[講演]今中哲二(京都大学複合原子力科学研究所研究員) 懲りない原子力ムラが復活してきた──日本の原子力開発五〇年と福島原発事故を振り返りながら(下)

尾崎美代子

[講演]今中哲二(京都大学複合原子力科学研究所研究員) 懲りない原子力ムラが復活してきた──日本の原子力開発五〇年と福島原発事故を振り返りながら(上)からの続き

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福島の事故

福島原発事故のおさらいを簡単にしておきます。一九七一年に福島第一原発の1号機が稼働を始めます。その後、次々と6号機まで増設された大きな原発です。地震が起きた十二年前の三月十一日、動いていたのは1、2、3号機で、4、5、6号機は定期検査中で止まっていました。

原子炉の運転員には、大きな地震のような緊急事態に対応するのに「止める、冷やす、閉じ込める」という簡単なスローガンがあります。まず、原子炉の核分裂連鎖反応を止める、次に発熱する原子炉を冷やし続ける、最後はとにかく放射能を閉じ込めるということです。地震が起きると、その震動を検知して1、2、3号機の原子炉には自動的に制御棒が入って止まりました。日本には沢山の原発があり、地震で原発が止まること自体は珍しいことではありません。原子炉が止まった時、原発の電気はどうするかというと、普通は外部電源といって外から取り込みます。福島の事故の場合は、送電塔が倒壊したりして外部電源もやられました。緊急事態ですが、外部電源もなくなった時に備えてある、非常用のディーゼル発電機が自動的に動き始めました。そこで運転員は何とかなるだろうと思ったはずです。ただ、そのディーゼル発電機がどこにあったかというと、タービン建屋の地下でした。

地震で原子炉が止まったあと、四、五〇分後に一〇㍍を超える津波がやってきました。当時の福島第一原発の津波対策は六㍍だったため、建屋にまで流れ込んできて、ディーゼル発電機が止まってしまった。ここでホントに深刻な状況になりました。私たちも事故のあとで知ったことですが、福島第一原発が津波に弱いということは、二〇〇〇年過ぎから電力会社の中でも言われていたのです。二〇〇四年にインドネシアのスマトラ島で地震が起こり津波が発生したころから、何か対策をしなくていけないと見直しが議論されていて、二〇〇八年には東電内部からも一五㍍を超える津波の恐れがあるので防潮堤の新設が提案されていました。しかし、東電幹部がそれを握りつぶしました。

この一月、東京高裁は、検察審査会の議決を受けて始まった刑事裁判で、当時の東電経営陣(勝又、武黒、武藤氏)に無罪判決を出しました。原発事故に対して、いったい誰が責任を取るのだろうかと、私は思っています。

[図9]のように、核燃料のウランは直径一センチ長さ一センチの小さなペレットで、四㍍ほどの細長い燃料棒の中に入っています。これを一〇〇本ぐらい束ねたのが燃料集合体です。お釜のまん中に燃料集合体を五〇〇体ぐらい並べて炉心になります。燃料棒の隙間を水が流れて蒸気を作ります。原子炉が止まると、核分裂の連鎖反応は止まりますが、炉心の発熱は続いています。たまっている死の灰から莫大な放射線が出ていますが、一〇〇㌧以上もある炉心の中で放射線のエネルギーが吸収されて熱になるので、それを冷やさないといけません。原子炉が止まっても水を入れ続けて冷やさないと、炉心はメルトダウンしてしまいます。もう一つたちが悪いのは、温度が一〇〇〇℃を超えると、燃料棒の被覆管であるジルコニウムいう金属と水蒸気が反応します。水の酸素がジルコニウム反応して酸化ジルコニウムになり、そうすると水素が発生して水素爆発を起こします。

[図9]

[図10]

 

[図10]は三月十六日の写真ですが、爆発したのは1と3号機。驚いたのは4号機も爆発したことです。4号機は排気塔を3号機と一緒に使っていたので、3号機で発生した水素が4号機に流れたようです。三月十二日にまず1号機で水素爆発が起き、その日の夕方に避難指示が周辺二〇キロに拡大されました。大変な放射能汚染が起きているのに、どのくらいの放射線量になっているかさっぱり情報が出てきませんでした。ということで、自分たちで測りにいこうと三月末に行ったのが飯舘村でした。

