日中平和友好条約締結45周年にむけて:日本はアジアに戻ろう-歴史と向き合い友好を築く- My speech to commemorate the 45th Anniversary of the Japan-China Peace and Friendship Treaty of 1978
核・原発問題国際今日はお招きいただきありがとうございます。日中平和友好条約45周年おめでとうございます。私は日本出身ですが、カナダに30年ほど、人生の半分ぐらいを暮らしてきた乗松聡子と申します。きょうは、日本とアジア隣国との関係について、外から見て養ってきた視点や経験を、みなさんと分かち合いたいと思います。
私は日頃日本人の話し方を聞いていて、日本人は自分たちをアジア人と思っていないのではないかと思うことがあります。たとえば日本で「アジアン料理」と言うと、タイとかインドネシアなどのアジア他国のいわゆる「エスニック料理」を指すようですが、日本食だってアジアのエスニック料理の一つですよね。あと旅行会社のPRで「アジアに行こう!」というコピーを見るときもありますが、「え、日本ってアジアじゃないの?」って思ってしまいます。東京にいる人が「日本に行こう」と言っているようなものです。
このような現象から、なにか日本はいまだに福沢諭吉の脱亜入欧思想や、大東亜共栄圏思想を引きずっているのではないか、自分たちはアジアに位置しながら他国とは一線を画し、ときには優越感さえ感じているのではないかと思うことがあります。
自分たちをアジア諸国の中で格上の存在として見る思想が、中国をはじめアジア太平洋全体での日本軍の残虐行為や、日本人による他のアジア人への差別感情の温床となりました。亡くなった評論家の加藤周一さんは言っていました。「南京大虐殺は現代人と関係がないといえない。現代の日本社会に、南京大虐殺を生み出した一因である差別感情がまだ残ってはいないか、二度と起こさないためにそれを調べることが若い世代の責任であり、だから歴史を学ばなければいけないのだ」と。
しかし残念ながら日本の教育制度では、日本における原爆や空襲の被害を取り上げて「戦争はいけない」「平和を祈る」といった漠然とした「平和教育」が中心です。大日本帝国が行ってきた他国への侵略や植民地支配の事実やそれを支えてきた民衆の差別心を克服するような教育は皆無に近いと思います。
私は高2と高3をカナダの学校で学びましたが、そこで目を開くことができたと思っています。そこは国際学校で、70か国からきた200人の学生たちと寮生活をしながら学ぶ学校でしたが、自分が日本の学校で聞いたことなかった歴史をアジアの同胞から聞いたのです。たとえばシンガポールの友人からは日本占領時の華人虐殺について、日本軍が赤ん坊を銃剣で串刺しにしたとか、インドネシアの友人からはいまだに現地の人から「ロームシャ」という言葉で記憶されている、強制動員の歴史について聞きました。
この頃から今にいたるまで、中国や韓国やさまざまなアジア同胞と付き合うようになり、自分は日本人というより以上にアジア人というアイデンティティを持つようになりました。だからこそ日本人がその歴史認識においてもアイデンティティにおいてもアジアと乖離していることについての問題意識が深まり、日本は「アジアに戻るべきだ」と思うようになりました。これがきょうの発言のテーマです。
そのためには加藤周一さんが言ったように大日本帝国がアジア太平洋全般に甚大な加害を行った歴史を勉強し、現在の平和構築に生かすことは必須です。日中共同世論調査などを見ても、中国の人たちにとっての日本との関係の課題は、圧倒的に「歴史認識問題」です。日本の学校教育やメディアは、政治の右傾化に伴い年々酷くなるばかりとの印象ですが、それでも、市民が草の根でできる真の平和教育はあると思います。私はこの20年ほど「平和のための博物館」運動に関わってきています。日本では、学校では教えない日本の加害の歴史を伝える資料館や記念碑が各地にあることに希望を見出しています。
そのうちの一つが「中帰連平和記念館」です。日本敗戦にあたり、ソ連軍は約60万人の日本軍捕虜をシベリアに抑留しましたが、1950年に、969名が戦犯として中国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収監されました。新生・中華人民共和国の寛大な政策により、戦犯たちはちゃんとした食事を与えられ、学習や文化活動などを許されました。それで「鬼から人間へ」戻り、自分たちの罪を認めるようになったのです。軍事法廷では結果的に一人の死刑や無期懲役もなく、禁固8-20年の有罪判決を受けた45人も、シベリアの5年と管理所の6年が刑期に含められ、全員が1964年までに帰国を許されました。被害国が加害国の戦犯を敢えて赦した「撫順の奇蹟」と言われる歴史です。
