴り掛かる警官、突然、茶の木を踏み越え芋畑に侵入し走りながら測量目的地を目指す警官隊、カメラは踏みつけられる芋畑を写します。他社が道路沿いにカメラを配置したのに対し、亀井監督には戦時中の軍による秋季大演習では平気で畑を踏み荒らしたという記憶があり、警官隊は農作物を踏みつけても最短距離をとるはずと判断し、畑の端にカメラを置いて待っていたそうです。
警官隊の前で団扇太鼓を打ち説教する僧侶たち、そこに突然「かかれ!」の声。赤十字を表示した車から引きずり降ろされ地面にたたきつけられる国会議員。杭を打ち込む測量隊員に、「日本人かね、あんたたちは」と叫ぶ女性。下腹部を狙って警棒を突き刺す警官、ごぼう抜きし隊列に引き込み小突きながら後ろに送る警官隊。
警官隊に対峙するスクラムから童謡「七つの子」の歌声が起きます。そこに、「警棒をはずせ!」の号令。笛の音とともに「かかれー!」の声。押し倒されるピケ隊、怒号の中もみ合うピケ隊と警官隊。この日の重軽傷者、ピケ隊側844名、警官側80名。そして、人生観が変わったとの遺書を残し8日後ひとりの警察官が自殺します。
14日は測量が行われないまま過ぎ、その夜、突然、測量中止を知らせるラジオ放送が流れます。家を飛び出し、バンザイを連呼する地元の人たち、腕組み走る支援者たち、中学校の講堂では泊まり込みで闘争に参加していた学生たちが輪になって体全体で喜びを表現します。
そして、翌15日の神社境内で開かれた総決起大会。負傷した僧侶が壇上に立ち、会場からは大きな拍手が起きます。その上空を爆音響かせヒコーキが飛び去って行きます。
11月のある日、基地前の畑では麦蒔きが行われています。
一人の男性が、「私らは闘ったのです。去年蒔いた麦を今年刈り取ることが出来ました。今蒔いている麦も来年必ず刈り取ります。そして来年もまた麦を蒔きますよ」と語ります。そしてカメラは基地内をゆっくりと移動する米軍機の姿をとらえ、映画は終わります。
「僕が映画を作る動機というのは、一言でいえば、代書人というつもりなんですよね。世間でいう“小さな声”を代書人のようにフィルムにして外に発表する。砂川の闘争が起こったとき、これは砂川の人たちにとっては非常に大事な闘争で、ぜひそれは世間に訴えてあげなければと、そしてそれは結果としては、自分自身の問題にも降りかかるわけだから」。
生前監督から当時のお話を伺ったときまず話された言葉です。さらに監督は、支援がひろがったのは、農民として土地を手放したくないというだけではなく、戦争のための足場にさせたくないという思いがあったから、と強調されていました。
1948年砂川町(当時)生まれ。72年立川市役所に入所、児童館勤務の後、81年より91年まで中央公民館(当時)勤務。視聴覚ライブラリー担当としてフィルム購入に関わり、砂川3部作をはじめ亀井監督作品の収集にもあたる。図書館勤務を経て2011年退職。趣味として18年より、三線(八重山民謡)教室に通う。