イラク戦争とこの20年を振り返る
国際
イラク戦争から20年が過ぎた。
2003年の戦争開始時、私はまだ大阪の吹田市役所職員で、有給休暇をとってバグダッドに飛んだ。
米軍のトマホークミサイルでバグダッドは瓦礫の街になっていた。内務省、航空省、サダムタワーなどほとんど全ての省庁が粉々になっていたが、唯一空爆されなかったのが石油省だった。
「大量破壊兵器を隠し持っている」「フセインはアルカイダとつながっている」など、アメリカのウソで始めた戦争だったが、「本音はやはり石油」だった。
この時に撮影した映像や写真はテレビ番組で放映され、地元吹田市の公民館などで写真展も開催した。当時は誰もが「あなたが現地に行ってくれるから実情を知ることができた、ありがとう」という反応だった。
1年後の2004年4月5日、やはり休暇をとってバグダッドに入った。
ヨルダンのアンマンから国道をぶっ飛ばす。この国道は通称「アリババ街道」と呼ばれていて、バグダッドを目指すジャーナリストたちをターゲットにした強盗がよく出没していた。
アリババ街道をぶっ飛ばすこと8時間、ユーフラテス川が迫ってくると茶色い大地が緑に変わる。
激戦地ファルージャに入る。バリバリバリ、攻撃用アパッチヘリが地面スレスレに飛んでいる。国道沿いには米兵と後ろ手に縛り上げられたイラク親父たち。「かわいそうに、ヤツらはアブグレイブ刑務所行きだ」。通訳のハリルがつぶやく。そう、この時まさに米軍のファルージャ総攻撃が始まったのだった。
トランクに積み込んだポリタンクでガソリンを補給。アンマンからだとちょうどこの辺りでガス欠になる。ガソリンスタンドがあるが、ここで停車するのは危険だ。
しばらく行くと米軍の戦車が「アリババ街道」をふさぎ、民家の上空でホバリングしたアパッチヘリが銃撃を加えているではないか。ハリルは上手に抜け道を使って、ファルージャをすり抜けてくれた。映画のような現実を目の当たりにして、なんとか無事にバグダッドに到着した。
吹き荒れた「自己責任論」のバッシング
その2日後だった。「ニシ、大変だ。日本人が捕まったぞ」。ハリルが慌ててテレビをつける。目隠しをされた3名の日本人が大写しになり、「3日以内に自衛隊を撤退させろ、さもなくばこの3人を焼き殺す」。武装勢力が小泉首相(当時)へ要求を突きつける。
このあと首相が「危険なイラクに勝手に入って捕まった。迷惑なんだよな」とコメント。日本では自己責任論が吹き荒れ、猛烈なバッシングが始まった。3人はあのガソリンスタンドで拘束された。もしハリルが予備のガソリンを積んでいなかったら、私が人質第1号になっていたかもしれなかった。現地はそれほど緊迫していた。
その2日後の4月9日は「フセイン打倒1周年」だった。フセイン像が倒されたフィロードス広場は立ち入り禁止になっていた。1年前は世界中からマスコミが来て大々的に報道したが、この日の広場はほとんど報道されていない。実はこの時すでに日本のマスコミはバグダッドから消えていた。人質事件を受けてテレビ・新聞の記者は自衛隊のいるサマワに逃げ込んだ。そして自衛隊機で安全にクウェートまで輸送されたのだ。
当時「イラクに自衛隊を派兵すべきか否か」が問われていた。自衛隊基地に逃げ込んで、さらに輸送されてしまえば、公平公正な報道はできない。ヤクザの親分に酒を振舞われたら、暴力団の批判記事は書けないのと同じだ。「事件に巻き込まれれば、今度はうちの社が批判される」。自己責任論は大手メディアをも縛り上げていたのだ。
米軍はなぜ「1周年のあの広場」を遮断したのか? この時の世論の大勢は「フセインも嫌だが、米軍はもっと嫌」だったので、広場を開放すれば大勢のイラク人がここに集まり、反米集会を開くからだ。
3名の日本人は約10日後に解放され、無事帰国した。私は4月末に帰国したが、「公務員のくせにイラクに行くとはなにごと」「もし捕まったらどう責任をとるのか」といった批判に晒され、市役所を辞めてイラクに行き続けるか、イラクを封印して定年まで働くか、の2択を迫られた。その年の末に退職し、フリーになった。
確かに自己責任論は窮屈で、1つのキッカケではあった。でも本当の理由は「戦争を見てしまったから」だ。上の写真は、今まさにロケット弾が命中して燃え上がるトラック。米兵2名が殺害された瞬間だ。
