編集後記:奏子ちゃんと周子ちゃんに届けこの一曲
編集局便り3月に亡くなった世界的な音楽家として名高い坂本龍一さん(71)の曲の中でも一番好きだった「Put Your Hands Up」を久しぶりに聞いてみた。いつ聴いても胸に響くメロディー。思わず胸が熱くなった。20余り年たっても心に残る事故が蘇ってきたからだ。
朝日新聞の先輩だった故筑紫哲也さんの司会で始まるTBSテレビの「News 23」のエンディング曲で、1997年10月から2005年3月まで流れた。一日の最後の時間帯の番組で、98年から2年余り警察庁担当だった私は、記者室でこの曲を聞いて仕事を終える日々だった。
事件記者という仕事柄、痛ましい事故や事件に向き合う。怒りや悲しさで落ち込んだときにこのメロディーにどんなに励ましてもらったことか。
忘れもしない。1999年11月28日白昼、東京都世田谷区の東名高速道路で、千葉市の会社員井上保孝さん(当時49歳)、郁美さん(31歳)夫妻ら一家4人が乗った乗用車が大型トラックに追突されて炎上した。約50㍍押された車の後部座席にいた長女の奏子ちゃん(3歳)と次女の周子ちゃん(1歳)が絶命した。
その場で逮捕された男性運転手(55)は、高知県の運送会社に34年間勤める努めるベテランだった。しかし、事故前日に大阪行きのフェリーの中、さらに当日昼間にはサービスエリアで大量に酒を飲んでハンドルを握ったのだ。
ところが一審判決は、幼い2人の命を奪っていながら業務上過失致死傷罪などで、たったの懲役4年。夫妻は愕然とした。「命の尊さを問う魂の入った法律はないのか」。同じ飲酒事故の遺族らの「悪質ドライバーの法定刑見直し」を求める署名活動に加わった。
夫妻を奮い立たせたのは、車の残骸から見つかった、チャイルドシートの焼け残った金属製の留め金だった。娘たちがきちんとベルトを締めていた証し「パパ、ママ頑張って」。子どもたちが身をもって両親に送り続けるサイン。涙がこぼれた。「無邪気な子どもたちがちゃんとルールを守っているのに、大人は悪びれずに飲酒運転している」。納得がいかず臨んだ控訴審は棄却された。「飲酒運転は偶然の事故じゃない。故意犯で命を奪っても、最高で懲役5年の今の法律はおかしい」と訴える活動を始めた。
悲しみを乗り越えての活動は、人々の心に命の尊さを芽生えさせた。法改正を求める署名運動は37万人を超え、ついに国を動かした。子どもたちが亡くなって2年。命日にあたる2001年11月28日、危険運転致死罪を新設する刑法改正案が国会で成立。酒酔い運転などで人を死亡させた場合、最高刑は懲役15年になった。さらに14年5月には自動車運転死傷行為処罰法が施行された。
石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞記念講座と言うものが毎年受賞者をメインに早稲田大学で開催される。同賞の受賞者でもある私は、その講座に井上夫妻の悲しみを乗り越えて国を動かし事故防止の血の通った法律に改正させた活動を若い学生たちに聴いてもらいたいと主催者に頼み、実現した。学生たちが食い入るように夫妻の話に耳を傾けた。肩を震わせている人やハンカチを目に当てている人もいた。この若者たちにも期待したい。
井上夫妻には事故後、4人の子供に恵まれ、16年1月から家族全員でオーストラリアのメルボルンで生活し、21年1月に大学生である長男を残して家族は帰国した。つい最近、電話をかけたら、未だ後を絶たない飲酒事故防止の運動を続けると元気な声が私の耳に響いた。その夜、またあの曲を聴いた。奏子ちゃんと周子ちゃんにも届いたかな、この曲。井上さん一家の幸福を願わずにはいられない。
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独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。