第32回 まるで昭和の話題映画「白い巨塔」の法医学会の現実
メディア批評&事件検証大阪大学の本田克也助教授の古巣である筑波大学が裁判所嘱託である「大分みどり荘事件」のDNA鑑定で冤罪を生んでしまった。
みどり荘事件の一審では1989年3月に輿掛良一被告の自白と科学警察研究所(科警研)の毛髪鑑定(形態)を重視して無期懲役の有罪判決になった。しかし、事件現場の遺留品であった犯人の毛髪は直毛であり、事件当時、パンチパーマだった輿掛被告と一致しないなど、鑑定書に多くの矛盾が指摘され、毛髪鑑定の信用性に疑義が生じたため、毛髪からのDNA鑑定が検討されることになった。そして裁判所は職権で筑波大に鑑定を嘱託したのだ。
それを同大の三澤章吾教授が受けた。DNA鑑定を実際に行ったのは、当時筑波大学の研究生だった本田氏の先輩にあたる原田勝二助教授である。三澤教授は、この鑑定をまだ研究員ながらDNAの鑑定能力からすると、原田助教授よりもはるかに勝る本田研究員に任せようと考えていた。
しかし、大した鑑定能力もない原田助教授の本田研究員への嫉妬というか、後進に手柄を取らせたくない思いからか、みどり荘事件のDNA鑑定を自分がするように仕向けるために懇意にしていた信州大学教授になったばかりの福島弘文氏に相談し、本田研究員の追い出しを画策。三澤教授を言葉巧みにだまして信州大学への異動に成功したのだ。
そして上司である三澤教授に無断で挑んだみどり荘事件のDNA鑑定は、原田助教授がこれくらいはできると思ったほど、おいそれとはいかなかった。当時、黎明期であったSTR部位の一つであるACTBP2(SE33)による毛髪からDNA鑑定が実施された。2年後、現場から採取された毛髪の中の1本から、輿掛良一被告のDNAと同じものがあったという鑑定が出された。
ところが裁判の法廷では、電気泳動の型判定の精度が低いところを弁護団にこっぴどく突かれ、原田助教授から「鑑定結果は似ているというだけで同一とは言えない」という証言を引き出し、逆転判決となってしまった。マスコミは一気に「DNA鑑定神話の崩壊」とその筑波大の低レベルの鑑定をたたいた。
まさに、この一連の出来事は、まるで、60年代に一世風靡された故山崎豊子の長編小説で、俳優の田宮二郎が主演した66年の映画化以来、何度も映像化された医学界の腐敗を鋭く追及した「白い巨塔」そのものを彷彿させるものだった。三澤教授は、本田研究員を将来のためだと信じて信州大に出してわずか2年半で大阪大の若杉長英教授のもとへ助教授として有無を言わさず、異動させた。それは、原田助教授たちの画策を知り、愛弟子の将来を案じての行動だった。そこで素晴らしい上司に巡り合える。その出会いが今の「DNAの本田」を作ったのだ。後に取材で本田氏にその話を聞いたときには思わず涙が出そうになった。
筑波大の原田助教授の失敗は唯一、捜査機関のDNA鑑定を監視してきた大学のDNA研究にも影響が出、晴山事件の再審請求審での弁護団のDNA鑑定を引き受けてくれる法医学者を探したがことごとく断られ、万事休すの事態に陥ることになってしまったのだ。さあ、その後に晴山事件の裁判はどうなったのか、興味津々だ。
国内のそんな状況とはいえ、札幌高裁は予定通り動いた。95年4月21日の三者協議の席上、DNA鑑定実施を明言。検察、弁護側の当事者に鑑定人の推薦を命じた。そこで議論した際に高裁の意向としては、通常の染色体DNA鑑定を構想していたが、弁護側がミトコンドリアDNA鑑定の可能性も示唆すると、鑑定方法も含め、意見を述べて構わないということになった。
弁護側は、東京大学在籍中に晴山事件のガーゼ片のDNA検査に関与し、鑑定人の第一候補者と考えていた塚本哲医師に対して鑑定受託環境を確かめるとともに、鑑定構想について意見を求めた。塚本医師は、鑑定受託環境は困難らしいということで、鑑定人候補者の推薦を見てもらった。
塚本医師は鑑定方法としては、semi-nested PCR法の応用により染色体DNA鑑定も適応性が高まっているからミトコンドリアDNA鑑定のみにとらわれなくてもいいのではないかと意見を述べ、塚本医師が所属したことがある帝京大の吉井富夫講師と、ミトコンドリア研究で評価ができるものとして大阪大の本田助教授を推薦した。
弁護団は検討した結果、まずは大阪大に弁護団を派遣、鑑定受諾の意向を探った。同大の若杉教授は、本田助教授をDNA鑑定研究の第一人者として推薦、本田助教授がやってもいいと快諾してくれれば受諾するとの回答を得た。その際、鑑定構想として本田助教授は高感度な2段階増幅法であるnested-PCR法(ウイルスゲノムの検出等に用いられている方法)による高感度DNA鑑定の可能性を示唆、その研究を積み重ねているということであった。
また、ミトコンドリアDNA鑑定についても先進的な塚本論文を評価しつつも、批判できるまで研究を重ねている旨述べた。参考に頂いた関連論文等を研究したところ、極めて有意義な基礎研究を重ねていることが分かり、本田助教授の実績と能力は評価できるとの結論に達し、最終的に鑑定人候補者とすることに決定した。
