【書評】 嶋崎 史崇 著『ウクライナ・コロナワクチン報道にみるメディア危機』(本の泉社、2023年6月)
映画・書籍の紹介・批評編注:本書の序章は、以下のサイトで試し読みできますので、参考にしてください。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784780722420
”あとがき”を見れば分かることだが、評者は、畏友、嶋崎君の玉稿を、本来は別の論文として準備された草稿段階で目にしている。しかし、その学際を標榜する”媒体”は、嶋崎君の原稿をこともあろうに、「学術研究」を目的としたものではなく、「オピニオン」にすぎないと切り捨ててしまった。確かに、嶋崎君の草稿は、お世辞にも”読みやすい”とは言えないもので、内容に”飛躍”や”過剰なレトリック”もあったから、”修正”は必要であっただろう。だが、評者は、それ故に「学問的」ではない、とは全く思わなかった。奇しくも、「半ポスト真実」を論じた本書が「排除」されたということに、評者は「学問」ではなく、「学術」と自称して憚らない、今日の、斯界の、深刻な水準を垣間見るのである。つまり、ある”フォーマット”に即していないものを、読む力が著しく落ちているのだ。
そもそも、書評というのは、内容の要約と評者の見解を記す”フォーマット”が自明視されているが、そんな二番煎じを読むくらいなら、評者はまず、嶋崎君の”原著”に当たって欲しいのである。そして、関心を持ったものだけでも良いから、嶋崎君が読者の便を考えて付した膨大な注に当たって、さらに嶋崎君の調べで不足しているなら、さらにその奥にまで、読者自身に分け入って欲しいのである。そうでない限り、自分の”信念”に基づいて、嶋崎君の論述を”信奉”しているにすぎないし、私の想像では、嶋崎君は本書で取り扱った”問題”について、真摯な応答が活発になること、つまり問題に関するおしゃべりを内心では、期待しているはずだと思うのである。
けれども、不老長寿でもないのに、自身の身体では扱い切れない事象が通り過ぎていく現代人にとって、本書の内容を”全く”紹介しないのも”不親切”であろうし、自分で読むためのヒントになりそうなことぐらいは書評である以上、書いておくべきだろう。そもそも、本書は残念ながら、内容の”重大性”にも拘わらず、細かな論点を追い駆けているうちに、全体として何かが語りたいかが、見えにくくなりやすい本でもある。勿論、嶋崎君はその点に自覚的であった。しかし、それでも論旨という骨組みだけでは語り切れないこと、つまり、論旨からは”些細”に見え、省けることだが、実際には切り捨てられないことまで、文量の許す限り、なるべく語り尽くそうとしたのである。彼の著作は、その意味で、単なる「中立」もしくは「親ロシア」や「反ワクチン」の考えを”主張”し、”弘め”ようとするものではない。つまり、読み手自身の”信念”を問い直すための著作であって、評者は、読者が自身の”信念”を強化するために、本書を活用しないことを心から願っている。
本書全体の内容を予め示している序章は飛ばそう。第1章はウクライナ報道を”例”に、嶋崎君が提起した「半ポスト真実」の概念を示すものである。ただし、現に起こっている”戦禍”が、単なる”例”では有り得ないし、丹念な具体的事実の積み重ねの果てに”普遍性”の欠片が漸く見えてくるのである。この”戦禍”について、どう考えるかは、様々な見え方が”乱立”し得るだろう―個人、階層、地域などによって。”戦禍”全体を大雑把に眺めるには、余りにも、人は特定の時空間に制約されている。ただ一言だけ述べるなら、”戦禍”が起きる前、人は”あの地域”に、そこまで、深い関心を寄せていたのだろうか。世界には(潜在的な場所も含め)、紛争地は数多存在する(し、過去に「半ポスト真実」的であれ、報道されてきたものもある)。その中で、なぜ、「今」、”あの地域”「だけ」に関心が向かうのだろうか。