第21回 HLA・DQα法も実施、半袖下着「未鑑定」の謎
メディア批評&事件検証足利事件で使用された警察庁の科学警察研究所(科警研)によるDNA型鑑は、「MCT118法」だけでなく、ヒト白血球抗原の遺伝子の多型性に注目した「HLA・DQα法」も使われていた。筑波大学法医学教室の本田克也教授が、おや、と思ったのは、対照試料によっては「未鑑定」になっている。いったい、これはどういうことなのか? なにやら一波乱がありそうな気配が漂いだした。
というのも、未鑑定だった試料は、犯人とされた菅家利和さんの試料ではなく、被害者である松田真実ちゃんの半袖下着だったからだ。MCT118法では、菅家さんが捨てたティッシュペーパーに付着した精液と、さらには逮捕後に新たに採取した彼の血液がその半袖下着に付着していた精液のDNA型と一致したことになっていた。ズバリ犯人の型と一致したという。
ところが、ここで今、説明しているHLA・DQα型の結果は、菅家さんを逮捕する直前と直後に科警研が行った旧鑑定書に記されていた。ここで、タイムスリップしてみる。足利事件発生から18年7カ月後の2008年12月、再審請求即時抗告審で東京高裁(田中康郎裁判長)は、冤罪の疑いもありうるとして足利事件のDNA型再鑑定を正式に決定した。
翌年1月下旬から始まる「DNA型再鑑定」を前に、鑑定人に選ばれた弁護側の本田教授、検察側の大阪医科大学の鈴木廣一教授の2人には、東京高裁から旧鑑定書が郵送されてきていたのだ。
なんという巡り合わせなのか。弁護側の鑑定人に選ばれたのは、足利事件で科警研が使ったMCT118法が型判定できない欠陥があることを早い段階で指摘した本田教授だからたまらない。警察、検察の顔色が変わるのも無理はない。
本田教授は、正式な鑑定を行う時には、参考に送られてくる鑑定書など一切のデータを鑑定前には見ない。データを見て先入観で検査すると、そのデータに引きずられる可能性もあるからだ。
だから裁判所から送られてきた旧鑑定書は、再鑑定の検査が終わった直後に入念に目を通した。そこで、初めてHLA・DQα法が使われ、なんと菅家さんの試料であるティッシュぺーパーと血液は「1.1-1.3型」とあるのに、半袖下着は「未鑑定」になっているのに驚いた。
一方のMC118法は菅家さんと半袖下着の試料はいずれも、「16-26型」で、血液型も全てB型と同じだった。
MCT118法の補完のためにHLA・DQα法を併用するのは、良しとして、半袖下着が「未鑑定」とは本田教授にとって聞き捨てならない。再鑑定の検査で、半袖下着はかなりの抽出量だったことがわかるし、最初からMCT118法が使い物にならなかったことは欠陥発見者である自分が十分理解できる。そのうえで思うのは、「もしかして、本当はHLA・DQα法で検査を行い、その型が菅家さんの試料の結果と異なったのでは……」。
日本DNA多型学会内に設置された「DNA鑑定検討委員会」が、1997年12月5日の同学会第6回学術集会で「DNA鑑定についての指針(1997年)」を発表したが、その検討過程で控訴審から弁護団の主任を務めた佐藤博史弁護士らがDNAの全量消費を回避するために試料の保存を義務付ける案を提出したが、科警研側が猛反発し、会議をボイコットするなど尋常ではない振る舞いをし、何の規制もしない指針になってしまったことを本田教授は思い出していた。
何かがおかしい。科警研は、まさか足利事件で後に再鑑定になるとは予想もしていなかっただろう。もし、菅家さんの試料と異なる型が半袖下着から検出されていたならば、冤罪は証明できる。それだけではない。犯人に結び付く。そういえば、MCT118法の電気泳動の写真のネガも早々と処分していた。どうしてそんなことをしたのだ。考えただけで恐ろしくなった。
初めからMCT118法とHLA・DQα法で検査すると決めていれば、試料は後者のためにも残しておいたはずだ。前者の結果が不満足なものであれば、後者で再確認する意味は大きい。2枚の泳動写真から察すると、少なくとも二つの検査を行う必要量はあったと考えられる。そのうえで、何かの理由で科警研は「鑑定しなかった」ことにするしかなかったのだろう。
おそらく、もっといい結果を求めて検査を繰り返したのだろうが、さらに悪く、捜査側には不利だと判断され隠したのではないだろうか。
肌着の試料からいかなるHLA・DQα部位の型が検出されるのか。確かめる必要がある。それによって何か見えてくるかもしれない。本田教授は腹をくくった。