飯舘村は、福島第一原発から三、四〇キロのところです。福島原発事故まで、日本の原子力防災は、一〇キロまでしか考えていなかったので、飯舘村は原子力防災には無関係でした。しかし、ここでも大変な汚染がありました。[図11]に写っているのは私ですが、三月二十九日、飯舘村の南部の長泥曲田の放射線量は一時間当たり三〇マイクロシーベルトでした。京都大の研究用原子炉内では、一時間当たり二〇マイクロシーベルトを超えると、私のような普通の作業者はみだりに入るなという高放射線量区域の標識があります。

[図11]

 

我々は長泥の土を持ち帰って、どんな放射能がどれだけ入っているか組成を調べました。その土に含まれる放射能は、二週間前の三月十五日に降ったものですから、測定結果を基に二週間遡ってどれだけの放射線量だったかを計算すると、一時間当たり一五〇~二〇〇マイクロシーベルト、「すぐ逃げましょう」という放射線量でした([図12])。その後飯舘村の人々に聞き取り調査をすると、長泥の人から、白装束の人たちが三月十五日の夜に車で放射線量を測りにきたけど、線量を聞いたが教えてくれなかったと聞かされました。

[図12]

 

福島第一原発では原子炉三基がメルトダウンしましたが、日本の原子力防災システムもメルトダウンしていたと私は思っています。原発から二〇キロまでは早々と避難指示が出ましたが、飯舘村などはひと月、ふた月と村で生活を続けました。もし日本の防災システムが機能していたら、汚染が起きた三月十五日か翌日には避難なりもっときちんと対応できたのではないかと考えています。

その後も定期的に飯舘村の調査を行っています。コロナ前までの八年間で放射線量は大体二〇分の一に下がりました([図13])。これは除染で下がったというより、放射能が自然に減衰して下がった効果が大部分です。そして、二〇一七年三月末に長泥地区以外の飯舘村は避難指示が解除されました。解除になるまでの三年間、ものすごい規模で除染が行われ、飯舘村だけで二三〇万個のフレコンバッグが出ました。福島全体では二〇〇〇~二五〇〇万個と言われています([図14])。

[図13]

[図14]

 

私は、福島など汚染地域の人たちに、「よけいな被ばくはしないほうがいいが、汚染地域で暮らすとある程度の被ばくは避けられない」と言っています。そこにどう折り合いをつけるかは、人によって違うでしょう。専門家としては、汚染レベル、被ばく量、そのリスクをそれなりに説明できます。被災者がどうするかはそれぞれの判断なので、私の役割はみなさんが納得した判断をするための手伝いをすることだと考えています。

一方、国や東電は、被災者をできるだけ帰そうとしています。避難指示が出ている間はそれなりの手当などがあったが、解除でそれもなくなりました。私は、被災者がどのような選択をしても、国や東電はそれを面倒を見る責任があると考えています。

廃炉ロードマップという「お絵かき」

福島第一原発の1、2、3号機では、燃料が熔け落ちて格納容器の床にたまっていて、デブリと呼ばれています。皆さんは、「事故を起こした原発は四〇年で廃炉になる」という話を聞かれたことがあると思います。私も、初めて聞いたときは、福島第一原発は四〇年で更地になるのか、と思ったのを覚えています。しかし、デブリは全体で八〇〇㌧あるらしいですが、取り出せる目途はまったくたっていません。デブリがどこにどれだけたまっているかロボットを入れて調べていますが、いまだにわかっていません。いわば、現場検証も終わっていないという状況です。

四〇年で廃炉にしますというロードマップ([図15])は、これまでに何度も書き変えられています。五年前の二〇一七年のロードマップを見ると、デブリの取り出しはすでに始まっていることになっていますが、実際は始まっていません。どう見ても四〇年では取り出せないでしょう。

[図15]

 

原子炉が廃炉になると、その場所が更地になると思っている方もいるでしょうが、そんなことはありえません。四〇年経っても、福島第一原発が放射性廃棄物の大集積所であることは間違いありません。私たちにできることは、現状を踏まえて、壊れた原子炉を次の世代に引き継いでいくしかないだろうと思います。一〇〇年、二〇〇年の話です。

福島第一原発でたまり続けて困っている汚染水を、海水で薄めて海に流してしまえという話が進んでいます。トリチウムという、水素の仲間である放射性物質を含んだ汚染水が一三〇万㌧もたまってしまい置き場がなくなったので、海に捨てようとしているのですが、漁師さんをはじめ地元の人たちは反対しています。

