第2回 タイムリミット寸前に脱出
メディア批評&事件検証イラクのサダム・フセイン大統領による悪夢の宣告のタイムリミット1日前の3月18日になっても、私たちが乗せてもらえる飛行機は一向に現れませんでした。取り残された恐怖の中で、内心みんな心の底で思って耐えられていたのは、日本政府がどんなことがあっても私たちを助けるために救援機を出してくれるだろうということを信じていたからです。
まさか日本では、テヘラン現地からの救援の要請を受けて、政府が日本航空に救援機の要請をしたものの、日航側がイラクから救援機を打ち落とさないという保証がない限り救援機は出せないと返事されて救援機派遣をしないとは夢にも思いませんでした。他の国々に頼んで救援機を出してもらうことが出来なく、時間だけがすぎいってタイムアウトになるなんて夢にも思いませんでした。
焦りばかり感じて落ち込んでいた時に、私たちが技術指導をしていたKD工場の1社であるザムヤッド社の技術指導に来ていたスウェーデン・ボルボ社の技術者がバスでトルコに脱出するので「皆さんも一緒に行きませんか」と誘てくれました。私たちは藁をもつかむ思いで、直ぐに荷物をまとめて待ち合わせ場所に向かったのです。しかし、車で国外に出ることはできませんでした。
というのも、私たちは空路での国外脱出ばかり考え、事前の出国手続きをしていなかったことを忘れていたのです。だから、バスで国境を越えるせっかくのチャンスをあきらめるしかありませんでした。
ついに3月19日、タイムリミットの日が来ました。それでもN社の社員は、ヨーロッパの航空会社に私たちのために席を分けてもらえるよう頼みに回ろうと、夜が明けるのを待って起きていてくれていたのです。夜明け前でした。日本大使館からトルコが救援機を出してくれるとの情報が飛び込んできたというのです。みんな小躍りして喜びました。
でも、冷静に考えると、どうして我が祖国ではなく、トルコなのか分かりません。日本からの救援機は来ないし、ヨーロッパの飛行機にも乗せてくれるよう何度も懇願しましたが、拒否されました。何を信じていいのか、わからない。そんな気持ちだったのです。でも、考えても仕方がない。とにかくテヘラン・メヘラバード飛行場に行ってみようということになり、N商社の社員がトルコ航空テヘラン支社にチケットを買いに走ったのです。朝6時ごろにホテルを出て、10時半ごろようやくチケットが買えそうだという一報が入り、私たちは空港を目指しました。
この日空港は、各国の取り残された人々が自国の救援機に乗るために大量に押し寄せてごった返していました。そのためチケットを買いに行った人が戻ってきたのは午後2時すぎでした。それから荷物のチェック。ここでも時間がかかり、さらに空港内ではパスポート・コントロールの窓口がたった2ヵ所しかないのに、ロシア人がこともあろうにそのうちの1ヵ所を占領してしまったのです。私たちはもう1カ所の窓口にロシア以外の外国人たちと並んでパスポートチェックを受けるしか手立てはありませんでした。
その時、「ドォーン」という音が響きました。私はイラクからの爆撃が始まったと思い、ここまで来て「だめかー」と思うと、身体から力が抜けていきました。なにより救援機が来なかったことが信じられなかったのです。日本政府は私たちを見捨てたんだと思うと涙があふれました。
それでも諦めてはいけない、と思ったのは、日本から連れてきた同僚4人を無事に家族のもとへ返すという使命があったからです。ここで死なせるわけにはいかない。何もできない自分に無力感でいっぱいになりました。空港ビル内には悲鳴が上がり、近くのテーブルの下に身を伏せるなど一時騒然となりました。
すぐに場内アナウンスで子供と女性が登場ゲイトに案内され、みんなゲイトに走り出しました。私はこの時、何で飛行機まで行ったのか、記憶に残っていません。タラップを駆け上がり、座席に座ってただじっと出発を待ちました。機内はシーンと静まり返っていました。しばらくすると滑走路に入り、滑走前のエンジンテストの音が「ゴー」と鳴り響き滑走を始め、ぐんぐんスピードを上げてふぁっと機体が浮きあがり離陸したのを覚えています。機内に歓声と拍手が起こりました。
眼下にテヘランの明かりが小さくなっていくのが窓越しに見えました。ほんの一瞬でしたが「ああ助かるかもしれない」。そう思いました。でも、機体はまだ安全圏内ではなく、いつイラクの空軍機が攻撃してくるかわからず、機内はシーンと静まり返っていました。
どれくらいの時間がたったのだろう。私にはとてつもなく、長く感じました。その時です。機長の機内アナウンスが響き渡りました。
「WELCOME TO TURKEY」。機内に「わあっ」という歓喜の叫びと大きな拍手とが起こったのです。この時ほど、生きていることの喜びを感じたことはありません。凍りついていた血が身体中を駆けめぐる。涙が止まらない。周りのみんなも泣いていました。
トルコのイスタンブール・アタチュルク空港に到着し、到着ロビーの荷物受け取り場に下りる階段の上に立った時、ものすごい閃光が走り、その光の多さに驚き、一瞬足がすくみました。大勢の人が私たちを撮影していました。
その日はイスタンブールのホテルに滞在。街をぶらぶらしていて気が付いたことがあります。トルコの人たちは、みんな私たちに笑顔を向けてすれ違う。どうしてこんなにも私たちに優しいのでしょうか。この疑問をそれから23年後に知ることになるとは、このとき知るよしもありませんでした。
(続く)
1942年、青森県生まれ。1961年、プリンス社入社(66年に日産自動車と合併し、社名が日産自動車に)。78年にイラン自動車工場の技術指導担当。1985年3月、トルコ航空機でイラン・テヘランから救出された邦人215人の一人。その後93年までイラン自動車工場の技術指導を継続。95年に菊地プレス工業に転属、2002年に定年退職した。現在、串本ふるさと大使、エルトゥルルが世界を救う特別顧問、日本・トルコ協会会員。