「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序」 岸田首相が連発する「法の支配」の正体
政治岸田首相の「法の支配」への言及
岸田文雄首相は5月21日、G7広島サミット終了後の記者会見で、「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序」の確立を次のように主張した。
「今、我々は、ロシアによるウクライナ侵略という国際秩序を揺るがす課題に直面し、このような厳しい安全保障環境だからこそ、法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序を堅持し、平和と繁栄を守り抜く決意を世界に示す、それが本年のG7議長国である日本に課された使命だ。(中略)G7として、法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序の重要性を確認し、これを守り抜く決意を新たにするとのメッセージを世界に向けて力強く示せた。『グローバルサウス』と呼ばれる新興国・途上国や脆弱な立場の人々の声に耳を傾け、『人』を中心に据えたアプローチを通じて人間の尊厳や人間の安全保障を大切にしつつ、喫緊の幅広い課題に協力する姿勢を示さないことには、法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序を守り抜くとの訴えも空虚なものとなりかねない」
岸田首相はそれ以前にも、数度となく「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序」に言及していた。昨年9月の国連演説では次のように述べた。「法の支配が根付いた国際秩序が維持されることが不可欠で、国連はそうした秩序形成に中核的な役割を担ってきたが、ロシアのウクライナ侵略は、国連憲章の理念と原則を踏みにじる行為だ。力による支配ではなく、全ての国が法の支配の下にあるのが重要である。(中略)国際法に基づいた法の支配を強化していくことが、長期的に見れば、全ての国に裨益し、持続的な成長と健全な国際社会の発展につながるとし、1970年に国連総会が採択した『友好関係原則宣言』が法の支配を促進するための基本的原則を導き出す基盤である」
こうした発言を目の当たりにして違和感を覚えるのは筆者だけだろうか。これらは、国際社会を、アメリカを中心とした資本主義国とロシアや中国を中心とした旧社会主義国に2分したうえでの、アメリカ陣営の側からの発言である。
193カ国が加盟している国連を、そのような2分した考えで見ることは不可能だ。「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序」を形成しようとするならば、国連加盟国全体が許容できる国際秩序を考えるべきだ。岸田首相の発言は、アメリカ側に立った一つの考えでしかなく、国連全体のものではないどころか押しつけにすぎない。
そもそもG7は、参加国を見ればわかるとおり、アメリカを価値の中心に置く資本主義国の集まりであって、そこでの主張は世界全体の共同財産ではない。広島サミットでは、揺れ動く国際秩序の当事者であるウクライナのゼレンスキー大統領が招待され参加したが、もう一方の当事者であるロシアのプーチン大統領は招待されなかった。これでは、最初から一方の側に立った秩序を考えるのみで、世界平和を希求するものではない。
本誌6月号で指摘したように、G7は、仮想敵国包囲網の形成に力を尽くしただけで、「法の支配に基づく国際秩序」を形成する努力を果たすことは全くなかった。これでは、いくら声高に「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序」を主張しても、中身は何もない。自分たちの陣営のみに向けられたメッセージにすぎないのである。
「法の支配」が意味するもの
そのうえで考えたい。「法の支配」とは何を意味するのか?
「法の支配」とは、英語のTheRuleofLawの和訳である。イギリスでは、常識に則ったcommonlawと公正を重んじたequityを中心に、判例が集積されたルール(成文化はされていない)で国家が運営され、社会が形成されている。それは、神が定めた自然法であり、国王も一般市民もこのルールに従わなければならない。
これに対し、ドイツやフランスのような成文法の国では「法治国家」という概念が採用されている。ここでいう法とは、適正な手続きにのっとり議会で制定され、適正な内容から成る法律を指している。法律が国家を規制し、市民を規制しているのである。欧州委員会(European Commission)は「法の支配」について、「法の支配は、基本的な権利と価値観を保証し、EU(欧州連合)法の適用を許可し、投資に優しいビジネス環境をサポートする。これは、EUの基礎となる基本的価値観の一つである」と謳っている。
ここで、われわれはいくつかの大きな疑問点に到着する。「法の支配」という場合の「法」とは何なのか?「支配」といったとき、「法」は誰を支配するのか? 国家なのか、市民なのか?