この問題は、そもそも東電や環境省の不始末が重なったものです。福島第一原発の敷地はもともと地下水が多くて、多分事故前から地下水が流れ込んでいたと思います。事故が起きるまでは汚染がなかったので問題にならなかったのですが、事故後は、地下水が建屋に流れ込むと、壊れた炉心を冷却する非常に濃い汚染水と混じってどんどん汚染水が増えました。二〇一四年、凍土壁を造って地下水の流入を止める工事が始まった時は、まだ二〇万㌧ぐらいでした。結局、凍土壁は出来たものの地下水流入は止まりませんでした([図16])。

[図16]

 

いまやらなければならないのは、まずきちんとした遮水壁を造って地下水が入るのを止めることです。たまっている汚染水は、固めるか、大きなタンクにためて長期保管すべきです。トリチウムは半減期が一二年なので、その一〇倍の一二〇年、タンクに置いておけば一〇〇〇分の一に、さらに一二〇年置けば一〇〇万分の一になり、問題なくなります。

東電は場所がないと言っていますが、一〇キロ離れたところの福島第二原発も廃炉が決まっていて、そこに土地もあります。他にも、東電が建設を少し始めただけの青森県東通原発にも、かなり広い土地があります。

次世代革新炉とは何か

次に、岸田政権が原発回帰をなぜ突然打ち出してきたのか、という話です。昨年(二〇二二年)暮れに「基本方針」が発表されましたが、その前に「GX実行会議」というのを昨年の夏に内閣府で立ち上げています。GXとはグリーントランスフォーメーション、「緑への転換」ということのようです。

昨年七月二十七日に行われた第一回実行会議に出た文章を読むと、「産業革命以来の化石燃料中心の経済・社会、産業社会構造をクリーンエネルギーに移行させ、経済社会システム全体の変革、すなわちGXを実行するべく」とあります。原発がクリーンエネルギーだとは思えませんが、それはさておき、国家防衛戦略と同じで、身内で会議をやって、役人に作文させて「これが新たな方針だ」と出してくるやり方です。GX会議のメンバーは、議長が内閣総理大臣で、ほかは内閣官房長官、外務大臣、財務大臣、環境大臣など、それに「有識者」として、経団連会長、電力会社代表、連合会長などが入っています。

八月の第二回の会議で、次世代革新炉や原発新増設の話が出てきました。福島原発事故以来の原発を減らしていくという政策を、完全にひっくり返そうとしています。次世代革新炉とはどんな原発か、といった細かい話は、拙稿が本誌二〇二二年冬号に掲載されているので、また読んでください。

提案されている次世代革新炉五つのうち四つはまず実現しません。日本の電力会社も興味ないでしょう。GX実行会議の狙いは、「次世代」とか「革新」というコトバで世間の人々をたぶらかすことでしょう。技術的に実現する見通しがあるのは革新軽水炉だけです([図17])。BWRやPWRといった現在使われている原発の安全設備を増やしたものです。具体的にはメルトダウン、メルトスルーしてもその下に受け皿(コアキャッチャー)を置いておき、放射能が外部に漏れないようにする、最後の壁である格納容器を二重にして強くする、緊急時の冷却機能をアップするとかいう内容で、革新というより改良型です。

[図17]

 

これと似たものがヨーロッパのフィンランドとフランスがすでに造られています。ヨーロッパの改良型PWRであるEPRは、二〇〇五年にフィンランドで最初の建設が始まりましたが、当初の見込みの三倍の費用(一兆二〇〇〇億円)がかかり、一三年遅れのいまでもまだ完成していません。フランスも二〇〇七年からEPRを造っていますが、こちらも苦戦していてまだできていません。一兆円、二兆円とお金がかかるので、電力会社も二の足を踏むでしょう。

GX実行会議の資料を見て驚いたのは、核融合が革新炉の一つだったことです。私が大学の原子力工学科に入った一九六九年当時、PWRやBWRは二〇〇〇年ぐらいにはなくなり、すべて高速増殖炉に置き換わると習いました。しかし高速増殖炉もんじゅの計画は失敗してしまった。さらに、二十一世紀中頃には核融合が主役になると言われていましたが、五〇年間ほとんど進んでいません。核融合反応を起こすことはできるようになるでしょう。しかし、それを使って電気を起こそうとしたら、一億℃の温度で核融合を起こし、三〇〇℃の蒸気で発電をするということですから、技術的な困難が大きすぎます。日本でも核融合研究をやっていますが、お金がかかるので国際協力でやることになり、二〇〇七年頃から日、米、ロシア、インド、中国などが入って国際核融合実験イーター(ITER)計画が始まりました。フランスで実験炉が建設されていて、一〇年くらい先に核融合実験を予定していますが、発電はしません。

