今日は心友、青木吾朗のことを語りつくした。
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身近な話から始めたい。
先週、ま、先日と言っても金曜日夜、私の心の友だった青木吾朗のお姉さん、青樹明子さんと食事を共にした。
「心の友だった」と過去形にしたのは勿論吾朗ちゃんは昨年夏突如逝ってしまったのだ。
私より20歳若いので62歳の本当に早すぎる死であった。
吾朗ちゃんの死は死を悼むとか心よりお祈りいたします、とかの表現では追いつかないのだ。
まず何よりも口惜しい。悔しい。そして吾朗ちゃんを奪って行ったヤツが本当に憎らしい。
もう1年になるが今からでも追いかけて行って取り戻せるなら取り戻したい、取り戻したい!!
それほど彼の身退きは私にとっては特別だった。
1周忌を過ぎてもこの口惜しい心の状態が治らないのはなぜなんだろう?
吾朗ちゃんとの出会いからもう一度思い出してみよう。
1989年10月の第1週から調査報道番組と銘打った「ザ・スクープ」がスタートした。
この番組を始めたテレビ朝日、というよりこの種の番組を始めたかったテレビ朝日の報道局長、小田久栄門氏(故人)の思いがずっしりと詰まった番組だった。
その割にはスタート時の人事構想は甘く、プロデューサーの日下雄一氏はそれまで、そしてその後も「朝まで生テレビ」のプロデューサーで頼りにはなったが、新発の番組の骨組みというか構想はスタート時点でもちゃんと描かれていたわけではない。
ディレクター陣はテレビ朝日のスタッフが6、7人は居たけれどいずれも未経験者、その点口が達者な外部のスタッフ5人余りが番組スタート時点では番組制作ではリードすることが多かった。
そんなある日、日下プロデューサーが「鳥越さん、このままじゃ戦力が足りません。
そこで考えたんですが、情報系の番組で局が違うのですが、昼の番組に青木くんというディレクターがいるんですが、ちょっと欲しいんですよね。
だけど局の系列が違うので人事はちょっと動かせないんですよ。
どうにかなりませんかねえ??」と嘆き節のような口振りで私に呟いた。
以下は青木吾郎氏の遺影
日下プロデューサーの話を聞いて私の頭の中で「へえ、そんな男がいればいいじゃん、それは私を引き抜いたテレ朝の天皇、小田久栄門氏に聞いてみるしかないな。しかし、そんな不規則な局間異動ができるのかな?」半信半疑で私は小田さんに掛け合った。
するとたちまちのうちに青木吾朗氏は「ザ・スクープ」のディレクターへと異動してきたのである。「ああ、小田さんはさすがテレ朝の天皇と呼ばれるだけのことはあるなぁ」、私は心から感動した。最初のうちは外部のスタッフが番組作りの真ん中にいたので彼の真価を発揮することもできず、私とのトークも多かった訳ではない。
先に吾朗ちゃんのお姉さんと食事をしたと書いたが、実はこのお姉さんともう一人、吾朗ちゃんのすぐ上のお姉さん、R子さん。この二人のお姉さんとはテレビに来るずーっと前から知り合いだったのだ。
私が大阪の社会部にいる時、空港担当(航空担当でもある)だったことがある。
1969年秋のことだ。
日本航空が企画した欧州空港視察団という試みがあった。
大阪の空港は騒音問題で周辺住民を悩ませていた。ヨーロッパだって空港は騒音問題はあるのではないか?そう思ってこの企画に乗った。っていえば体裁はいいが日本航空に日本─欧州間のフライトにタダで乗っけてもらえる企画なのだ。
日本航空は創立20周年企画というふうな感じで新聞記者たちを誘っていた。
私は喜んで乗った、この企画。
欧州の空港騒音問題をきっちりと視察してくるぞ!!という気持ちで。
この企画がどうのこうのという話じゃない。
この時の視察団の副団長、まあ実事上の団長格だったのが、当時日本航空東京本社広報部次長だった深田祐介さんである。
このフライトで私は深田さんと親しくなった。
その後私が毎日新聞東京本社社会部に転勤になって、しばらくして社会部のあるデスクに「この人大宅壮一ノンフィクション賞を取ったので社会面に載せる。
ちょっと取材してくれない?」と言われたのが深田さんだった。
しかし、ヨーロッパの空港視察団で事実上の団長をやっていたあの深田さんと「大宅賞の深田さん」が結びつかずしばし当惑した思い出がある。
「新西洋事情」で大宅賞を受賞した深田祐介さんはあの日本航空の深田裕輔さんだった。
しばし当惑した。どうしても結びつかなかったんだ。
でもその後深田さんやその部下、加藤さんらと銀座あたりを飲み歩いていた。