もし、本当に”戦禍”を避けたかったなら、戦争”前”に”あの地域”での「反戦」を主張していなくてはならなかったはずだ。そもそも、何の背景もなく、ある日突然、戦争が起こるなどということは有り得ない。どの”タイミング”で戦争が起こると想定出来るかは別として、戦闘継続の(補給を含む)軍事能力無しに、加えて(ある当事者にとっての)何らかの過去に存在した”遺恨”無しに、戦争など起こりようがない。実際に、”熱戦”が始まってしまったら、それなりの”覚悟”があって開戦に至っており、そのうえ戦争は大国指導者層(と国内の”多数”世論)によって世界を敵/味方に区分する以上、戦争を終わらせるには”善悪の彼岸”の下、好むと好まざるとに拘わらず、停戦交渉を始める他ないのだが、その可能性は幾つかの例外を除いて、(述べられることはあっても)真剣に探究されるには至らない。大体、戦争で軍需企業は”儲かる”のだ。泥沼化する要因こそあれ、人の”願望”は虚しく、”正義”の裁きを人間自身が下すには決して至らない。もし、(ある当事者にとっての)”正義”の裁きをどうしても下そうとするなら、究極的には敵を”殲滅”するほかはない。ただし、戦争の”大義”に殉ずるために、手段を選ばない限りにおいて、その”大義”が”正義”に叶う保障は無いのだが。所謂、ウェストファリア体制を源流とする、国際法秩序は、対国家間の戦争違法化という今日までの到達点において、その効果を発揮するように見える場面があるのも確かだが、他方、「現存」の国際秩序の”全て”が力対力の衝突ではなしに、”法の支配”という「理想状態」であるとまでは言い難い(こうした剥き出しの”暴力”は非国家の紛争場面で顕在化する)。嶋崎君が提起した問題は、報道が、こうした”複雑怪奇”な現実を、「単一」のストーリーに落とし込み、その語りだけが信じるに足る「事実」だと無条件に追認し、その語りの傾向が”大勢”として積み重ねられていくことによって、人が物事を多面的に検討することが出来ない状況に至らしめられているのではないか、ということなのだろう。ただ、嶋崎君が言うように、仮に多面的な見解が正当な言説地図に沿って併存しさえすれば、人が物事を”正しく”判断できるようになるかと言うと、人はそもそも責任を伴う判断自体を回避したがるからこそ、複雑さを縮減した「単一」のストーリーが好まれているようにも見える—依拠したストーリー(やその伝聞的素材)が誤っていたのであって、自分が間違えた訳ではない、とでも言いたいかのように。
第2章は、ウクライナ報道と同様の、「半ポスト真実」的事態が、一見全く異なる問題と思しき、新型コロナワクチン報道で”も”見られるということを明らかにしている。つまり、「半ポスト真実」の概念というのは、嶋崎君が取り上げたウクライナ報道や新型コロナワクチン報道”以外”にも適用可能な射程を持つ、報道体制・姿勢それ自体の問題なのである(読者も身近に例を探してみると良いと思う)。特に、ウクライナ報道以上に、プラットフォーマーの”規制”が強く、「十分な情報が与えられない状況」に加え、「情報発信の偏り」があって、果たして人は”正しく”判断できるのか、ということをここで嶋崎君は問うている。だから、(十分な情報が与えられ、情報発信の偏りが「全体」として乏しい状態であるなら、特に”成人”の)「接種を受けたい人の自由意志や選択」までを否定する議論ではない。新型コロナワクチンに関する個々の”知見”については本書の説明を”丁寧に”参照して頂くとして、ここでは「十分な情報」とは何か、ということを考えてみたい。逆説的だが、「十分でない情報」とは何だろうか。情報とは、ある”適切”な行為(例えば、”戦果”)を促す、確からしい材料である。仮にこの定義で考えてみるなら、「十分でない情報」とは、行動が”失敗”するような材料である。人間には”観点”があるから、その観点を”適切”に述べるための、ある分野の系自体を支えるための論理自体の妥当性がまず、考えなくてはいけない。