とはいえ、試料は全て足利事件の再鑑定で使い切り、残った試料は東京高裁に返した。だが、抽出した試料を入れたチューブはまだ捨てていなかった。チューブの内壁に乾燥したDNAがわずかでもこびりついていないだろうか。
本田教授のこれまでの経験では、ごく微量ながら残っていることがあった。やってみる価値はある。本田教授は早速、チューブ内に溶解バッファーを入れ、付着物を溶かし出した。しかしこれでは、DNAの濃度が極めて薄い。高度な検出技術がなければ鑑定できない。
そこで、頼むとしたらあの人しかいない。本田教授は閃(ひらめ)いた。かつての先輩、信州大学の太田正穂(まさほ)准教授だ。すぐに電話をかけ、今でもHLA・DQα法が可能か尋ねてみた。
太田 「検査キットはすでに販売されていませんが、最新の方法でもできますよ」
本田 「では、先生のところで検査をしていただけませんか」
快諾してくれたが、彼に迷惑をかけてはいけない。本田教授はブラインド・テスト形式で試料の由来を伏せることにした。
半袖下着の試料を「A」、菅家さんの試料を「B」、そして09年6月に、日本テレビの清水潔記者と、早い段階から足利事件の犯人ではないか、と「ルパン」と呼ばれる男を追いかけていた小林篤記者の2人から鑑定を依頼された男性由来の試料Xを「C」として、全ての検体の名前を匿名にした。
鑑定目的も、「死後変化が強い焼死体のサンプルから身元確認のための血縁鑑定を行っていただきたい」と、仮の理由を口頭で告げた。
梅雨時期には珍しく晴れた6月のある日、本田教授は、冷凍パックしたサンプルを車に載せ、信州大学に向かった。上信越自動車道の松本インターチェンジを出て約20分。大学の駐車場に車を止めたのは、つくば市を出発して約4時間後のことだった。
医学部付属病院は本田教授が大学を去った後に改築され(後で聞くと、基礎医学系の棟は改築前だった)、法医学教室への行き方が分からなかった。太田准教授に電話をかけると、「病院入口のロビーで待っていてほしい」と言われ、少し待つことにした。病院の雰囲気は、本田教授がいた頃とは変わり、近代的になっていた。17年間、ここを訪ねたことはなかった。
いや正確に言えば、訪ねることができなかった。法医学の振り出し時代の恩師である筑波大学法医学教室の三澤章吾教授の指示で大阪大学医学部助教授として若杉長英教授の教室に異動が決まると、福島弘文教授は激怒し、本田教授を絶縁状態にした。同門会の名簿からも除名され、足を踏み入れることができなかったのだ。本田教授が自ら望んだものと福島教授は誤解したのかも知れない。
当時の寂しさを思い出していると、太田准教授が歩いてきた。その笑顔を見たとたん、懐かしさが込み上げてきた。助手として入った時、彼は講師だった。本田教授は当時、福島教授を事細かに実験に口をはさむ少し煙たい存在に感じていた。助手にとって教授とは、たいていそういうものだろう。
福島教授は特に几帳面な性格で、電気泳動のバンドが少しでも傾いていたりバンドの両端が膨らんでいたりすると、直ちにやり直しを命じた。妥協を許さない厳しさは、今思うと、福島教授が実験に真摯に向き合う研究者の証だった。それでも、若い本田教授は福島教授に叱られ落ち込んだ。それを慰めてくれたのが太田講師だったのだ。彼がいたから福島教授の指導にも耐えられた……感謝の気持ちでいっぱいになった。
信州大学の法医学研究室の部屋数は昔から多く、部屋も広かった。助手のポストは、本田教授の他に1~2人分あった。本田教授と福島教授、事務員の他、麻酔科医や整形外科医、内科医なども法医学研究室に学びに来ていた。たくさんの医師と交流があり、とても賑やかで、本田教授も大きな刺激を受けた。しかし、太田講師は、1年半後に米国に留学した。彼が帰国する前に本田教授も大阪大学に移った。それ以降、学会などで顔を合わすことはあったが、連絡を取り合うことはなかった。
その太田准教授も今や、免疫性疾患のDNAタイピング(型判定)では多くの発見を成し遂げ、HLA研究では世界的権威者として名が知られている。挨拶を交わした本田教授は、オアシスにたどりついたかのようなつかの間の癒しを味わった。たった一人で孤独な闘いをしているような状況にあったからだ。
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独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。