第33回 旧態依然にしがみつく科警研と、世界の潮流に乗る大阪大の本田助教授
メディア批評&事件検証晴山事件の鑑定を弁護団の要請で大阪大学の若杉長英教授と本田克也助教授が受けることが決まったが、鑑定する試料は25年も前の古い膣内容拭いガーゼである。しかも被害者の膣上皮細胞と犯人の精液が付着している混合試料である。被害者の細胞を引き算できるような対象試料、例えば被害者のDNA型を明らかにできるような血液や臓器はもはや残されていないのである。難攻不落の城のようなものであって、容易にはいかない代物だった。
当時は、DNA鑑定に使える部位がMCT118のようなVNTRではなく、より短いフラグメント(4塩基の反復)を解析するSTR部位が多数発見されていた。大阪大学には、最新のコンピューター制御になるフラグメント・アナライザーが設置されていた。本田助教授はその機器を自在に使いこなすことができていた。警察庁の科学警察研究所(科警研)が足利事件で型判定を間違ったMCT118鑑定のように、手作りの泳動誤差が生じるゲルでまた目視で型を判定する古い時代は国際的には終わっていたのだ。
それなのに裁判でも判決に大きく影響する捜査機関である科警研では、旧態依然たる鑑定法を続けていたのである。全くといっていいほど世界に取り残されていたのが現状だった。
晴山事件のように、男女の混合試料から男性由来の型を選択的に解析するには、Y染色体のSTRが最適である。しかし、Y染色体のSTRでそれまでに発見されていたのは、「DYS19」だけだった。この部位も一つだけでは、偶然の一致もあり、人の一生が決められる裁判の鑑定には使えないと思っていたが、すでにDYS19を研究していたドイツのルッツ・ローワー氏らのグループがスペインで1995年9月開催のDNAの国際学会で、多数のY染色体STR部位を発表することを知った。居ても立っても居られない本田助教授は、その情報を得るために急遽、スペインに飛んだ。
その国際学会の懇親会の場で、本田助教授はローワー氏と話をした。本田助教授は、こう切り出した。「私は日本でDNA鑑定の研究をやっている研究者です。このたび25年前の膣内容液からのDNA鑑定を裁判所から嘱託された。これは極めて古い混合試料なのでY-STR以外の方法では難しいと思われる。そこで、今回あなたが学会で発表した新たなY-STR部位の検出方法を教えていただけないだろうか」。
すると、ローワー氏は「わかりました。これからY-STR法は法医学鑑定の主流となると考えられます。しかし、そのためには国際的なデータベースが必要で、それを複数の機関との協力で構築するため、来年の96年から『法医学的Y染色体鑑定ワークショップ』を立ち上げる予定です。そこであなたにも是非メンバーに加わってもらいたい」と言われたのだ。即座にメンバーに加わりたいと返事をした。このワークショップには、当初、ヨーロッパや米国で数十カ所の拠点で始まったが、アジアでは大阪大学が初めての参加となった。
本田助教授は、欧米人の連携の強さに驚かされた。日本では、各研究機関が手柄を上げようとして、他機関との対立を繰り返しているのに対して、欧米ではたった一声で一致団結して新たな共同研究プロジェクトが立ち上がる。科学的伝統のある国家と日本との違いをまざまざと見せつけられた思いだった。その日本の代表的な機関が捜査機関の科警研であり、科捜研である。一言で表現すれば、研究ではなく、ただの物まねに過ぎないということだ。現に冤罪を懲りずに何回も繰り返してている。
その後本田助教授は、この新たなY-STR部位の情報を送ってもらい、その型検出のため、繰り返し実験を行い、適切な検出条件を確かめた。なお日本人のデータベースは、欧米のデータとともに国際的に共有し、どの部位が鑑定に適しているかの検討を繰り返した。
これは今では「Y染色体ハプロタイプデータベース」としてだれでもインターネットでアクセスできるようになっている。また研究機関でデータの統一をはかるため、ブラインドでコントロールサンプルが送られてきて、その型判定が正しいか、どうかの研究室サーベイも行われ、大阪大学はそれにもパスした。こうして、このワークショップグループの研究の成果により、Y-STRのローカスと実験条件が絞り込まれ、世界で初めてY-STRの市販キットが完成した。それが当時ABI社が販売したY-filerである。
