【連載】フランス便り(ラップ聖子)

第2回 Nation : 国民、国家

ラップ 聖子

幼い頃の記憶。シンとした冷たい朝の空気。灯油と叔母の描く油絵の匂いのする祖父母の家で目覚めた朝。朧げな記憶の中でも、あれは確かにある冬の朝だったと今でもわかる。寝起きのまま、祖父母の居る食卓へ向かった。古い木の床の冷たさが私の小さな足へと伝う。やかんのシュンシュンと熱する音。湯気。居間でテレビを見ている今は亡き敬愛する祖父の、いつになく深刻な顔。テレビからは、いつもとはまた違う異様な興奮が、冷静さを装いきれずにいるキャスターから漏れ出ていた。幼いながら、よくは分からないけれども何か重大な事があったと何かしら感じたのだろう。

「何があったの?」と、真剣な眼差しをテレビに向けたままの祖父の横顔に聞いた。祖父は私を向き、近くに置いてあった叔母の描いた世界地図のような一枚の絵の中の、一際大きく鮮やかな赤で塗られた部分を指差しながら言った。「ソ連っていう、この大きな国が無くなったんだよ。」テレビの音と叔母の描いた油絵の中の赤い部分を見ながら、私は漠然と考えた。「クニ」が「ナクナル」って、つまりどういう事だろう? あれから、随分と時間が経ち、かつての「ソ連」だった国は、「ロシア」となり、またここ最近も連日ニュースになっている。そして私は相変わらず、漠然と「クニ」について考えている。

「ロシアはNATOの東方拡大を恐れて軍事侵攻へと踏み切った。」ロジックとして、十分理解できる。でも、「ロシア」という主体は、私の中でまだなんとなくぼんやりしたままだ。ここでいう「ロシア」は「プーチン政権」なのか、それとも「国民」なのか。昨年ノーベル平和賞を受賞したドミトリー・ムラコフ氏の運営する独立系新聞「ノーバヤ・ガゼータ」は、当局から警告を受け、軍事作戦終了までその報道を停止した。声なき声も届かなくなる中で、「領域」と「人民」と「権力」の距離感を、私は未だに測りかねている。

そういえば「クニガナクナル」感覚を微かにだが、垣間見たような気がした事があった。その時私はオランダのブレダという街に居た。EUには1987年から、欧州の学術的人的交流を促進し、国際的人材の育成と人的関係の構築を目的にスタートしたエラスムス留学制度(留学先の学費は免除、滞在費を助成する奨学金制度にも応募できる)があり、私はオランダに居ながら、そこでこのエラスムス留学制度を利用した欧州各国の友人達と出会った。クラスの半分がオランダ人で、残りの半分は他のEU諸国から来た学生が大半で、あとはロシアやブラジル、中国やインドといった国の学生が僅かにいた。

日本人は私一人だった。この間私は、フランス、イタリア、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、ブルガリアからの学生達とアパートをシェアし、英語を共通言語として共にリサーチやディベートやプレゼンテーション等をして学び、ピクニックやパーティーやクラブやパブに行って遊んだ。勿論其々には「クニ」があり、其々の話す英語には特有の訛りがあり、所謂「お国柄」も見られることもあった。

しかし彼らは、皆若く、アクティブでポジティブで、其々の訛りある英語で互いの夢や未来を語り合った。実際後にビジネスを一緒に始めたり、恋に落ちて結婚した学生達も少なくない。彼らは其々の「クニ」を持ち寄ってはいたが、また同時に彼らは「ヨーロッパ人」であるという共通のアイデンティティーを手にしていた。

この時の「クニガナクナル」感覚は、とてもポジティブなものに私には感じられた。特にその当時の日本は、所謂嫌韓・嫌中本が書店に並び、ヘイトスピーチが問題になっていたので、余計に、欧州の若者の国を超えた連帯意識とそのシステムが羨ましく感じられた。

しかし英国のEU離脱、自国ファースト、右傾化のトレンドの中で、特に近年EUは不安定化している。そんな中で、2022年4月24日にフランス大統領決選投票が実施され、ウクライナ情勢を受け、EU・NATOの結束、国際協調を訴える現職マクロン大統領が、EU懐疑派で親ロシア、NATO脱退を訴える極右政党「国民連合(RN)」のルペン候補を58,4%と41,6%の差で負かし、再選を果たした。

