私の言い残したこと、その2―「和食の底力」でワクチン後遺症と闘う―
社会・経済先日(2023/02/23)の講演で私は和服姿で講演しました。
というのは私は和服が日本の気候風土に合っているし着たり脱いだりするのも便利だからです。ですから大学でも「60歳の還暦を迎えたら和服で講義する」と宣言し、定年まで和服で通勤しました。
和服と比べて洋服は着脱が不便です。とりわけネクタイ(neck-tie)は結ぶのに時間がかかりますし、おまけに窮屈です。何のために自分で自分の首(neck)を紐で締め(tie)なければならないのでしょうか。
それにひきかえ、和服の着替えは、着流しの場合、一瞬で終わります。また労働着としての「作務衣」も着たり脱いだりするのが簡単ですし、スーツと比べると非常に体が楽になります。肩も懲(こ)りません。まさに「和服の底力」です。
というわけで、講演会当日も和服で臨み、その延長上で、コロナウイルスやワクチン後遺症と闘う場合も、「和食の底力」が大きな効果を発揮する可能性についても説明する予定でした。
というのは、前回のブログの末尾で述べたように、長崎に原爆が投下されたとき、「和食の底力」は大きな力を発揮し、「長崎の奇跡」が生まれていたからです。そのときの秋月辰一郎医師は「塩と玄米と味噌汁」だけで放射能=死の灰を解毒することに成功していたからです。
放射能という猛毒(死の灰)を、「塩と玄米と味噌汁」(とりわけ「味噌汁」)が撃退する力を持つのであれば、感染力はあっても致死力の弱いコロナウイルスはもちろんのこと、遺伝子組み換えワクチンという毒物も撃退するはず、と考えたからです。
ところが日本政府は外国からワクチンを輸入することのみに熱心で、日本人が開発しノーベル賞まで受け、世界でその有効性が試されている「和薬=イベルメクチン」には、ほとんど関心を示しませんでした。
ですから、まして原爆病で「長崎の奇跡」を生んだ「和食の底力」に関心を示すはずはありません。そこで私は、この講演で、その「和食の底力」「味噌汁の免疫力・排毒効果」についても、説明するつもりでしたが、前回のブログでも説明したように、「講演時間を10分間短縮してほしい」との要請で、私の最初の目論見は消し飛んでしまいました。
それにしても、当日は午後に講演することになっていた船瀬俊介氏の著書に『和食の底力』という本があるにもかかわらず、そのなかで「長崎の奇跡」「塩と玄米と味噌汁」(とりわけ「味噌汁」)について全く言及されていないことは、せっかくの良書だっただけに、残念至極でした。
そこで以下では、この「長崎の奇跡」を生んだ「塩と玄米と味噌汁」(とりわけ「味噌汁」)について、秋月辰一郎医師の著書をもとに、詳しく説明したいと思います。
秋月辰一郎医師には次の3つの著書があります。
『長崎原爆記、被爆医師の証言』(弘文堂1966、日本ブックエース2010)
『死の同心円、長崎被爆医師の記録』(講談社1972、長崎文献社2010)
『体質と食物、健康への道』(私家版1980、クリエー出版1980)
そこで、講演会場では、秋月辰一郎『長崎原爆記、被爆医師の証言』(弘文堂1966、日本ブックエース2010)、『死の同心円』(講談社1972、長崎文献社2010)を紹介しました。
実は秋月医師には、もう1冊『体質と食物』(私家版1980、クリエー出版1980)という本があったのですが、講演会までに入手できず、講演が終わってから届いたので読んでみたら、「味噌汁」の効用にしぼった本だったので驚きました。
『死の同心円』は最初に書かれた『長崎原爆記』を元に大幅に加筆修正され、叙述の視点も時間的広がりも違っているので、まったく独立した著書になっています。今回の講演にあたって、10年以上も前に買った本を読み返してみて、新たに発見したことが少なくありませんでした。
一度読んだからといって全てを理解していたわけではないし全てを憶えているわけではないので、これは当然のことかも知れません。重要な著書は再読・三読することの必要性を再認識させられました。恥ずかしい話ですが『長崎原爆記』には「秋月式治療法」という「節」が第4章にあることも、今回、初めて気づきました。
そこで以下では、その引用から始めることにしたいと思います。少し引用が長くなりますが、お許し願いたいと思います。短い引用では「秋月式治療法」とは何かを十分に分かっていただけないと思うからです(あとで説明するときに便利なので私の方で段落番号を付けておきます。引用は『同書』119-122頁)。