次いで、ある事象に対し、その系で何がどこまで見えるかを、確かめなくてはならない。そして、ある系の中で、”適切”な手続きを踏んで探究されているか、を確認する必要がある。そして、その手続きから導かれたデータなり、ストーリーなりを覆す、ありとあらゆる可能性を”排除”する論証が最終的には要求される。だが、こうした手続きには時間もコストもかかるから、結果的に、「十分な情報」というのは、”適切”な情報を生産していそうな人物や掲載していそうな媒体・機関への”信頼”に置き換わっていく。この事態は、”専門家”も例外ではない。つまり、何となく”適切”な判断をしてくれそうだ、という信念だが、その人物なり媒体なり機関なりが、個々の段階において”適切”な判断をしているとは限らない。だから、どの段階を疑うのかを明らかにした、”追試”や”批評”を必要とし、仮にその”追試”や”批評”の全てが妥当でなくとも、一旦は立ち止まって再考しなくてはならないのである。だが、学界も行政も、自身の制度に対する信頼が自身の合法性を確保する権威の源泉であるため、信頼を根底から覆す”誤り”には決して寛容ではない。だから、学界や行政は常に「十分な情報」を提供する”ふり”をしなくてはならないし、目の前の”不安”を解消した気になり、判断したくない(あるいはできない)”被治者”にとって、この「十分な情報」は”正しくなくとも”、”信頼”に値するという”共依存”の「総駆り立て体制」に陥る。この場当たり的な”決断”に基づく「十分な情報」を”合理化”し続けることによって齎される”安定”を志向する限り、あらゆる異論は、根拠の有無に拘わらず、”安定”の調整(レギュラシオン)を崩す異論というだけで、斯界からは脅威に映る。”不確実性”自体が脅威なのだから、嶋崎君が望む、”不備”を前提とする、予防原則など、採用される余地が最初から無い。だから、この場合、「十分な情報」というのは、実際の妥当性は別として、その瞬間だけでも、”安心”できるストーリーでありさえすれば良いということになる。例えば、どういう文脈での、つまり何と比較しての95%かは全く分からないとしても、95%という実際には何も語っていない数値自体が”客観的”であるように見えて、安心材料になる、という訳だ。だが、そもそも人体とウイルスの関係というのは、個々の人体を踏まえてはいるが、何処にも身体としては存在していない、つまり、ある目的における仮設にすぎない”理論”上の数値”のみ”に置き換え得るものなのだろうか。人は、技術を自在にコントロールでき、”例外”という悲劇が数多あっても、”ほぼ”想定通りに敵=ウイルスを”殲滅”できるはずだ、と想像しがちだが、その先に一体、誰にとっての幸福な生が待っていると言うのだろうか。それに、技術というのは、必ずしも水準が優れていて生き残ったとは限らず、多かれ少なかれ社会的実験に付き合わされているのだから、”特典”を付してまで、”未知”の技術の普及を推進すべきであったのか。評者は本書を読みながら、(本書に明示されている訳ではないが)そのようなことを、ふと考えた。
第3章は、ウクライナ報道と新型コロナワクチン報道に、福島原発事故報道を加味して、人は、メディアとどう関わりながら、どのように自律的に判断することが可能か、という条件を探究している。本章は、評者の見る限り、嶋崎君の”オリジナリティ”が最も強い部分であると同時に、本書の根幹にある主張を端的に示してもいる。その意味では、最初に第3章から読み始めた方が、”論旨”は分かりやすいかもしれない(ただし、その分、個々の具体例が後景に退くだろうが)。評者個人としては、「主要メディアによって行われた報道により、どれだけ世論が誘導されたかを、量的に示」して欲しかったとも思うが、その分析は”統計”を専門とはしない嶋崎君の手に余るだろうから、他の人に委ねることにしよう。