今回の大統領選では各メディアはマクロン氏の優勢をずっと伝えてはいたが、同時にルペン氏よりタカ派のゼムール氏の出現により「脱悪魔化」を果たしたルペン氏の猛追も油断ならないと伝えていた。実際投票日前のテレビ討論でルペン氏は、以前強調していたEU離脱をトーンダウンし、EU残留をしながらの改革の必要性へと軌道修正し、物価高騰に対応する燃料税の減税等を訴え、従来のタカ派的イメージ払拭やプーチン氏との関係性に関する話題をうまく避ける事にある程度成功していたように思う。

しかし正直なところ、私はマクロン氏が勝利するだろうと思っていたし(どれくらいの差でマクロン氏が勝利するかには興味があった)、実際そうなった。国民の批判精神の強いフランスは伝統的に現職の再選は不利だと言われ、マクロン氏に投票した人の多くは決してマクロン氏を積極的に支持していたわけでもないと思う。

18年から起こった黄色いベスト運動や緊縮財政、コロナ禍におけるワクチン・パスポート提示の義務化等、マクロン氏の政策は、国民からの強い反発と国の分断を生んだ。しかしブレグジット後の英国の混乱ぶりを目の当たりにし、ウクライナ情勢を受けて、フィンランドやスウェーデンといった国がNATO参加を急ぎ、欧州の再結集が叫ばれる中、フランス人がEUとの距離を置き、NATO離脱を訴える極右政党を勝たせるような投票行動はしないのではないかと思っていた。

Man wearing yellow vest protesting in Paris, France.

 

メディアのマクロン氏優勢の報道も一貫していたし、なんとなく肌感覚で感じるものもあるのだ。フランスに移住して9年になるが、正直なところ、ルペン氏を支持する友人や知り合いに出会った事が無い。

私は一般のフランス人ほど交友関係が広いわけではないが、議論好きで、政治や社会問題を語る事が多いフランス人の友人には、老若男女、右も左も、ビジネスマンもアーティストも、異性愛者もゲイも居るが、ルペン氏を支持する人に会った事が、本当にまだ一度も無いのだ。それはリベラルなパリに長く居たからかもしれないし、また最近移住してきたディナンも今回大統領選の第一回選挙の結果を見る限り、中道左派的な地域だからなのかもしれない。(ディナンではマクロン氏に次ぎ、急進左派のメランション氏が2位、ルペン氏が3位であった)。

しかし、それと同時にマクロン氏を積極的に支持する人に出会った事がないのも、また事実なのである。会えば皆口を揃えて、政権批判をし、マクロン氏にも非常に手厳しい意見を述べる。

実際マクロン氏は地方訪問中に市民から平手打ちを受けたり、卵やトマトを度々投げつけられたりもしている。大統領が政敵や批判者を毒殺した事を疑われたり、逆に歴史的に大統領が銃で暗殺されたりするどこかの国々に比べればまだ笑える程度だが、私は、このフランスの「領土」と「人民」と「権力」の距離感や緊張感を、日々生活する中で肌感覚でなんとなくだが、感じる。

ところで今回のフランス大統領選は72%と1969年以来最低の投票率を記録し、その事がメディアでも非常に懸念されていた。一方、毎回5割前後、若者に至っては3割と、年々投票率を最低記録更新していく日本。国を半分以下の主権者で決定し、しかもその多くが年配者であり、これから先の未来を生きるはずの若者はその方向性に無関心のまま、そんな丸投げ状態の日本の現在に、いつか「クニガナクナル」のではないか、と危機感を覚えながら、私は毎回フランスから在外投票をしている。

私の投じた票は、投票権を得て以来ずっと、負けに負けている気がしないでもないが、それでも私は投票し続けている。フランスという「領域」にはいるが、私は日本の「人民」であり、それが「権力」との距離感を測る方法だと信じるから。それが国や未来を創ると信じるから。あの寒い冬の朝、祖父母の家で覚えた冷たい足の感触と心許ない気持ちを覚えているから。

ラップ 聖子 ラップ 聖子

1982年、鹿児島出身。フランス在住。地元鹿児島とフランスを繋ぐ日本茶の輸入ビジネスを起業。日本茶販売とともにお茶と日本文化に関するワークショップを開催。一児の母。カナダ、オランダに留学経験があり、国際交流や語学が好きで、最近は母親になった事もありSDGsに関心を持っている。

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