「法の支配」といった場合、「神の定めた普遍的な法」が人知を超えたところに存在し、その「法」が「国家や市民を支配する」と理解することができる。しかし日本には、「神の定めた普遍的な法」という概念は存在しない。それゆえ、法律を含むすべての規範を抱合する「法」と理解しなければならないだろう。
「神の定めた普遍的な法」の存在しない日本で、国会で定められた法律が国家を支配し、市民を支配することがあるのだろうか。われわれは、法律による支配を否定せざるを得ない。法律は、統治を正当化するための手段であって、支配のためのものではないからだ。われわれには抵抗権が保証されている。そして、正当性に欠ける法律には断固として対抗しなければならない。
このように考えた場合、「法の支配」とは、国家による恣意的な権力行使を法によって排除する原理であると理解できるだろう。これについて、各国の法の支配の実態を調査し、2008年から毎年報告書を出している米国NGOワールド・ジャスティス・プロジェクト(World Justice Project=WJP)は、法の支配に関する8つの要素を提示している。
①政府権力の抑制。立法機関が政府に対して効果的なチェックと監督を行なう能力を実際に備えているかどうかの判定。
②汚職の欠如。すべての国家機関で贈収賄が行なわれておらず、公共資金が違法に利用されていないかどうかについての判定。
③開かれた政府。政府内の情報が国民に公開されており、国民が積極的に政治に参加できる環境が整っていることの判定。
④基本的権利。国際法によって規定されている基本的人権が国内法によって侵害されず、保護されているかどうかの判定。
⑤秩序と安全。一般的な犯罪の蔓延と、地域社会における安全に対する人々の一般的な認識の判定。
⑥規制執行。労働・環境・公衆衛生・商業・消費者保護規制などの政府規制053が効果的に施行されているかどうかの判定。
⑦民事司法。民事裁判制度に対する不当な政府の介入や汚職がなく、国民が民事上の問題を平穏に解決できることの判定。
⑧刑事司法。刑事裁判制度に対する不当な政府の介入や汚職がなく、犯罪捜査や判決が有効に行なわれているかどうかの判定。
これら8つの基準は、ひとつの「法の支配」のあり方を提示したものである。これらは抽象的ではない、具体的な基準なので、社会の判断に役立つものとなろう。イデオロギーに関係なく、社会体制とも無関係なので、それぞれの国において、「法の支配」の貫徹度を測定する場合に役に立つであろう。その点において、岸田首相の「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序」という概念に具体性はない。先の基準に照らした具体的内容が不可欠である。
さかのぼれば、安倍晋三元首相は2014年5月のシャングリラ・ダイアローグ(アジア安全保障会議)で、「海における法の支配の3原則(①国家は法に基づいて主張をなすべし②主張を通すために力や威圧を用いない③紛争解決には平和的収拾を徹底すべし)」を提唱した。
翌2015年11月にクアラルンプールで開催された第10回東アジア首脳会議(EAS)でも、安倍元首相は同原則を改めて強調するとともに、南シナ海をめぐる問題に関し、沿岸国は国際法に従い、境界未画定海域において、軍事・民生利用を問わず海洋環境に恒常的な物理的変更を与える一方的行動を自制すべきである旨述べた。
さらに、17年版の開発協力白書には、「法の支配に基づく自由で開かれた海洋秩序を実現するためには、安倍総理大臣が提唱した『海における法の支配3原則』、すなわち①国家は国際法に基づいて主張をなすべき②主張を通すために力や威圧を用いない③紛争解決には平和的収拾を徹底すべき、という原則を徹底する必要がある。インド太平洋地域において法の支配が普及し、定着していくために、日本は、海上保安能力構築支援や法制度整備支援を通じた法の支配の強化に貢献している。」と書かれている。
同年8月まで外務大臣を務めた岸田氏は、この「海における法の支配の3原則」の策定に関わっていたであろう。首相となった今、それをさらに発展させたい一心なのだろうが、そうはうまくいっていないのが現状である。
「法の支配」は万能なのか
バイデン米大統領の呼びかけで3月29日にオンライン開催された民主主義サミットにおいて、岸田首相はロシアのウクライナ侵攻や中国の軍備増強を念頭に「法の支配は国際社会が守るべき最低限の基本原則だ」と演説した。最低限の基本原則と言われたら、誰しもが守るべきものと理解される。つまり、「法の支配」は万能だと言いたいのだろうか。
朝日新聞の藤田直央編集委員は、「G7広島サミットを前に『法の支配』について考えてみませんか」(5月12日付)の中で次のように述べている。
〈国際司法裁判所(ICJ)で日本人初の所長を務めた小和田恆・元外務事務次官は、2018年の論文でこう指摘しています。