秋月式治療法
1) 私、婦長、岩永修道士、村井看護婦なども、8月15日頃から疲労が加わってきた。私は初め「野宿は疲れるものだ」と思い、1週間近く病院の庭にごろ寝したことを、全身叩(たた)かれたような疲労の原因と考えた。私は放射能症、原爆症を知らない。しかし、ここで自分の身体の疲労や自覚症状を考えてみた。私はかつて、長崎医大付属病院の永井助教授が部長をしていた放射線教室に、1年間、助手として勤務したことがある。
2) X線の診断治療を研究した時に、「レントゲン宿酔(しゅくすい)」という症状があった。子宮癌、乳癌の転移巣にX線深部治療をする。1日、2日と連続して照射すると、患者は一種の病的症状を起こす。これは「レントゲン宿酔」(レントゲン・カーター)と呼んでいた。当時、医師不足で診療数が多く、私は過労していた。1日に2人、3人と消化管のX線透視をする。月曜日から始めて金曜日まで診療を続け、土曜日は休み、整理とか抄読会(しょうどくかい)をする。私は生来(せいらい)虚弱体質だったせいもあるが、金曜日ごろになると何だか気分が悪くなった。「ああ、それはレントゲン・カーターだ」と先輩から教わった。
3)8月15、6日ごろ、私は自分の症状が、このレントゲン・カーターに酷似していることを明瞭(めいりょう)に自覚したのである。
4)レントゲン放射線は、古典的物理学の言い方をすれば、波長のきわめて短い電磁波である。人間の細胞を透過する。しかしラジウム放射線と同じく、多量であれば人間の細胞を破壊する。レントゲン放射線に破壊される細胞は、分裂が盛(さか)んに行われる組織細胞である。幼弱細胞、生殖細胞、骨髄細胞―とにかく生命現象の営みの盛んな細胞は、レントゲン放射線によって壊死(えし)する。
5)私はここまで原子症を理解した。しかし原子爆発がいかなる放射線を生ずるか知らない。「ラジウム放射線か、レントゲン放射線、ガンマー線、そんな放射線であろう。その放射線が人間の造血組織、骨髄組織を破壊したのだろう。だから紫斑病みたいな患者が多いのだ」。私の診断と推理はここまでであった。
6)私には血球計算器もなく、血球染色して顕微鏡で見る余力も装置も全くなかった。ただ想像と推理だけであった。私はさらに「レントゲン宿酔」の治療法を想い起こした。かつて私は、レントゲン教室で患者がカーターになったり、自分がカーターに苦しんだとき食塩水を飲んでいた。生理的食塩水より少しよけいに塩分を含んだ塩水の飲用を患者にも命じた。そうすると私自身、気分がよくなった。それは当時、レントゲン教室で研究し、働いていた人びとの常識であった。
7)「爆弾を受けた人には、塩がいいんだ。塩が、効果があるんだ」
8)私に新しい生物物理学、原子生物学の知識はない。書物や論文はなにもない。それでもこの秋月式の栄養学に信念を持ってきた。秋月式栄養学=ミネラル栄養学である。この時のミネラル栄養論を端的に表現するならば、食塩、ナトリウムイオンは造血細胞に賦活力(ふかつりょく)を与えるもの、砂糖は造血細胞毒素ということになる。
9)この考え方は、私が長崎医大の放射線教室にいた時、患者や医師や技術者にしていたレントゲン・カーターの治療に一致する。そしていま、この原爆症にも私のミネラル栄養論がそのまま役立つのではないか。私の胸中(きょうちゅう)に信念にも似たものが悠然(ゆうぜん)とわいてきた。「玄米飯に塩をつけて握(にぎ)るんだ。からい、濃い味噌汁を、毎食食べるんだ。砂糖は絶対にいかんぞ!」。私は、炊事方や職員に厳命した。もしそれが履行されないと、私は、気の毒なくらい相手を怒鳴った。「砂糖はいかん、甘いものはいかん!」
10)これは爆弾前から、入院患者や従業員に厳重に申し渡していた。もっとも砂糖は、当時の日本の大衆にはほとんど無縁なものであった。
11)「砂糖はなぜ悪いんですか。塩がなぜ原爆症に効果があるんですか」こう誰もがたずねる。私は、いちいちこれを、根本的に説明するのもまだるっこい。「悪いといったら、悪いんだ。砂糖は血液を破壊するぞ!」
12)この時の私にひらめいたミネラル原爆症治療法は、私自身と、周囲の私を信ずる人びとの間には行われた。
13)その後、永井先生のビタミンB1・葡萄糖(ぶどうとう)論の治療法、長崎医大影浦教授の「柿の葉煎汁(せんじゅう)療法」のビタミンC大量法、あるいは酒、アルコール治療法など種々の原子病治療法が現われた。