ここで晴山事件裁判に戻ろう。96年1月30日午前10時30分から札幌高等裁判所の嘱託による72年から74年にかけて、北海道空知郡月形町で3件の強姦殺人・強姦致傷事件が起きた晴山事件の再鑑定の本鑑定を前に大阪高等裁判所において、科警研の笠井賢太郎技官、大阪大の本田助教授立ち会いのもとにガーゼ片の検分と配分並びに笠井技官に対する鑑定人尋問が行われた。
裁判所は、①再鑑定試料を残してほしいこと②鑑定経過の可視化に協力してほしいことを尋問した。
笠井技官は、(1)速やかに請求人(晴山廣元死刑囚)の血液を送付することを要求、それは自分たちの鑑定はDNA型と血液型の複合だからだ、(2)血液が到着してから6週間で鑑定書を提出できると思う、(3)鑑定方法はMCT118とは限られない、(4)鑑定日誌は個人的には作成している、(5)鑑定資料原本は鑑定書が全てである(写真はポラロイドなので鑑定書添付のものが原本)、(6)コンピューター画像処理は行う。(7)本件試料は極悪と思われるし、大阪大の方がいい試料があると思われる。抽出したDNAはその時点から壊れていくため、その時に見たものにしかその時のことはわからないから、後で結果が違うと言われても困る、などと証言したが、鑑定経過の可視化には消極的だった。
午後からは大阪大学医学部法医学教室において若杉教授・本田助教授に対する鑑定人尋問がそれぞれ行われた。
若杉教授は①鑑定日誌は通常つけないが、ご希望とあれば準備する。②X線写真等鑑定経過を可視化させる資料は提出できるようにする。③コンピューター画像処理は行わないつもりである。④ガーゼ片からDNAを検出できるか、否かに半年、その後に請求人の血液を送ってもらって請求人のNSAと比較対照するのに、半年を見てもらいたい、⑤構想としてはY染色体をターゲットにした鑑定を行うつもりであると述べた。本田助教授も全力を尽くすと誓った。
鑑定の対象となった試料は結局、東京大学に保管委託していたガーゼ片6点が笠井鑑定人に、北海道大学に保管委託していたガーゼ片10点が若杉・本田両鑑定人にそれぞれ委託された。
その後、科警研から請求人の血液送付が要請され、弁護側では、ガーゼ片からDNAが抽出していないのに送付はおかしい旨の意見書(請求人の血液を事前に送付することは鑑定人に請求人のDNA型を事前に知らしめガーゼ片から「そのDNA型がでた」との作為を行う可能性を否定できなくすることであり不相当だ)を2月22日付で提出、また笠井鑑定人に対する①ガーゼ片からDNAを抽出したか②抽出できないとすれば送付を求める理由は何か、という調査嘱託の申し立てを3月4日付で行ったが、高裁はいずれにも職権を発動しないとして96年3月18日、請求人から採血が行われ、科警研に書記官が持参した。
弁護団は、採血のボイコットも検討したが、危惧を記録に留めたとして任意提出に立ち会った。同年10月18日、大阪大からの要請により請求人からの採血が行われる予定となったのである。
高裁は若杉、本田鑑定人から申し出による請求人からの採決・任意提出記述を10月18日と指定したが、その後取り消し、11月29日に延期した。これは若杉・本田鑑定人の申し入れによるもので、請求人の血液から検出されたDNA型に合わせてガーゼ片からのDNA型を調整したとの疑いをかけられないように、ガーゼ片からの検査を全て事前に裁判所に送付するのが妥当だと判断し、その準備を整えるためだというのである。極めて、正当な態度であり、弁護団としては、反対する理由は全くなかった。
本田助教授は、それから半年間の予備実験を経て最適な実験条件の確定に成功し、ついに証拠試料からの鑑定に取りかかる準備が整った。96年9月には、本田助教授は被害者2名の膣内容拭いガーゼ片から4種の男性由来DNA(Y-STR)型の検出に成功し、約束通り晴山氏の採血をする前に結果を裁判所に提出した。
これは晴山氏の型を参照して鑑定結果を変えたり、引っ込めたりできないようにするためである。しかし、科警研の笠井氏はこの約束は無視し、対象試料がなければ、鑑定はできないとして証拠資料からの検査結果の提出は拒否した。
