第39回 「検査キットがないなら、キットに相当するものを作ればよい」の一言で鑑定人に
メディア批評&事件検証菅家利和さんの無実を晴らすのは、もうこれしかない。待望の再鑑定のチャンスが巡ってきたのだ。それなのにMCT118法の検査キットが販売されていないという。「キットがないから鑑定できない」。鑑定人になることを日本大学の押田茂實教授は断った。佐藤博史主任弁護士たちは、ショックを隠せなかった。
MCT118法の検査キットがすでに販売されていないとすると、日本にはもうMCT118法でのDNA鑑定ができる法医学者がいないのではないか、という不安に駆られたのだ。
その時だ。北海道出身の笹森学弁護士がその不安に応えた。笹森弁護士は、実は法医学者に劣らぬほどDNA鑑定を熟知し、その道で異彩を放つ法医学者を知っていた。「古い試料からも鑑定ができる学者がいる。彼は、ミトコンドリアのDNAを用いた鑑定ができる」。
それでも佐藤弁護士は、即答を避けた。確かに、別の鑑定人に頼るという方法もある。しかし押田教授には、1994年9月の日本大学法医学教室を会場に日本弁護士連合会(日弁連)の弁護士たちにDNA鑑定の実習を行った時から菅家さんらの毛髪などの鑑定などを助言し、手伝ってくれた以上、他の人に声をかけるのをできれば避けたかったのだ。とはいえ、鑑定を断られたのも事実だ。
笹森弁護士の郷里の北海道では、72年から74年にかけて3件の強盗殺人・強姦致傷事件、いわゆる「晴山事件」が起きていた。90年に死刑が確定した男性の再審請求で、札幌高裁は95年に北海道大学と東京大学に保管されている2人の被害者の膣内容物をぬぐったガーゼ片と、再審請求人である死刑囚の血液とのDNA鑑定の実施を決定した。その時の死刑囚の弁護人が笹森弁護士だった。彼は全国の法医学者に鑑定を依頼して回ったが、全て断られた。唯一、大学のDNA鑑定で冤罪を生んだ「みどり荘事件」の判決直後で、DNA鑑定に対する信頼が大きく損なわれた。DNA鑑定にとっては「闇の時代」を迎えつつあったのだ。
方々訪ね歩いた笹森弁護士は、ようやく引き受け手を見つけた。当時、大阪大学医学部の本田克也助教授だ。DNA鑑定の不遇の時代性など、本田助教授にはどこ吹く風だった。偶然にも、この時の検察側の鑑定人は科学警察研究所(科警研)の笠井賢太郎技官だった。
約25年も前のガーゼ片の鑑定で、難攻不落の城を落とすような鑑定だったが、本田助教授はドイツに足を運び、フンボルト大学ベルリンのルッツ・ローワ―氏を中心としたグループとともに開発した、Y染色体STR法で死刑囚が犯人であることを証明した。一方、笠井技官も同じ死刑囚が犯人としたが、MCT118法やHLA・DQα法など古い鑑定を数種類使い、技術能力の差が歴然としていたし、鑑定を裏付ける写真資料などが相変わらず欠けていた。
ガーゼ片と血液が一致した結果を本田助教授が出したことを、裁判所から開示されて初めて笹森弁護士は知った。不一致の結果を必ず出してくれるはず。そう期待していただけに、ショックは大きく、しばらくは立ち直れないほど落ち込んだ。
しかし、鑑定の技術だけでなく、検察、弁護側に偏らずに常に中立性を保ち、検査から導かれる客観的な結果のみにこだわる本田助教授の資質を笹森弁護士はまざまざと見せつけられ、それがむしろ本田助教授への敬意へと変わっていった。
この晴山事件の裁判所による嘱託鑑定でも分かるように、本田助教授は依頼者に迎合しない。口は堅く、約束は守る。法医学者としての信念に基づき、先入観を排して鑑定手続きの科学的な正当性にのみ厳格。新旧含めた鑑定技術に対応できる。DNA鑑定の歴史の生き証人ともいえる。このような長期にわたる足利事件の鑑定人としてうってつけの人物だ。
そう考えた笹森弁護士は、2008年9月、筑波大学に電話をかけた。「足利事件の鑑定をお願いするかもしれない。その場合には、主任弁護人である佐藤弁護士の了解を得る必要がある。もし引き受けていただける可能性があるなら、弁護団会議で先生を推薦するので、一度佐藤弁護士に会ってほしい」。
話を聞いた本田教授は驚いた。足利事件は何度も裁判が行われ、再審請求も08年2月に一度却下されている。DNA鑑定結果以外にも、有力な物的証拠や証言があるからではないのか。法医学者のだれもが怖くてふたを開けたがらないような事件であるし、ましてや弁護側による鑑定。あまり気が進まなかったが、いまや、「戦友」ともいえる間柄の笹森弁護士の話を無下に断ることはできない。佐藤弁護士は大変力のある人物だと聞いている。少し億劫だが、一度、会ってみるしかないか……。
そこで「試料を見てみないと、鑑定できるかどうかは分からないが」と断りを入れて本田教授は答えた。「必ずしもそちらに有利な結果にならなくてもよいのなら、検討したい」。
押田教授の代わりとなれば、いかに本田教授がすぐれた実力を持っていても、MCT118検査が出来るかどうか、について聞いてみたいし、それにより科警研鑑定を完全に潰すことができる、という考えがあった。ただ、一度、佐藤弁護士自身、本田教授と会って、その人物を自分の目で確かめてみたい、ということになって、アポをとって筑波大学で面談することになった。