原発と利権

経団連会長の十倉雅和氏(住友化学会長)が今年の年頭インタビューで「原発は移行期の技術でゆくゆくは核融合にいかなければ人類の未来はない」(二〇二三年一月五日付、毎日新聞)なんて言っていますが、核融合の現状を知っている人は恥ずかしくてこんなことは言えないでしょう。その後で述べている「核融合の実現は三〇年後と言われている。その間は原発で核エネルギーをつくらなければいけない」というのが経団連会長の本音だと思います。

GX実行会議のロードマップをみると、一〇年間にGX全体で官民あわせて一五〇兆円の資金を投入するとあります。もちろん原発だけではなく、カーボンニュートラルなどいろいろな構造改革も含めてです。[図18]は次世代革新炉のロードマップです。「設計」という予定が並んでいて、一〇年経ってもどれもできていません。この間に何かやりますよという感じを出すための作文です。

[図18]

[図19]

 

原子力ムラの本音は、再稼働の加速と運転寿命の延長です([図19])。福島原発事故の後、約二〇基が廃炉になって、約三〇基残っている中、新規制基準を通ったのが一七基で、そのうち稼働したり止まったりしているのが一〇基、まだ動いていないのが七基あります。これを動かしたい、長く動かしたい、というのが電力会社です。民主党政権の二〇一二年の法律改正で、原発の寿命は原則四〇年、最長でも六〇年となりました。新増設がなければ、だんだん原発はなくなるという方針です。GX会議の動きは、その四〇年ルールを廃止するか、姑息に延ばそうというものです。原発が止まっていた期間を勘定に入れず、実質的に寿命を延ばそうという案が出ています。

福島原発事故のケガの功名は、「原子力ムラ」というコトバを皆さんが知ったことです。国の中枢に巣食っている、原子力利益共同体を指しますが、福島の事故でわかったのは、マスコミも学者もずぶずぶにムラにはまっていたことです。地方自治体、とくに立地自治体もずぶずぶの関係です。

原子力ムラを辿れば、田中角栄氏などに行き当たります。角栄さんは新潟の西山村という柏崎原発のすぐ近くの生まれです。二〇〇七年十二月の新潟日報に、刈羽村の元村長さんが、「一九七二年に四億円の現金を目白の田中邸に持っていった」と話しています。角栄さんが首相になる一年前ですから、総裁選の実弾用に使われたのでしょう。原発建設にかかわる土地ころがしの裏金です。

角栄さんが凄いのは、表のお金として電源三法を作ったことです。私たちの電気代に上乗せされている税金で、税率は少し下がりましたが、いまでも一〇〇キロ㍗アワー当たり三七円五〇銭取られています。特別会計に入るので、どう使われているのかよくわかりませんが、原発開発や地元対策にも使われてきました。

日本原子力発電という原発しか持っていない電力会社があります。不思議なことに、福島の事故から売り上げがゼロなのに、二〇二〇年の決算で七五億円の黒字になっています。電力会社が、我々から集めた電気料金から上納金を入れているのでしょう。福島原発事故の後始末には二〇兆円以上お金がかかるという話ですが、これも火事場泥棒ではないですが、その費用も廃炉作業、除染作業などで原子力ムラに流れています。驚いたのは除染作業です([図20])。飯舘村では二〇一四年から一六年にかけて大規模な除染が行われました。村は、人口六〇〇〇人余り、一七〇〇戸ほどですが、除染費用は三〇〇〇~四〇〇〇億円と言われています。一番大事なのは、被災者の生活再建ですが、この費用は被災者にはまったく渡らず、ほとんどゼネコンに流れていきました。

[図20]

 

日本の電気は余っていた!