私はそれよりも、「リスクに関わる事実」が指摘され、「有力な見方が隠蔽され」ないなら、「健全な知性を持つ人」(が、評者を含め、現実に存在するのかどうかも怪しいが)は「合理的な判断」が可能であるという、嶋崎君のテーゼを、かなり疑っている。というのは、そもそも「合理的な判断」というのが、どういう意味で”合理的”なのかを考える必要がある。最悪の場合、嘘でもいいから、”安定”した世界を望むという人からすれば、「半ポスト真実」はそれなりに、その願望をアシストするという意味で、(全く賛成はしないが)1つの「合理的な判断」ではなかろうか。そして、”信念”というのは、”反証”を提示するだけで”崩せる”とは限らないことは、確証バイアスの存在からも明らかである。そして、本書の議論の文脈から見れば、困り物にしか映らない確証バイアスではあるが、一説において、人類が集団で議論して生存のための真理を探究する「分業」の過程(つまり、それぞれがある論を肯定する理由を探して、集団で意見をぶつけて検証する過程が個々に検討するよりも効率的であるという理由)から成立したという説があるように、人が長い歴史の中で、類としての必要性から生成されてきたバイアスが、そう簡単に”理性”のはたらき”だけ”で崩せるだろうか。嶋崎君の言うように、「自己決定や軌道修正の可能性」が確保される”だけ”で、「健全な知性」なるものが発揮されるとは限らない、と評者は思うのである。草稿段階での、評者からのこの批判に対し、嶋崎君は全能の「幻の公衆」ではなく、「平均的判断力を持つ市民の”一部”が、接種に対して慎重な態度、少なくとも様子見をする、という可能性」というように、”平均的判断力”という言葉の意味は快楽や利害などと、判断の対象をより明晰にすべきだったが、少なくとも市民に求める判断力のハードルを最低限に下げることで応答してくれた。卑近な喩えをすれば、新鮮な野菜と腐った野菜があれば、全員可能だとは言わないまでも、”感覚的”に新鮮な野菜くらいは選べる人くらいはそれなりに出てくるだろう(でないと、腐った野菜を食べて体調を崩すから)、という議論である。ただ、この主張は「私たち一人ひとりが、(中略)自らの健康を脅かす可能性があるこの未完成な新規技術の内実に関心を持ち、製薬会社や政府・規制当局に厳しい視線を向ける」という、ある意味では、社会問題への積極的で、意識的な姿勢を持続させる後段の主張との整合性が直ちには取れていない。嶋崎君は、叙述からも明らかなように”勤勉実直”だが、カントの啓蒙論を引用して公衆の”怠惰”を戒めたところで、その志や善しだが、単なる精神論によって人は”勤勉”にはならない。もし、そのようなことで”啓蒙”が達成されるなら、巷にある啓蒙書を読み漁りさえすれば、人は”勤勉”になると言っているに等しい。イリイチの引用にせよ、「今こそかみしめる価値がある」と言うだけで、嶋崎君と重なり合う意識から、「生き生きとした自律」を「かみしめる」人が現れる訳ではない。寧ろ、自律はそのような呼びかけにより、他律的に確立されるものではないだろう。このような主張は、嶋崎君自身が「鋭い」と評価したある論者の、「社会の成員全体に何かをするよう求める」という公衆衛生、ひいては全体主義の態度なり、眼差しなり、と親和性が高い側面がある。なぜなら、「一人ひとりが~すべき」などという呼びかけ自体が全体主義への萌芽を含んでおり、市民全員ではなく、たとえ「平均的判断力を持つ市民の”一部”」の最低限の判断力に期待値を下げたところで、この市民に対し、「立体的」な情報を齎す”何か”が想定されていなければ、この議論は成り立たない以上、市民を「誘導」する”何か”、という議論に転化しやすい余地を残しているからである(勿論、嶋崎君は、4章において、例えば「プラットフォーマーの非中立性を熟知した上で、偏向した排除措置を行わないとされるプラットフォーム」を勧めており、必ずしも「立体的な」情報が「単一の」媒体で実現されるとまでは考えていないのだろうが、他方で「単一」の媒体における、多様な言説の比較検討の必要性も説いているので、その転化の可能性を評者は完全に払拭出来ていないのである)。