もう一枚の写真は米軍が使用したクラスター爆弾の不発弾で右目を失った少年。米軍は劣化ウラン弾を大量に使用した。イラク各地で先天性の奇形児が大量に産まれていた。全てが私の想像を超えていた。なんと理不尽なこと! フリーになってこうしたことを伝えたいと思った。
市役所を退職して自由にイラクに行けるようになったが、翌2005年~2008年は危険すぎて入国できなかった。
バグダッドは簡単に言えば、チグリス川から西がスンニ派、東がシーア派の内戦状態となり、大量の難民が発生した。米軍の空爆では逃げなかった人々が、内戦では主に隣国シリアに逃げ込んだ。私は首都ダマスカスでたくさんの難民と出会ったが、まさかその5年後にシリアもまた瓦礫の街になるとは想像もしなかった。
自衛隊イラク「日報」に残された闇
2009年3月、イラクの危険度が下がってきたのでバグダッド入りを敢行した。首都から一時間ほど車を南へ走らせればマフムディーヤだ。この街は2004年5月にジャーナリストの橋田信介さん、甥の小川功太郎さんが射殺されたところである。
そこから当時の激戦地カルバラを通り、7時間のドライブでサマワに到着した。街の入り口に検問所があってパスポートを見せると「お前はダメ、入れない」。なぜか日本人だけサマワに入れないようになっていた。サマワの警察官は「日本政府の許可証がないと日本人は入市できない」と告げた。サマワはカルバラやマフムディーヤより安全な街だ。私は激戦地には入れても、サマワにだけは入れなかった。
陸上自衛隊が駐屯していた約3年間で、数回にわたって基地に迫撃弾が撃ち込まれた。そんな報道が何度かあったが、そのたびに防衛省は「死亡者、負傷者ともにゼロ」と発表していた。
一方、バグダッド在住でサマワが故郷の人物は「自衛隊が撤退した後、自衛隊のイラク人通訳が武装勢力に殺害された」と証言した。米軍の通訳もたくさん殺害されていることから、自衛隊の通訳も標的になったようだ。そんなことを確かめに行くつもりだった。
当時はイラクの日報は開示されていなかった。政府発表によれば、帰国後に鬱になって自殺した自衛隊員が10数名、死因不明者も10名以上出ているとのことだ。迫撃弾は着弾すると、破片が飛び散って周囲の人々を殺傷する。数回にわたって自衛隊基地に迫撃弾が撃ち込まれたが、発表通り、もし死傷者が1人も出なかったとすれば奇跡的だ。
この10名以上に及ぶ死因不明は一体何か? 自衛隊員は専門の病院で治療を受ける。医師が隠そうと思えば隠し通せるということだろうか?
イラクの日報はまだかなりの部分が黒塗りのまま。サマワの闇は深い。
確実に言えることは、陸自が撤退してから2年後にサマワを目指した私が、なぜか日本人であるということを理由にサマワ市にだけは入ることを許されなかった、という事実だ。
「トルコビル」の現実
2018年3月、アフリカ南スーダンの首都ジュバに入った。ジュバ国際空港の隣に国連のPKO部隊が駐屯していて、その隣が自衛隊の宿営地である。
宿営地のすぐそばにトルコ資本が建設中の9階建てのビルがあって、現地では「トルコビル」と呼ばれていた。この国は何でもワイロで動く。見張りの警官に100ドルつかませてビル内部に入り、5階の踊り場から外を見る。ここから自衛隊の宿営地、その向こうに空港が1望できる。
2016年7月8日、ジュバで内乱が勃発し、反政府軍約200名がこのトルコビルに立てこもった。空港には約400名の政府軍がいて、激しい戦闘になった。自衛隊の宿営地を挟んで、つまり隊員たちの頭上を無数の砲弾、銃弾が飛び交っていたことになる。凄まじい恐怖の中、隊員たちは戦闘が収まるのをじっと待つしかなかった。そして、南スーダンの日報もこの時は隠蔽されていた。
のちに公開された日報によると、「TK射撃含む激しい銃撃」とある。TKとはタンク、つまり戦車のことだ。反政府軍は国連の助けを求めてこの場所にやって来て、ちょうど建設途中のトルコビルに立てこもった。それを追いかけてきた政府軍が空港から銃撃を加えていたという構図だ。
そして政府発表によるとイラク同様、帰国した自衛隊員に2名の自殺者、そして1名の傷病死者が出ている。日報には「宿営地に着弾」とある。この2名は恐怖でPTSDになった。1名は着弾した砲弾で負傷し、のちに死亡した。そう考える方が自然である。
