【特集】ウクライナ危機の本質と背景

くすぶる欧州の火薬庫 セルビア・コソボ対立がもたらす危機

広岡裕児

コソボで起きた衝突

フランス・パリのローランギャロスで行なわれるテニスのフレンチ・オープン(全仏)では、テレビ中継される試合が終わると、勝者はコートの出口付近に設けられた透明ガラス板にサインする。その後ろにはテレビカメラがあって、まるでカメラのレンズにサインしたように見える。

2週間後、男子シングルスで優勝することになるノバク・ジョコビッチが、5月29日、1回戦を突破したとき、そこに、「コソボはセルビアの心臓、暴力をやめろ」(日本の報道では、こう訳されているが「コソボはセルビアの心、暴力をやめろ」とも訳せる)と書いた。

ジョコビッチはセルビア出身で、父はコソボ生まれである。フレンチ・オープン開幕直前の5月26日からコソボ北部のセルビア系住民が市町村(コソボの基礎自治体コムーナは日本と違って市町村の区別はないが便宜上こう呼ぶ)の首長たちの任命無効とコソボ警察の撤退を要求して抗議行動をし、コソボ警察は威嚇射撃までして厳しく対処していた。

そして、この29日、ズヴェカン市でセルビア系住民のデモ隊が治安維持部隊と激しく衝突。炎に包まれたり銃撃されたりした重症者を含む、ハンガリー兵20名、イタリア兵11名が負傷、デモ隊側も50名を超える負傷者が出た。治安維持部隊はあくまでもセルビア系住民とアルバニア系住民の衝突を避けるため、中に割って入るのが役目だ。しかし、警察とともにセルビア系住民のデモ隊と対峙する形になってしまったのである。

翌日、治安維持部隊700名の増員が決定された。同部隊は、もともとはNATO(北大西洋条約機構)中心の多国籍軍だったが、現在ではNATO加盟国のみで構成され27カ国が参加している。増員後の兵力は4511人で、852人のイタリアを筆頭に、トルコ(780人)、アメリカ(679人)と続き、最高司令官はイタリア人である。国連安保理の承認を得ていても、正式にはPKO(国連平和維持活動)ではない。コソボにおけるPKOは国連コソボ暫定行政ミッションで、それを支援する組織である。

コソボは岐阜県ほどの大きさ。ユーゴスラビア時代から自治州で、1980年のチトー大統領の死で連邦が崩壊した後はセルビアに属していた。アルバニア人が大多数を占めている。セルビア人は東方キリスト教のセルビア正教徒だが、コソボに住むアルバニア人はほとんどがイスラム教徒である。もちろん言語も違う。

2008年に独立を宣言。現在約110カ国が承認しているが、セルビア・ロシア・中国は独立を認めていない。また、EU(欧州連合)加盟国のスペイン・ギリシャ・キプロス・スロバキア・ルーマニアも、自国の分離主義運動との兼ね合いから承認を拒否している。

日本の外務省の基礎データによれば、コソボ全体のアルバニア系住民は92%、セルビア系住民は5%。しかし、セルビアとの国境に近い北部地域ではセルビア系住民が多数派となっている。この地域は、コソボ独立後も統合に反対し、セルビアから行政サービスを受け続けていたが、13年のセルビアとコソボの両国間合意によって完全にコソボ領と認定された。

だが、セルビア系住民とアルバニア系住民の軋轢は終わらなかった。たとえば人口11万5千人のミトロヴィツァでは、街を流れるイバル川を境として、南側に9万5千人のアルバニア系住民が、北部に1万人のセルビア系住民が住み、ほとんど行き来もなく行政上も実質分断状態になっている。

これらの地域の市町村で4月に首長選挙が行なわれた。セルビア系住民はボイコットし、アルバニア系住民にも同調者が出て、投票率は3.5%にも満たなかった。にもかかわらずコソボ政府はアルバニア系の首長の当選を認定した。4つの市町村では役所のセルビアの国旗を降ろしてコソボ国旗に替え、新しい首長たちが多数の警察官に囲まれて職務を開始した。それが衝突事件の原因である。

 

NATO空襲が現在に及ぼす影響

コソボといえば、1999年のNATOによる空襲が思い出される。コソボの独立運動はセルビアに属した当初からあったが、セルビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ大統領の強硬な姿勢もあって1998年には武力紛争になった。

パリ郊外で停戦交渉が行なわれ、一時は妥結かと思われたが決裂。セルビアが民族浄化を行なっているという大義名分もあって、1999年3月24日、NATOはセルビアの首都ベオグラードなどへの空襲を開始した。軍事施設を狙ったものだとされているが、中国大使館への誤爆事件などもあった。空襲はセルビア軍がコソボから撤退した6月10日まで続いた。