原子力が経済的に成り立たないことは、国際的にもはっきりしてきています。東芝は原発投資で大失敗しました。二〇〇六年に米国のウェスティングハウス(WH)を買収しましたが、そこが大赤字を出して東芝本体も潰れかかっています。日立は英国で原発を造ろうとして三〇〇〇億円ぐらい投資したものの撤退、三菱もトルコに原発を造ると張り切っていたが、計画全体が五兆円になって金がかかりすぎるという理由で撤退しています([図21])。

[図21]

 

なぜそんなに経済性もないのに、日本は原発にしがみつくのか? その理由の一つが核オプションだと思います。福島の事故のあと民主党が原発撤退を言い出した時、読売新聞は「周りの国々が核を持っているのに、日本が原子力をなくしていいのか」という社説を出しました。いわゆる核オプションを維持せよということです。一九六八年に佐藤栄作首相が「持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則を決めた際、内閣調査室で「日本の核政策に関する基礎的研究」という勉強会が行われました。非核三原則を決めるにあたって、その研究の結論は、当時の米ソ冷戦、そして中国が核ミサイルを配備した状況の中で、日本が独自に原爆を作ることは得策ではない、ただ、いざとなったらいつでも原爆を作る技術的能力を備えておこう、というものでした。

これがいまでも続いていると私は思っています。しかし、誰が核オプションを引き継いでいるのかはよくわかりません。原爆を作る時一番のカギとなるのは、原発から出てくる使用済み燃料を再処理してプルトニウムを取り出し、それを使う技術です。そのためには再処理工場と高速増殖炉が必要です。高速増殖炉は失敗に終わりましたが、再処理工場は、動いていませんがまだ残っています。六ヶ所村の再処理工場は、一九九三年の建設始まりからもう三〇年近くになるのにまだ完成していません。すでに二、三兆円のお金をかけて、まだ計画が続いているという不思議な状態にあります。

[図22]

 

[図22]で私が言いたいのは、これだけ地震が起きる日本に、こんなに原発を造ったことがそもそもの間違いだったということです。電気が足りないから原発を動かせと言われていますが、電気は余っています。[図23]は八月の電力需給で、濃い色が最大供給能力、薄い方が最大需要です。二〇一一年の原発事故後、事故から二年ぐらいは「節電、節電!」と言っていたマスコミが、いつのまにか言わなくなりました。何が起きているのかと思って資源ネルギー庁の資料を調べたら、電気は余っていました! 節電・省エネが浸透したせいか、需要は戻っていません。縦軸の目盛りは一つ一〇〇〇万キロ㍗ですから、原発一〇基分ぐらいずっと余っていたというのがホントの状況です。

[図23]

[図24]

 

お終いになりますが、[図24]は日本の総エネルギー需要の変遷です。一九五〇年生まれの私の感覚からいうと、七〇年頃には日本の衣食住はだいたい足りていたと思っています。図の上の濃い部分が原子力です。エネルギー需要は減っていますから、いまが原子力を減らしていくいいチャンスです。点線は人口です。これからの人口減少とともにエネルギー需要をいかにスローダウンさせていくかが今後の課題だと思っています。原発というのは事故が起きたら周囲三〇キロまで人が住めなくなります。そんなものまで使って電気を作る必要があるのか考えてほしい、というのが私の話のまとめです。

[図25]は付録のスライドです。六年前、京都大学を定年になった際、家をリフォームしたついでに屋根に太陽光発電パネルを載せました。どれくらい役に立つものか自分でデータを取ってみようという魂胆でした。出力四・二五キロ㍗の普通の大きさです。この六年間の発電実績ですが、一度もトラブルなくよく働くので、正直びっくりしました。設置費用は一六〇万円で、一キロ㍗アワー三一円の買い取り価格で六年間に八二万円回収できています。一〇年経つと固定買い取り価格が終わり、それまでに費用の回収は難しそうですが、太陽光パネルで家庭の電気をまかなえることがわかりました。ちなみに暖房は石油ストーブです。

[図25]

 

最後に、私はなぜ原発に反対するか? 本日お話ししたように、私は五〇年原子力の勉強をしてきましたが、日本の原子力開発はずっとインチキまみれでした。原発事故の危険性と、今日はお話ししていませんが、高レベル廃棄物の厄介さを考えたとき、私たちの社会は、原子力をエネルギー源として利用すべきではないと考えています。

[二〇二三年二月四日、大阪クリスチャンセンターにて]

(「季節2023春」より)転載

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尾崎美代子 尾崎美代子

新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3.11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。

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