第2次安倍政権は小泉政権より悪質だった。ジュバで戦闘が勃発した3カ月後の2016年10月、稲田朋美防衛大臣(当時)は、わずか7時間の視察で「ジュバは安全」と断言してしまう。そして安倍政権は日報を隠蔽したまま、「戦闘ではなく衝突」とウソをついて自衛隊に新任務を付与する。「駆け付け警護」と「宿営地の共同防護」だ。
2017年10月、「駆け付け警護」に伴う公開訓練が行なわれた。「暴徒がいる建物から国連職員を救出する」という想定で、銃を構えた自衛隊員が文字通り「駆けつけて」救出する様子がテレビに映し出された。
実際の現場は戦車砲が飛び交い、政府軍は戦闘機とヘリを持ち、空爆まで行なっていたのだ。もし戦闘の現場に自衛隊員が「駆けつけ」たとすれば、それはまさに「殺されに行くようなもの」だ。
当時の国会でこの問題を問われた安倍首相(当時)は「(ジュバは)永田町よりは危険」と答弁した。自衛隊の最高指揮官である首相がこんなふざけた答弁をする。小泉首相(当時)もイラク派兵について問われた際に「自衛隊の活動するところが非戦闘地域」と答弁していた。2世3世の世襲議員、戦争の悲惨さを知らない苦労知らずのボンボンをトップに据えざるを得ない自衛隊の現場こそ、不幸である。
岸田文雄か、中村哲か
最後にこの30年を時系列で振り返りたい。
1991年の湾岸戦争では、多国籍軍の猛烈な空爆で戦争は短期で終わった。
当時、日本は130億ドル(約1.7兆円)という巨額の戦費を肩代わりしたものの、軍隊を派兵しなかったので、アメリカから「ショーザフラッグ(日の丸を見せろ)」と批判される。
2001年に9.11事件が起きてアフガン戦争が始まる。この時は直接カブールに派兵することはせず、遠く離れたインド洋に海自が派兵され、米軍の戦闘機に給油するという「アメリカのガソリンスタンド」になる。
続く2003年のイラク戦争では「ブーツオンザグラウンド(軍隊を派兵しろ)」と迫られ、とうとうサマワに派兵してしまう。しかしこの時は「戦闘行為には参加しない」と確約を取り付けたので、オランダ軍に守られた中での人道支援活動に特化したものにとどまる。
そして2012年から5年間に及ぶ南スーダン派兵が始まる。その最中の2015年9月、「集団的自衛権の行使」が容認され、安保法制が強行採決される。そして2017年に「駆け付け警護」が新たに加わって、自衛隊は積極的に実力行使ができる軍隊になってしまう。
さらに2022年に敵基地攻撃能力を持つことになり、自衛隊は先制攻撃もできる「アメリカの2軍」になった。
その後、安倍銃殺事件が起こって「妖怪の孫」は消えたものの、その「亡霊」が岸田文雄内閣に取り憑き、ウクライナ戦争・台湾有事を口実に5年で43兆円もの軍事費急増を閣議で決めた。アメリカにGDP2%を約束してしまっているので、今後ますます軍事費が急増し、沖縄本島をはじめ南西諸島に基地が建設され、その反動で社会保障は切り捨てられて、挙げ句の果てには大増税が待っている。
これが、この30年間の自衛隊の軌跡である。
私たちは今こそ、中村哲さんに学ばねばならない。
アフガンの砂漠に用水路を建設し、東京ドーム3千個以上の砂漠を緑に変えた中村さんは、「武器ではなくコメと小麦で平和を」と訴え続けていた。そして実際に65万人の命を救い、用水路のある地域は豊かになって平和になった。
一方、アメリカはイラクとアフガンでの「テロとの戦い」で、90万人を殺害した。ロシアは今日もウクライナで罪なき人々を焼き殺している。私たちはどちらを選ぶのか?
この夏には解散総選挙が強行されるかもしれない。このペースで軍拡を進めれば間違いなく日本は破産する。次の選挙の争点はズバリ「岸田文雄を選ぶのか、中村哲を選ぶのか」だ。
その後、紆余曲折があったがフリーになって本当によかったと思う。ラジオでたくさんの方々と交流できるし、あれ以来アフガン・ウクライナ・シリアなど様々な国へ行くことができた。私の人生を変えたイラク戦争から20年、今またウクライナで劣化ウラン弾が使われようとしている。ロシアはクラスター爆弾をすでに使用しているようだ。還暦を過ぎたが、もう少し現場を踏んでみたいと考えている。
(月刊「紙の爆弾」2023年6月号より)
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大阪府吹田市役所勤務を経て、フリージャーナリスト。NGOイラクの子どもを救う会代表。新刊『自公の罪 維新の毒』(日本機関紙出版センター)。