「国際社会は、多様な歴史体験、文化体系、民族特性を持つ異なった社会の集合体として形成され、発達してきた。(中略)国際法秩序における実質的意味での法の支配は、特定の社会集団によって主観的に主張されうるすべての価値判断を含むものではありえない。(その意味では、民主主義政治体制や市場主義経済体制などが『普遍的価値』として代表しているものは、議論の余地がありうるかもしれない)」
要するに、「法の支配」といっても、国際社会の価値観はまだら模様であり、ある立ち位置からすべて定義できるほど簡単ではない、ということなのです。〉
「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序」の形成を主張する岸田首相の発想は、すでに述べたとおり、193カ国の国連加盟国のすべてに支持されているものではない。それが最低限の規則だと強調しても、それを支持する人は少数である。
その意味において、「法の支配」は万能とはいえない。国にはそれぞれの歴史があり、それぞれの発展があり、現在がある。一方的な価値基準の提示は迷惑以外の何物でもない。
国連中心主義に立ち、国連の下での「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序」を形成したいのであれば、どこかの陣営に属さず、中立的立場での提言が必要である。アメリカ的価値を体現しているG7に属し、アメリカの主張を代弁している現状では、ついてくる国は少数にならざるを得ない。
岸田政権と「法の支配」
安倍元首相や最近の岸田首相は、外交的側面で「法の支配」を主張し続けてきた。そこで、彼が首相を務める日本に「法の支配」は存在しているのかについて考えてみよう。
民主党政権が崩壊して以降、自公政権のもとに「法の支配」は存在していたのか。最初に考えなければいけないのは、立法のあり方についてである。政府が提案する法律を、十数本で1つとした束ね法案とし、国会で十分な審議を与えないようにしてきた。これは立法権の軽視であり、立法の適正性に欠けている。
憲法9条を無視した解釈改憲を横行させ、戦争法案を次々と提出・成立させてきた。国家の基本原則である憲法が法律を支配することは「法の支配」の最低限の保証である。これすらも守ることのできない自公政権、とりわけ現首相である岸田氏に果たして「法の支配」を語る資格があるのだろうか。
解釈改憲を容易にした最高裁判所の「統治行為論」判決も批判されなければならない。この判決により、憲法9条の独り歩きが始まり、言葉の解釈にもならないくだらない理由をつけたうえで、それを利用した実質的改憲が行なわれてきた。それは憲法無視であり、「法の支配」そのものの無視である。
このような政権の方針を無批判的に受け入れてきた国民の側にも「法の支配」を無視する傾向がみられることが指摘できる。世界で唯一の被爆国の国民として、憲法9条の平和主義は守らなければならない原則である。しかし、自公政権の下で、海外情勢を利用したプロパガンダを受け入れ、憲法9条を忘れ去っている、この現状を憂えているのは、筆者だけはないはずだ。
最後に、東京大学社会科学研究所編『社会科学研究』56巻5・6合併号(05年3月30日)に掲載されている「特集『法の支配』の現代的位相」序文から、有用な部分を引用しよう。岸田首相の単純な発想では、「法の支配」を理解できない証左となる。
〈1990年代以降の行政改革や司法制度改革の中で、これまでの統治や秩序形成のあり方を問い直す基本的な理念として「法の支配」が主張されている。他方、国際的な文脈でも、グローバルな人権レジームや平和レジームの一環として「法の支配」が論じられ、また、国際開発援助の条件として「法の支配」の確立が求められている。「法の支配」は、国内的にも、国際的にも、そしてその両者にまたがって越境的にも、現代社会を特徴づける有力な知的・政治的資源の一つとなっているかのようである。
しかし他方で、現在「法の支配」が主張されているその背景を掘り下げてみると、そこには、多様な、場合によっては相互に矛盾・対立するいくつもの文脈が存在することもまた明らかである。逆にいえば、そのように複雑で錯綜した状況であるからこそ、「法の支配」の内容・意義・機能について理論的・実証的に精密な分析を加えることが社会科学の重要な課題となっている。
「法の支配」は、その内容・意義・機能をめぐって「争われる」概念である。それは、いうまでもなく、「法の支配」が概念として多義的であると同時に、それが常に、それぞれの論者の社会ビジョンやあるべき統治のコンセプトと結びついているからでもある。「法の支配」の理念が今日的状況の中で持つ魅力と同時に危うさもまたそこに由来する。〉
(月刊「紙の爆弾」2023年8月号より)
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「ブッ飛ばせ!共謀罪」百人委員会代表。救援連絡センター代表。法学者。関東学院大学名誉教授。専攻は近代刑法成立史。