帰国した元戦犯たちは「中国帰還者連絡会」を立ち上げ、自分たちの戦争犯罪や加害の事実を日本で伝えていく活動を行いました。当事者の高齢化にしたがい、より若い世代が「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」として引き継ぎ、そして2006年11月に「NPO中帰連平和記念館」が川越市に創設され、今も日本の中国侵略戦争の歴史を伝え続けています。
中帰連記念館は、世界の平和博物館を横につなぐ、「平和のための博物館国際ネットワーク」の団体会員でもあり、3年に一回の国際大会がこの4日後にスウェーデン・ウプサラで開催されますがそこでも英語でこの資料館の歴史と意義を発表します。
もうひとつの平和資料館を紹介します。長崎の「岡まさはる記念長崎平和資料館」は長崎の朝鮮人や中国人の強制連行の被害者を記憶し、同時に、日本軍「慰安婦」、731部隊、南京大虐殺など、「史実にもとづいて日本の加害責任を訴えようと市民の手で設立された」(資料館パンフレット)平和資料館です。2013年米国の映画監督オリバー・ストーンさんをここにお連れしましたが監督はこの資料館を大変重要視し「このような資料館が東京にもあるべき」としきりに言っていました。
長崎の平和公園内にある「中国人原爆犠牲者追悼碑」はこう言います。「戦時中日本は約4万人の中国人を強制連行し、炭鉱や鉱山、港湾、土木工事などで過酷な労働を強いてわずか1年余りの間に6,830名もの死亡者を出しました。」長崎では三菱鉱業の高島炭鉱、いわゆる「軍艦島」と言われる端島炭鉱、崎戸炭鉱、日鉄鉱業の鹿町炭鉱に1042名が強制連行され、115名が死亡しました。このうち32名が長崎の浦上刑務所に勾留されて原爆の犠牲になりました。昨日の8月9日は長崎原爆の78周年でした。強制連行された上に原爆で殺された朝鮮や中国の人たちの無念に思いをはせなければいけない日です。
三菱の強制連行の被害者や遺族10人は2003年、国と長崎県、三菱マテリアルと三菱重工業を相手どって謝罪と賠償を求めて提訴し、結果的に敗訴をしたものの、三菱マテリアルとは2016年北京で、歴史的な和解にいたりました。被害者には謝罪の証として和解金10万人民元を支払い、記念碑の建立と「慰霊追悼事業」などの事業をおこなうことが約束されました。「日中友好平和不戦の碑」は長崎市蚊焼町の、高島を望む丘の「平和庭園」に建てられています。
長崎は、その大村飛行場が中国への渡洋爆撃の起点になった「加害」の場所でもあります。笠原十九司さんの本「南京事件」(岩波書店)にはこうあります。「南京を爆撃したのは、海軍木更津航空隊の新鋭機=96式陸上攻撃機20機だった。この日午前9時10分、長崎の大村基地を発進した爆撃機隊は、東支那海を横断し、台風による悪天候をおして南京まで、洋上600キロをふくむ960キロを4時間で飛翔、『南京渡洋爆撃』を敢行したのである。」この渡洋爆撃が始まったのが1937年8月15日だったのです。このちょうど8年後、大日本帝国は敗戦・崩壊しました。
長崎がこのように加害の地であったことをどれだけの人が意識しているでしょうか。同様に日本軍の渡洋爆撃の基地とされた韓国・済州島のアルドゥル飛行場では毎年南京大虐殺の追悼式が行われています。当時日本が植民地支配していた済州島の人たちには責任がないにもかかわらず、です。
広島も同様です。広島は日清戦争では大本営が置かれ天皇が直接指揮を取った軍都でした。G7が今年開催された宇品港は、日清戦争以来日本の侵略戦争の出撃起点、輸送拠点でしたし、朝鮮人と中国人を強制労働させていました。
G7とは、西側諸国が中国、ロシア、朝鮮民主主義人民共和国敵視で一致する事実上の「戦争会議」でした。そのような問題意識で、私は仲間たちと広島でG7批判展示を行いました。これもひとつの臨時の「平和のための博物館」であったと認識しており、国際会議でも発表の予定です。