96年の11月、本田助教授は札幌に飛び、札幌拘置所で晴山氏の採血を行った。晴山氏は無言で採血を受け入れた。それはどんよりと曇った日で、空も泣いているようであった。すでに当時の札幌では雪が積もっていた。本田助教授は、一泊した翌日、早朝の便で大阪に試料を持ち帰り、一本は科警研に届けられた。
さあ、気になるのは双方の鑑定結果だ。この鑑定を大阪大学の若杉教授と本田助教授に直接会って依頼した笹森学弁護士は、重機運転手で、1人で子ども2人を育てていた晴山氏を絶対、本田助教授の鑑定で無罪を証明してくれると、そう信じてやまなかった。笠井鑑定書は、97年5月28日付で6月11日に提出され、翌12日に開示された。
一方、本田鑑定書は同年8月31日付で9月4日に提出され、翌日に開示された。結果は、いずれにしても24年前の劣化が危惧された試料からDNA型を検出し、ともに晴山氏と一致した。しかし、鑑定方法や鑑定技術については、圧倒的な実力の差がついた。
笠井鑑定は、科警研で採用されているMCT118型、HLADQα型、THO1型、PM法の4手法によりDNA型の検出を試み、鑑定試料6点のうちの72年5月の月形事件の被害者のガーゼ片3点から2種類ないし、3種類のDNA型を検出し、それらのDNA型は晴山死刑囚のDNA型と同型と判定されるという結論であった(同年8月の新十津川事件の被害者のガーゼ片からは未検出)。なお出現頻度についての言及はなかった。
本田鑑定は、Y染色体得意部位(Y染色体上のマイクロサテライト)であるDYS19型、DYS390型、DYS393型、YCAⅡ型という4種類のDNA型について検出を試み、月形事件の被害者のガーゼ片2点、新十津川事件の被害者ガーゼ片1点からそれぞれ4種類全部のDNA型を検出し、それらのDNA型は晴山死刑囚のDNA型と同型と判定されるという結論だった。
本田鑑定人は、バンドサイズの判定にダイレクトシークエンスを利用していた。また、出現頻度について言及、4種同型の出現頻度を2500人に1人としている。当時のDNA鑑定としては高い頻度である。
本田助教授は、弁護士から頼まれたからといって鑑定を曲げる人物ではなかった。一度妥協したら、法医学者としてはおわりである、と分かっているからだ。
ところがだ。一方の笠井技官の結果は驚くべきものだった。MCT118やHLADQαなどSTR鑑定が主流になりつつある時代にあっては、一世代前の常染色体を用いた鑑定方法を含む数種の鑑定で行ったが、どういうわけか、被害者の混合を示すものは一つもない。Y染色体ならこれでもいいが、常染色体は男女ともに存在するので、男性の型だけを出すのは不可能に近いはずである。精子と膣上皮細胞の選択的抽出を行った場合でも、このような古い試料から完全に分離出来るはずがない。
確かに試料によっては、判定不明になっているものもあるが、出ているもの全て晴山氏に一致しており、不完全な結果は只の一つもない、しかし提出されたのは単なる「表」だけで、鑑定結果を示す「写真」はただの1枚も添付されていなかった。
本田助教授は「古い混合試料からこんなにきれいに出るはずがない。出ない部分があって当然ではないか、それこそが本当に鑑定した証拠でもある。なのに科警研は……。もしかしたらこれは対象試料を使って作ったデータではないか?」と思った。
というのは、対照試料を入手する前の証拠試料から鑑定結果をあらかじめ出してはいなかったから、捏造できてしまうからである。しかも生データの提示はなく、表だけの数値記載である。これを作るだけなら簡単である。
本田助教授は、この晴山事件の鑑定にについてルッツ・ローワー氏らとの共同研究の成果として国際法医学雑誌に掲載した。
そして晴山死刑囚はその後2004年6月4日に胃がんのため収容されていた札幌拘置支所で亡くなった。70歳だった。
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独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。