14)しかし私は、このミネラル治療法のためこれまで生きながらえ、元気に病院で医師として働いてこられたのだと信じている。私はきわめて虚弱体質であり、1,800mの距離で原子爆弾を受けた。致死量の放射能でなかったのかもしれない。しかし私や岩永修道士、野口神学生、婦長、村井看護婦その他の職員や、入院患者は、被爆の廃嘘の死の灰の上で、その日以来、生活したのである。
15)その人びとが、もちろん疲労や症状はあったであろうが、それを克服して元気に来る日もくる日も人びとのために立ち働き、誰もこのために死なず、重い原爆症が出現しなかったのは、実にこの秋月式の栄養論、食塩ミネラル治療法のおかげであった。
16)私とその周囲の人びとは、それを信じている。学会ではたとえ認められなくとも。
御覧のとおり秋月医師は自分の勤務する病院にいた職員に次のように命じたのでした。
「玄米飯に塩をつけて握(にぎ)るんだ。からい、濃い味噌汁を、毎食食べるんだ。砂糖は絶対にいかんぞ!」(段落9)
「砂糖はいかん、甘いものはいかん!」「悪いといったら、悪いんだ。砂糖は血液を破壊するぞ!」(段落9、11)
この「秋月式治療法」が原爆症を撃退したのでした。秋月医師はそれを次のように述べています。
「誰もこのために死なず、重い原爆症が出現しなかったのは、実にこの秋月式の栄養論、食塩ミネラル治療法のおかげであった」「私とその周囲の人びとは、それを信じている。学会ではたとえ認められなくとも」(段落15、16)
砂糖・甘いものが有害であることは桜沢如一の食養学でよく知られるようになりましたが(『東洋医学の哲学』日本CI協会1973、『ゼン・マクロビオティック』日本CI協会1996)、秋月医師は1945年の時点で、それをよく認識していたのです。
良家の子女がしばしば結核などの病気になり若くして死亡することが多かったのは、上記の事実と符合しています。というのは富裕層の家庭ではお金があるので、甘いもの・高価な和菓子をふんだんに食べるだけの金銭的ゆとりがあったからです。
私は宮沢賢治の妹トシが結核により24歳で死去したのも、宮澤家が裕福だったからこそではないかと思っています。なにしろトシは、小学校4年生の初め頃から、東京音楽学校(現在の東京芸大)を卒業して高等女学校の音楽教員だった鈴木竹松に課外でヴァイオリンの講習を受けていたそうですから。
しかも、弟・清六の幼い頃の記憶では、ヴァイオリンは兄の賢治から8挺の1つをもらったと言いますから(ウィキペディア)、いかに宮澤家が裕福だったかが分かります。現在でもヴァイオリンは高価すぎて一般庶民には縁の遠いものですが、それが宮澤家では8挺もあったというのですから驚きます。
そのうえ明治・大正期では女性が高等教育を受ける機会はほとんどなかったにもかかわらずトシは東京の日本女子大学校家政学部に進学しているのです。いかに裕福だったかが、この事実からも分かるはずです。そのトシが肺結核になり死亡する直前のトシをうたった詩「永訣の朝」はあまりにも有名です。
実を言うと、秋月医師も生まれながらに心臓が奇形で子どもの頃は病弱だったのです。しかも2人のお姉さんも結核で亡くなっており、そのお姉さんより更に弱かったのが秋月少年でした。
が、長崎県諫早市でおこなわれた桜沢如一の講演をきいてから秋月医師の人生が変わりました。
自分の病気を治すために京都帝国大学医学部に入ったにもかかわらず、自分の持病である蓄膿症(ちくのうしょう)ですら治せず絶望していたのに、桜沢式食養学で蓄膿どころか心臓病ですら治ってしまったのです。
この話は、阿部一理・堀田忠弘『放射能汚染から命を守る最強の知恵』(コスモ21、2011)の14-26頁に載っているのですが、著者のひとりである阿部一理氏は、当時まだ存命であった秋月医師に会って、直接その話を聞いているのです。
それを読むと、阿部氏の両親が北海道で駄菓子屋を経営していて、子どもの頃からお菓子の食べ放題、砂糖漬けの生活を送り、その結果、阿部氏自身も子どもの頃から虚弱体質だったそうです。
そして桜沢如一の著書に出会って人生が変わり、その著書の1冊『心臓を入れ替える法』を読んで、秋月医師に直接会ってみたいと思い始めました。そして思い切って長崎に出かけたら、幸運にも秋月医師から、会っても良いとの許可がもらえたのでした。
そのうえ、秋月医師が広島大学の研究者に依頼した「味噌が放射線を排泄するという研究」の成果も、阿部氏は手にすることが出来たのでした(前掲書40-41頁)。
国際教育総合文化研究所所長、元岐阜大学教授