そもそも、市民の自律的判断とは「幻の公衆」のイメージを引きずるような、”孤独”な個人の営為で無くてはならないのだろうか。評者は、もしマスメディアに”洗脳”されない方法があるとしたら、マスメディアの主張に些細なことでも、”ツッコミ”をする癖を付ける、つまり”問う”か、一切マスメディアの情報を遮断する他はないと思っているが、前者のような営為は、他の人と”会話≒対話”になればこそ”習慣”になるのであって、必ずしも自己責任を伴う1人きりの”能力”であるかのように描く必要は必ずしもないように思う。少なくとも、嶋崎君の”健全さ”は、評者のような”凡夫”にはハードルが高い。
このような情報の”受け手”の市民に焦点を当てる議論の展開になるのは、嶋崎君が広い意味で、「マスメディア」に対し、傍観者ではいられない熱意とも、無関係ではあるまい。事実、どうすれば、市民の自律的判断を可能にするメディアが可能か、という問いが、続く第4章の主たる関心である。「メディア関係者が、我こそは世間随一の情報通と自惚れ、特定の見方を排除するパターナリスティックな選別を行い、自ら調べる能力・時間・意欲がない人達を特定方向へと結果的に誘導している」ことに対し、マスメディアの発信者/受信者双方の観点から、マスメディアの特性に応じた具体的な献策を行っており、細部はともかく、大筋で異論がある訳ではない。ただ、「これらの提案」が「全て陳腐」に見えると嶋崎君自身が考えているとしたら、その理由は「この提案」を向ける当の相手に即した論述ではなく、1つの”政治”的介入としては、挫折するように評者には映るからかもしれない。確かに、評者のような”へそ曲がり”な人間は、本書に対し、一定の”共感”を示すかもしれないが、その感想は嶋崎君の意見を読んだことによって齎された効果ではない。そうすると、嶋崎君にとって、本書の”想定読者”というのは誰なのだろうか、という問題が浮上する。序章を読めば、「一般の人々―当該専門分野の専門家を除く全ての人々」が名宛人なのは明らかだが、実際のところ、「平均的判断力を持つ市民の”一部”」、あるいはある問題に対し、関心と厳しい視線を持つ奇特な人に、嶋崎君の実質的な掛け金があるのだろう。もし、嶋崎君が、本当にそういう市民と共に育ちたいと願うなら、本書は嶋崎君自身の、揺るがない結論が出ている”論”としてではなく、読者への”問いかけ”として成り立つ余地を少しでも残す書き方の可能性もあったように見受けられる。返す返すも、本書が”啓蒙”という市民不信に根差す、”成熟した”インテリによるマスメディアの”正しさ”に関する指差しという色彩から、完全には脱却出来なかったことを評者は残念に思う。インテリが「平均的判断力を持つ市民」から踏み出して良いのは、ほんの”一歩先”に過ぎず、基本的には”凡夫”でしかないのだから(ただし、嶋崎君がこのような論述に踏み切ったのは、「世人」にすぎないのに、インテリぶる人に対する苛立ちの故でもあったのかもしれないが)。故に、評者は、本書に対する”正しい”礼儀がもしあるとすれば、嶋崎君が臆するような”ツッコミ”を入れて、嶋崎君が考えもしなかった(かもしれない)ことを、無い頭なりに考えてみることだと思った。読者にも、本書の主張を徒に妄信するのでもなく、逆に軽蔑するのでもなく、周りの人と話しながら、ああでもない、こうでもない、と自分の頭を動かしてみて、納得できる結論に(勝手に)辿り着いてくれたら、と願っている。
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1988年生。名古屋大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。専門は比較思想、比較マイノリティ論、社会教育。主な業績は、https://researchmap.jp/kokeiを参照。