広島では昨年強制連行の歴史を学ぶフィールドワークに参加しました。太田川水系では日本の軍国化が進むにつれてダム建設が次々と行われ、多数の朝鮮人が動員されました。戦争終盤には安野発電所建設のために当時の西松組(今は西松建設)が360人の中国人を強制連行し奴隷労働に就かせました。帰国までの約1年間に、112人が負傷、269人が病気になり、29人が死亡(うち5名は原爆死)しました。西松建設の被害者と遺族は法廷での闘いの末2009年に西松建設と和解にいたりました。安野発電所横にある、和解事業の一環として建てられた「安野中国人受難之碑」にはこうあります。「・・・太田川上流に位置し、土居から香草・津浪・坪野に至る長い導水トンネルをもつ安野発電所は、今も静かに電気を送りつづけている。」そう、広島の人々は今も強制連行で作られた発電所から電気を享受しているのです。
以上、8月6日と9日、「原爆」で日本の被害ばかりに注目がいく時期だからこそ、長崎と広島の加害性について強調しました。米国の原爆投下は許されませんが、日本人の被害ばかりを語るだけでは「日本を戦争の被害者として演出することだ」と隣国から言われるのも当然でしょう。原爆の被害を語るときも、被害者の約一割をしめる朝鮮人や、すでにお話した中国人の被害者を忘れてはいけないと思います。今年は1923年の関東大震災後大虐殺の100周年という大きな節目でもあります。6000人以上の朝鮮人、また、800人に及ぶといわれる中国人が惨殺されました。これは人類史上でも最大規模といえる日本人によるヘイトクライムであり、日本政府は責任を取る必要があります。
最後に:高校時代の留学から、カナダに移民して以来、中国や中華系の友人たちとの交流の中で感じたことは、中国の人たちは欧米列強や日本に侵略された「屈辱の100年」を決して忘れないということです。それは当然のこと。日本は、日清戦争時の旅順大虐殺、平頂山大虐殺、南京大虐殺、戦時性暴力、細菌戦、毒ガスをはじめ、何百年謝っても許されない犯罪を中国の人たちに対して犯しました。それでも、中国の人たちは日本人も日本文化も日本旅行も好きで、友好的な人たちが多いです。それなのに日本は、中国に侵略されたこともないのに中国に対して敵対的・差別的な人が多い。それは最初に触れたような明治以降の日本人の差別意識に加え、米国が主導する西側軍事同盟の中国敵視キャンペーンを日本メディアがそのまま垂れ流し続けるからだと思います。
中国の友人が私に話してくれたことがあります。日本と中国の間には2000年の歴史がある。近現代における日本の侵略戦争はこの長い歴史の中では僅かな期間であり、乗り越えることができると。有難い言葉だと思いました。しかしその友好も、日本人が過去の加害の事実を学び、それを記憶し継承し、「二度としない」という決意を更新し続けてこそのことです。
今年は、1953年の朝鮮戦争停戦協定の70周年の節目でもあります。この戦争は、日本から解放されたはずの朝鮮が分断され内戦状態となり、最後は米中戦争の様相も呈し、日本も加担しました。この戦争でさえまだ終結できていないのに今また、米国と日本を含む同盟国は、新たな戦争を中国にしかけようとしています。市民にできることは、政治参加することはもちろん、目の前に溢れる嫌中情報に踊らされず、批判的な目を養い、人と人との交流を大事にすることが、平和を促進し戦争を防ぐことであると信じています。
ご清聴をありがとうございました。
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※この記事はカナダ・バンクーバー在住のジャーナリスト・乗松聡子さんが運営するPeacePhilosophyCentreの記事
(日中平和友好条約締結45周年にむけて:日本はアジアに戻ろう-歴史と向き合い友好を築く)からの転載です。
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東京出身、1997年以来カナダ・バンクーバー在住。戦争記憶・歴史的正義・脱植 民地化・反レイシズム等の分野で執筆・講演・教育活動をする「ピース・フィロ ソフィーセンター」(peacephilosophy.com)主宰。「アジア太平洋ジャーナル :ジャパンフォーカス」(apjjf.com)エディター、「平和のための博物館国際ネッ トワーク」(museumsforpeace.org)共同代表。編著書は『沖縄は孤立していない 世界から沖縄への声、声、声』(金曜日、2018年)、Resistant Islands: Okinawa Confronts Japan and the United States (Rowman & Littlefield, 2012/2018)など。