ロシアのプーチン大統領は、ウクライナ侵攻の朝に行なった演説で、この空襲に触れている。「ベオグラードに対して、国連安全保障理事会の承認なしに、ヨーロッパの中心部で戦闘機とミサイルを使って血にまみれた軍事作戦が行なわれた。平和な都市や生命線のインフラへの爆撃が、数週間にわたって行なわれた。私はこのことを喚起したい。というのも、一部の西側諸国はこの事実を忘れたふりをし、私たちがこの出来事を指摘すると、国際法について語ることを避け、代わりに自分たちに都合のいいように解釈した状況を強調するからである」

クリミア併合のときにもプーチン大統領は、欧米がセルビアからコソボを奪い取った前例があるとしていた。また空襲がブラフではなく実行されたことは、プーチン大統領のNATOへの恐怖の原因の1つにもなっている。

たしかに、国連安保理決議は経ていなかった。虐殺や強制移動などによる「民族浄化」はチベットなど世界各地で起きており、コソボにおいてもこの頃に始まったわけではない。また、虐殺までに至っていないにせよセルビアだけがそれを行なっていたとも言い切れない。たとえば先に述べたミトロヴィツァでは現在のアルバニア系とセルビア系の住民の比率は9対1だが、チトー治下のユーゴスラビアの時代は2対1であった。

ウクライナ侵攻の演説でプーチン大統領は、「過去30年以上、われわれは辛抱強く欧州における対等で不可分な安全保障の原則について、NATOの主要国と合意しようとしてきたのは事実である」とも述べている。ソ連崩壊直後、ロシアとNATOの関係は冷え切っていたが、1997年にはロシアNATO常任協議会が設置されるなど関係改善がみられていた。しかし、この、同じスラブ系であり、セルビアを第1次大戦の前から影響圏だとしていたことは周知の事実だったロシアを無視した空襲は、一気に関係を冷やした。国連コソボ暫定行政ミッションにはロシアも参加しているのに、欧米、特にアメリカはロシアとの協調のために利用しようとはしなかった。

ロシアは軍事的にはセルビアを支持してはいないとしているが、民間軍事組織ワグネルが、コソボとの国境近くに入り込んでいる。5月29日の衝突を受けてロシアは即座に「コソボのセルビア系住民への無条件支援」を表明した。とはいえウクライナでの戦争があるので強い支持ができるかどうかは疑問だ。しかし、最近はセルビアのロシア大使館職員を増員している。

旧ユーゴスラビアは「5つの民族、4つの言語、3つの宗教」といわれたように複雑で、バルカン半島はヨーロッパの火薬庫といわれる。ボスニア・ヘルツェゴヴィナのサラエボで、当時支配していたオーストリア皇太子夫妻がセルビア人に暗殺されたのが第1次世界大戦のきっかけだった。ロシアはそこを拠点に偽情報、天然ガス供給を使った脅し、民族間緊張の扇動などでバルカン半島を不安定化させようとしている。ハイブリッド戦争の第2戦線を拓くのだ。こうして欧米が支援せざるを得ない状況を作り、ウクライナへの支援を減らす。

セルビアのアレクサンダル・ブチッチ大統領は非常に権威主義・民族主義的で、ウクライナ侵攻についての国連のロシア非難決議に賛成はしたものの対ロシア制裁は拒否し続け、国内の反体制派を弾圧している。

コソボ首相の強硬姿勢

この状況では、欧米はコソボを全面支持するものと思われるが、今回はそうでもない。5月29日の事件の後、アメリカはNATOや日本など20カ国を超える共同軍事演習「ディフェンダー23」からコソボを除外すると発表した。ブリンケン米国務長官も市町村長に関する決定は「緊張を不必要に悪化させた」と批判した。フランスのマクロン大統領は「コソボ当局に対して、セルビア系住民がほとんど不参加という枠組みの中で選挙を進めたのは誤りだったとはっきりと伝えた。非常に明白に、現在の状況にはコソボ当局の責任がある」ともっと明確だ。

コソボのアルビン・クルティ首相は左翼国家主義者で頑固な反セルビア姿勢で、対話を拒み続けている。一昨年の9月には、セルビアのナンバープレートを付けた車両のコソボへの入国禁止を決定し、セルビア系住民の激しい反対運動を引き起こした。昨年夏には、コソボ政府はセルビアにコソボの身分証明書とナンバープレートを承認するよう求め、もし認めないならコソボのセルビア系住民がベオグラード発行の証明書とナンバープレートを使い続けることを容認するのをやめるとした。

このような姿勢に抗議して、昨年11月に、これらセルビア系住民の多い地域の、セルビア系の警察官をはじめとする公務員、首長や議員が全員辞職した。これが、4月に選挙が行なわれた直接の原因である。

