第3回 トルコ航空機の出動は95年前の恩返し
メディア批評&事件検証どうしてトルコが私たちを助けてくれたのか。その真相も知らないまま23年の歳月が流れました。2008年10月17日でした。付っ放しのテレビに偶然、くぎ付けになってしまったのです。放送されていた番組は、「世界を変えた100人の日本人」。
その内容は、私たちがテヘランで助けられた時から95年も前の1890年のことです。和歌山県串本町大島の沖合で台風に遭遇したトルコ(オスマン帝国)の使節団を乗せた軍艦「エルトゥールル号」が沈没し、581人の乗組員が死亡、岸に命からがらたどり着いた69人が地元民に救出されたというものでした。
この時、闇夜の中で数十㍍の崖を降りて救助に向かった大島の人々は必ずしも裕福ではなかったようです。村の人々はあるだけの食料や衣類など生活用品を集めて提供し、衰弱する乗組員たちを人肌で温めました。けがの治療や体力回復に並々ならぬ苦労をし、自分たちの生活をも犠牲にしたそうです。その甲斐あって乗組員たちは日増しに回復し、故郷に帰ることができました。
治療に当たった医師らには、トルコからお礼の報奨金が出ることになりましたが「亡くなられた方々の遺族のために役立ててほしい」と申し出たそうです。
その大島の名もなき人々の献身的な援護と、誇り高い志をトルコでは学校の教科書に掲載して語り継がれ、「親日」の土壌ができたのです。
この大島の人々の真心と行動こそが私たちを助けた軌跡のトルコ航空機による日本人救出を導いたのです。衝撃が体に走りました。しかも救出に向かったトルコ航空の2機の救援機は、そもそもテヘラン在住の日本人と自国民を救うために用意されたものだったのです。救援機が私たちを救ったため、テヘランに取り残されたトルコの人々は、急遽陸路で脱出を図ったのでした。
思い出したのは、テヘラン脱出の1日前まで必死に各国の救援機に「せめて子どもたちだけでも乗せてください」と、懇願し続けたことです。全て「自国民で精いっぱい」とむげに断られました。
なのにトルコの人たちは………。イラクの攻撃を受けている空港で私たちを乗せたのだと思うと胸がつまります。さらにトルコ航空機で無事脱出して、つかの間のイスタンブールの街を歩いていた時に優しいまなざしで迎えてくださったトルコの人々の親切は、まさに大島の人々への感謝の気持ちの表れだったのだと気づきました。
さらにその後に軌跡の邦人救出の前夜、救援機をテヘラン空港に派遣する熱いドラマがあったことを知ることになりました。当時の伊藤忠商事イスタンブール支店長だった故森永堯(もりながたかし)さんが旧知のトルコのトルグト・オザル首相に電話で「日本人のために、トルコ機を飛ばしてもらえませんか」と直接要請をしたのです。
すると首相は「友よ、心配するな」と答えたそうです。オザル首相から要請を受けたトルコ航空は、直ぐに社内で機長や乗組員らの志願を募ると、全員が「トルコ人救助の恩返しがしたい。この救出に行くことを誇りに思う」と全員が志願したとのことです。
私たちがテヘランの空港で救援機を待つ間に空港内で「ドーン」という音が聞こえたのは、思っていた通りにイラクのミグ戦闘機の空港への攻撃でした。その時、トルコの2機は空港内で機内の明かりを消して難を逃れました。後に私は機長と再会した時、「あの時は死を覚悟した」と話してくれました。
こんな重要なことをどうして日本政府は、私たちに説明してくれなかったのでしょうか。残念でなりません。23年もの間、私たちは日本政府がトルコに頼んで救援機を出してくれたんだとばかり密かにそう思っていました。何も知らずにお礼もしなかった自分たちの非礼を情けなく思えてしょうがなかったです。
私はこれを機に日本とトルコの関係を知りたいと思い、いろいろな資料を集めて読みあさりました。自分がいかにエルトゥールル号の事故のことを知らないか、思い知らされました。それと同時に特定の地域の人たちがその歴史を必死に後世に語り継いでいたことがわかったのです。
そうした一部の人たちの努力によって、私たちの命が助けられたのだと理解して、何としてもその人たちへの恩返しをしたいと思うようになったのです。そのうえで、テヘランの地獄の淵から私たちを救出してくれたトルコ航空のことを多くの日本人にどうしても知ってもらうための努力をしなければいけないと覚悟を決めました。
トルコと日本の関係を知れば知るほど気になることが次第に膨らんでいきました。それはどうして日本政府は私たちが必ず来ると信じていた救援機をテヘランに出動させなかったのかです。トルコが救援機を出したことと何か関係があるのか。助けられた私たちには、23年間、何の説明もありませんでした。
(続く)
1942年、青森県生まれ。1961年、プリンス社入社(66年に日産自動車と合併し、社名が日産自動車に)。78年にイラン自動車工場の技術指導担当。1985年3月、トルコ航空機でイラン・テヘランから救出された邦人215人の一人。その後93年までイラン自動車工場の技術指導を継続。95年に菊地プレス工業に転属、2002年に定年退職した。現在、串本ふるさと大使、エルトゥルルが世界を救う特別顧問、日本・トルコ協会会員。