『流血の記録 砂川』と亀井文夫監督
安保・基地問題亀井監督は、20歳の時に絵画を学ぶためソビエトに渡りますが、現地で観た記録映画の持つ社会批判、文明批評の力に感動し、映画学校で学びます。帰国後、東宝に入社、38年『上海』、翌年『戦ふ兵隊』という、戦中数少ない厭戦映画といわれる作品を制作します。『戦ふ兵隊』の中で、道端に残された廃馬が広大な大地を背景にゆっくりと崩れ落ちていくシーンは特に印象的です。
後年、監督は「戦地で苦しむ大地や人間や動物、一本の草までのがさず記録したいと考えた」と語っています。しかし『戦ふ兵隊』は公開中止とされてしまい、40年の『小林一茶』でも、農民の貧しさを描きすぎているなどを理由に文部省認定をはずされてしまいます。時代は39年に「映画法」が施行され、脚本の事前検閲や映画製作従事者の登録制など、映画製作に対する国家統制が厳しくなっていくときでした。
41年10月、監督は映画人の中で唯一となる治安維持法違反容疑者として検挙・投獄され、同時に演出家資格も抹消されてしまいます。
45年8月15日、敗戦を報じる天皇のラジオ放送を聞くや、喜びのあまり手にしていた飯茶碗を「ヤッター」とばかりに天井にぶつけたそうです。
戦後最初の作品は『日本の悲劇』、戦時中のニュースフィルムを再編集し戦争責任の問題を追及した作品ですが、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によりネガフィルムごと没収されてしまいます。
その後、戦争放棄、女性解放など、民主主義の理念をテーマに劇映画を制作しますが、その間起きた東宝争議(46年~48年)では中心となって活躍、出動した米軍戦車の前に立ち、「暴力では文化は破壊されない」との名言を残します。
54年、自社を立ち上げ記録映画の世界に戻り、『砂川三部作』を皮切りに、被爆者を描いた『生きていてよかった』(56年)、放射能の恐怖を取り上げた『世界は恐怖する』(57年)、被差別部落問題をテーマにした『人間みな兄弟』(60年)など社会派ドキュメンタリー作家として、数々の先駆的作品を残します。
しかし、60年以降は社会問題をテーマにした作品からは遠ざかり、一時骨董店の主人となります。
晩年、監督は、環境破壊問題をテーマに映画製作に再び取り組み、86年、遺作となった『トリ・ムシ・サカナの子守歌』を完成させます。エコロジーをテーマに、人間と自然との共存を強く訴えたものでしたが、『戦ふ兵隊』で戦火に苦しむすべてのものを記録しようとしたというように、終生監督の映画製作の根底には「生命(いのち)」を慈しむといった思いがあったと思います。『流血の記録 砂川』でも、踏みつけられた芋畑や爆風に激しく揺れる桑畑などのシーンにその思いがうかがえるのではないでしょうか。
☆亀井文夫監督に関する参考図書
野田真吉(1984)『日本ドキュメンタリー映画全史』、社会思想社。
亀井文夫 谷川義雄編(1989)『たたかう映画』、岩波書店。
都築政昭(1992)『鳥になった人間』、講談社。
「砂川の人々」が25分でなく27分かも、のURLは
https://www.yidff.jp/2001/cat113/01c121-1.html
「流血の記録 砂川」が56分でなく55分かも、のURLは
https://www.yidff.jp/2001/cat113/01c122-2.html
「小林一茶」が1940年でなく1941年かも、のURLは
https://www.bunpaku.or.jp/exhi_film_post/20201001-20201004/
1948年砂川町(当時)生まれ。72年立川市役所に入所、児童館勤務の後、81年より91年まで中央公民館(当時)勤務。視聴覚ライブラリー担当としてフィルム購入に関わり、砂川3部作をはじめ亀井監督作品の収集にもあたる。図書館勤務を経て2011年退職。趣味として18年より、三線(八重山民謡)教室に通う。