クルティ首相は、ウクライナでの戦争でセルビアへのロシアの支援が弱まる今こそ好機だと思っているようだ。コソボのシンクタンク・コカラリ研究所のヴィサール・イメリ所長は、クルティ首相は「コソボが動けば国際社会も従わざるを得ないと考えている、と明らかに信じている」という(ル・モンド6月9日付)。

原因が何であれ、火が入って火薬庫が爆発すればすぐに被害はEUに及ぶ。当然、EUはコソボ情勢にも深く関わっている。EU執行部は、セルビアとコソボのバランスをとった、いわば喧嘩両成敗のような解決をしたいと考えている。

ちなみにNATOとEUを混同してはならない。NATOはあくまでもアメリカ主導であり、EUはアメリカと心中しないための組織だ。この2月末にもEUのジョセップ・ボレル外務上級代表は、昨秋セルビア系公務員総辞職に至った事態の収拾のための議定書を提示した。その中では、あえてセルビアがずっと拒否し続けているコソボの独立を正式に承認することは要求せず、コソボはセルビア人が多数を占める地域にさらなる自治権を与えることを約束し、セルビアはコソボの国際機関への加盟を妨げないことに同意する、とした。

同時に、合意したならば、150日以内にEUがコソボとセルビアに対する投資・金融支援プログラムを立ち上げるための資金提供者会議を開催すると「アメ」を与える一方、両国の関係樹立がEU加盟の条件であり、合意に拒否すればEUからの経済支援にも悪影響が出ると釘も刺した。

セルビアは2009年末にEU加盟申請をしており、12年3月には公式に加盟候補国として認められている。コソボは22年12月にEU加盟申請をしているが、まだ正式に加盟候補国とは認められていない。

この議定書についてコソボとセルビアの代表は北マケドニアのオフリドで3月18日、EUが見守る形でマラソン協議を行なった。口頭での合意に達したが、セルビアのブチッチ大統領は署名を拒否した。ボレル上級代表は、衝突翌日の5月30日にも早速コソボのクルティ首相およびセルビアのブチッチ大統領と電話会談し、オフリドで口頭合意した2月の議定書の義務を果たさなければ加盟申請に影響が出ると警告した。

セルビアと中国、コソボと台湾

コソボ問題には、EUそのものの将来もかかっている。セルビアは10年前に加盟候補国となったにもかかわらず、汚職撲滅、民主主義や法の支配の確立といった努力をしていない。この点、加盟申請したばかりのコソボ側も同じである。このままではウクライナとモルドバにEU加盟の先を越されてしまう。バルカン半島ではセルビア、コソボのほかに、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、アルバニア、北マケドニア、モンテネグロが加盟を待っている。

各国の努力不足が原因だといっても国民は取り残された、不当な扱いをされた、という不満を持つであろう。また、ロシアはその不満を焚きつける。「バルカン半島をウクライナの背後に置き去りにすることはできない。これらの国々のEU加盟を40年まで待ったなら、この地域は中国とロシアに奪われてしまう」とオーストリアのアレクサンダー・シャレンベルク外相は注意を促した(ル・フィガロ23年6月2日付)。

同外相も指摘しているが、バルカン半島では、このところ一帯一路の旗印のもと中国の進出が著しい。セルビアにもかなり食い込んでいる。セルビアと中国の首脳はお互いに「頼りになる友人」と公言しており、高速道路・高速鉄道の整備、製鉄、銅鉱開発などで中国の支援を大きく受けている。新型コロナ禍のときにもセルビア国民が接種したワクチンは中国製で、それを使ってセルビアは近隣諸国へのワクチン外交も展開した。中国外務省の毛寧報道官は、5月219日の暴力行為はコソボがセルビアの政治的権利を尊重しなかったことにあると非難し、セルビアの「主権と領土一体性を守るため」の努力を支持すると述べた。

一方で、コソボは台湾に近い。台湾は2008年、コソボの独立宣言の3日後にいち早く承認した。今年の3月にもアヴドゥラッフ・ホティ元首相を団長とする超党派のコソボの国会議員9名が台湾を訪問した。

コソボの動向はアジア太平洋情勢の面からも見逃すことはできない。まだ火種はくすぶっている。

6月13日、コソボの警察がセルビア民兵組織の指導者とされる人物を逮捕。翌14日、今度はセルビアがコソボ国境から6キロのセルビア領内の村で自動小銃・GPS・地図などの装備を所持していた軍服を着たコソボ警察官3名を逮捕したと発表した。クルティ首相は、セルビアが活動家逮捕の報復のために警官を誘拐したと非難し、セルビア・ナンバーの車両のコソボへの入国を直ちに禁止した。ブチッチ大統領はクルティ首相が「戦争を引き起こそうとしている」と非難している。

(月刊「紙の爆弾」2023年8月号より)

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広岡裕児 広岡裕児

フランス在住ジャーナリストでシンクタンクメンバー。著書に『皇族』(中公文庫)、『エコノミストには絶対分からないEU危機』(文春新書)他。

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