数日後、筑波大学病院にあるレストランのロビーで、本田教授は初めて佐藤弁護士と会った。そこで、佐藤弁護士は「精液が付着した肌着は、かなり過酷な取り扱いをされてきたのですが、鑑定は可能でしょうか?」と口火を切った。本田教授は「古いとは言っても、Y染色体STRの研究から、精液斑は極めて保存性が高いことがわかっていますので、鑑定の可能性はあります。実際、笹森弁護士がご存じの晴山鑑定では25年前の精液斑からの鑑定に成功しています」。
躊躇せずに淡々と話す本田教授。吉と出るか、凶と出るか勝負の瞬間は未だと佐藤弁護士は思った。「それで、もう一つ伺いたいですが、MCT118検査はキットがないからできない、と押田先生は言っておられるのですが、先生はできるのでしょうか?」
この質問を聞いた本田教授は「キットがない、ということが何の問題があるのか」と唖然とした。「キットがないなら、キットに相当するものを作ればよいだけのこと」で、実際、本田教授はMCT118の研究ではキットを用いたことは一度もなかったのである。 MCT118については塩基配列はすでに公表されており、プライマーの塩基配列もわかっている。かつてはポリアクリルアミドゲルにより不正確な判定しかできなかったサイズ判定も最新のコンピューター御の解析機器では可能であるため、キットに含まれていたアレリックラダー・マーカーも不要である。
またSTR検査も今でこそキットがあるが、本田教授はキットの販売前からY-STR検査を最新の機器で行ってきたのである。しかし当時の多くのDNA研究者は新世代のDNA鑑定機器を使いこなせないでいた。というのはこれを使いこなすためには、最低限、当時のソフトウェアが先頭を走っていたアップルコンピューターと解析ソフトウェアを自在に使いこなし、1ミリ以下の薄さの、精度の高いポリアクリルアミドゲル板の作成をも自分自身の手で行う必要があったが、本田教授はそれを筑波大学の大学院時代から習得してきたのだ。
現在、パソコンの操作が簡単になり、誰しも使えるようになってきているから信じられないかもしれないが、一般社会だけでなく医療研究におけるアップルコンピューター(Mac)の導入は1980年代の大革命だった。それまではマイクロソフト社がパソコンを作り始めていたが、それを使いこなすには高度のコンピューターのコマンドを入力する必要があり、専門家以外にはとても使いこなすことはできなかった。まだワープロ専用機がやっと出回っていた時代だった。
しかしアップルの創設者であるスティーブ・ジョブズは、「The computer for the rest of us」というキャッチフレーズで、マウスによるクリック操作でコマンドを選択することができる、画像を主体とする二次元のコンピューター・インターフェイスを確立した。この方法は、21世紀になってマイクロソフト社のシステム・ソフトウェアにも受け継がれ、マイクロソフト・ウインドウズからは同様のマウスによる簡易操作が可能となり、パソコンはあらゆる社会に浸透していった。しかし当時はまだ先進的なアップルコンピューターは大変高価で、使いこなせる人は少なかった。
しかし本田教授は大学院生の時、筑波大学での消化器内科のグループの後輩の大学院生や、信州大学の麻酔科の同僚などから、本田教授はパソコンの使い方をていねいに学んでいた。これが、DNA鑑定に生かされた。特に高度な統計解析の操作の簡易さやその出力データの解読性には感嘆するほどであった。それに呼応するように、DNA鑑定もMCT118検査の手作業の鑑定の時代から、DNAは新世代のパソコン制御の解析へと発展していったからである。さらに同様のコンピューター制御の最新の方法で正確なミトコンドリアDNA鑑定も行うことができるようになっていた。したがって、信州大学の上司であった福島弘文教授、また押田教授も、当時新世代の鑑定方法は実施できなかったのである。DNA鑑定についても技術革新はめざましく、当時新世代であったこの方法も10年後の2015年以降にはさらなる新世代に置き換わっていったが、この新たな方法についても、国内で使いこなせたのは本田教授ただ一人だった。
そこで佐藤弁護士は次のように言った。「もし足利事件でDNA再鑑定の実施が認められたなら、ぜひ先生を推薦したいのですが」。本田教授は「わかりました。」と即答したが、まだこの段階では本当にDNA再鑑定が可能であるかはまったく先が見えなかったのである。
佐藤弁護士は、裁判所が再鑑定を認めれば、菅家さんの無罪を勝ち取れると思った。しかし、検察側が本田教授が鑑定人だと、再鑑定を猛反対するのは目に見えている。暫くの間、本田教授の名まえを隠して通すことを弁護団で確認した。
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独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。