この決定に大きくかかわった笹森学弁護士は、日本弁護士連合会(日弁連)の中でもDNA鑑定に精通した人物の1人で、この後の足利事件の弁護士としても活躍する。
同年8月14日付で弁護側と検察官の双方が「鑑定の実施に関する意見書」を提出し、弁護側は大阪大法医学教室の若杉教授と本田助教授を推薦、検察官は警察庁の科学警察研究所(科警研)の笠井賢太郎技官を推薦した。
運命のいたずらなのだろうか。足利事件のDNA鑑定で米国のユタ大学でMCT118法を持ち帰った科警研の笠井技官と、かたや、その鑑定がまともに鑑定ができない欠陥技術の鑑定法で冤罪を指摘した本田助教授との対決とは、なんと驚くべき巡り合わせであろうか。また、その両人の結果がどうなるのか、それには我ながらワクワクしてきた。
さて、弁護側の同意見書では、①マイクロサテライトの危険性を憂い、VNTRを対象とすべきであること、②ミトコンドリアDNA鑑定も考慮すべきであること、③鑑定試料の極微量性から①②を行わせるために鑑定人は一人とすべきこと、④科警研には鑑定人としての当事者適格がないこと、を主張した。また捏造の可能性をなくすため、被告人からの試料採取以前に、証拠品からのDNA鑑定結果を提出してほしい、という条件も付けた。しかし結果としてこれを守ったのは本田鑑定人だけであって、科警研の笠井技官は無視した。つまり捏造がいかようにでもできる方法で鑑定を行ったのである。
この事件の再審請求審で札幌高裁は95年12月、北海道大学と東京大学に保管されている被害女性2人の膣内容物をぬぐったガーゼ片合計16点と再審請求人である晴山廣元死刑囚の血液とのDNA型鑑定の実施を決定した。その1月前の三者協議で北大保管委託のガーゼ片は大阪大に、東大保管のガーゼ片は科警研に鑑定させることが決まっていた。
こうして裁判所嘱託のDNA型鑑定は軌道に乗ったのだが、トラブルもあった。鑑定すべき試料は受託裁判官が指定する旨の解釈をめぐって裁判所の見解に疑義が生じた。裁判所書記官の弁護団に対する報告では、北大のものを大阪大に、東大のものは科警研にとは限らないという事であった。それは科警研が試料を見分させてもらい、その中からいいものを選ばせてほしいと言ってきたからだ、という。
読者の皆さん。この科警研のこっそりと自分たちに都合のいいように仕向ける姿勢。とても法を順守する公平な捜査をする機関の行動とは思えないほど吐き気を覚えるのは、私だけでしょうか?弁護側抜きの申し入れは裁判としては、フェアでないのは明らかだし、そうしないと勝てないのかと考えるとこの科警研の連中の人としての価値も疑いたくなる。
しかもことはミクロの世界のDNAである。肉眼で見ただけで、いいものか悪いものかわかるはずはない。したがってここは、同じ試料から鑑定させてしまえば比較されてしまうから、それを避けて、結果が一致しなくてもいいように、つまり好きなように結果を出すよう捏造してもわからないようにする科警研の陰謀であった可能性がある。
そんなことがあって弁護団は、12月12日付で「鑑定実施に関する意見書(二)」を裁判所に提出。分配問題は解決済みとして抗議し、科警研の姿勢を批判するとともに緊急の三者会議開催を求めた。その三者会議は、15日後の同月27日に開かれ、裁判所は北大の試料は大阪大に鑑定させることを確約した。
この決定に基づき翌96年1月30日、大阪高裁において笠井技官と本田助教授立ち会いのもとにガーゼ片の見分と配分並びに笠井技官に対する鑑定人尋問が実施された。この中で笠井技官は、鑑定試料を見聞した上、選択させてくれる約束だったと裁判官に抗議、裁判官はこれは請求人申し立て鑑定であること、分配権限は受諾裁判官たる自分にあるとして認めなかったが、笠井技官はなおも上司への釈明を求めると要求し裁判官が応じる一幕もあった。
ところで、この鑑定を行うために本田助教授は、最先端のDNA研究を進めた。それは膣内溶液からのDNA鑑定を行うには、混合試料から男性由来DNAを高感度かつ選択的に検出するY-STR法でなければならない、という信念であった。Y-STRについては当時までにフンボルト大学ベルリンのローワー氏がDYS19という多型のみを発表していた。ところが95年の9月開催のスペインでの国際DNA学会では、フンボルト大学ベルリンのローワー氏が、さらに多数のY-STR部位について発表する予定になっていたことに本田助教授は目をつけ、学会の場でローワー氏に自らの研究と鑑定の予定について説明し、共同研究の約束を取り付けた。
そうして96年4月に開催された「法医学的Y染色体ワークショップ(Forensic Y User Workshop)」の主要メンバーとして本田助教授も参加したのである。これがすべての始まりであった。
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独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。