そこに加わってきたのが日本航空の広報誌のコピーライターだった青木姉妹だった。
それが縁で青木姉妹とはよく飲食を共にして親しくなった。
妹のR子さんの結婚式に呼ばれた。
御夫君はなんと朝日新聞の記者で、結婚式場では右も左も朝日新聞の記者たちで、勿論毎日新聞記者など居るはずもない。
なんか居心地がよくなかったなあ。その席上には後に運命的な出会いをする青木吾朗くんも当然居たはずなのだ。
記憶にない。
その結婚式から何年経ったか、忘れた頃に、テレビ朝日「ザ・スクープ」の初代プロデューサー、日下雄一氏に「昼の番組に青木というディレクターがいるのですが、あいつがいるといいのですが、他局だから取るのはちょっと無理ですかね???」と呟かれたのだ。
まだあの時の青木姉妹との関連は頭に浮かんではいない。
しかし、テレビ朝日の天皇と言われた小田久栄門さんの力で不規則な人事異動が行われ、私は青木吾朗くんと出会うことになった。
あの、あの青木姉妹の弟君か!!青木吾朗は本当に優秀な人材だった。だけではなく私にとっては我が人生で人間観や歴史観、世界観を共にできる類まれなる人物だったのである。
しかしだ、しかし。吾朗ちゃんは62歳で行方を眩ましてしまった。
早逝である。
私だけの言葉では不十分だろう。
ここに2ページのプリントがある。参考までに紹介しておこう。
『最高のテレビマン、25期生の青木吾朗さんを偲んで』というタイトルの一文だ。
『吾朗ちゃんが亡くなった……』「私が泣いている鳥越 俊太郎さんから電話を受けたのはこれが2回目でした。
1989年10月にスタートした鳥越さん司会の『ザ・スクープ』の初期、吾朗ちゃんはまだスタッフではありませんでした。
半年後、プロデューサーの故日下雄一さんが『青木吾朗という優秀な奴がいて番組のテコ入れに彼が欲しいんです』と鳥越さんに話した所、なんと鳥越さんは吾朗ちゃんのお姉様の結婚式ですでに吾朗ちゃんと面識があり『それならば』と当時編成局長の小田久栄門さんにかけあって吾朗ちゃんを引き抜いてきた、という経緯がありました。
その後,プロデューサーは坂本隆さん、茅野臣平さんと引き継がれ、上松道夫さん、萩原耕太郎さん、高梨聞吉さん、古川柳子さん、藤ノ木正哉さん、芋原一善さん、実力派揃いの『スクープ』軍団は大いに暴れまくりました。
多士済々の中、年次は若かったけれど吾朗ちゃんは番組の起爆剤、理論派として鳥越さんが志向するテレビにおける調査報道の中心にいました。
鳥越さんと吾朗ちゃん。二人は出会ってすぐ盟友となりました。
『ザ・スクープ』で、『スーパーモーニング』で、番組を離れてからも二人は30年以上一緒でした。
『歳は離れていた。しかし、価値観や向かう方向が同じだった。最初にあった時から僕たちは親友以上に、一生の友達になったんだよ。裕美子ちゃん』
鳥越さんは、吾朗さんのいない人生は信じられない、と泣いていました」
以上は「ザ・スクープ」の出発当社から同じ戦いの中にいた仲間の一人、鈴木裕美子さんの、吾朗沙への手向けの言葉である。
次は一般にはあまり見られることがない活字媒体。『Director’s MAGAZINE』という雑誌のNo.76の中に「プロデューサー列伝」「青木吾朗」(株式会社テレビ朝日報道局 ニュース情報センター チーフプロデューサー)という貴重な文献を見つけた。
この冒頭の写真がいい。吾朗ちゃんらしい表情だ。その写真を冒頭に掲げておきたい。
「Director’s MAGAZINE August 2004」「取材・文:田中裕 撮影:田口昭充」とある。
いいねえ吾朗ちゃんらしい表情だよ。文章も一部抜き出してご紹介しておこう。
【映画好き・ドラマ志望からスタート】
惜しまれつつ幕を閉じるTV番組は滅多にない。
「支持される=視聴率が悪くない」という構図があるかぎり、番組をやめる理由はない。
逆に、良質な番組であっても一部の支持しか集められなければ続けていくことはできない。
メイン司会者が亡くなったとか、不祥事が起きたという明確な理由があれば話は別だが、番組制作にかかわるスタッフらのテンションは以前と変わらず、視聴者からの信頼も集めているのに、なぜか終わってしまうことがある……その数少ない例をテレビ朝日の『ザ・スクープ』(89年10月〜02年9月)に求めることに異を唱える人はいないだろう。
従来の堅苦しい報道番組のあり方を一変させ、“観させる工夫”を盛り込んで成功したのが『ニュースステーション』だとすると、『ザ・スクープ』は地道な調査報道というスタイルを確立して支持を集めた。
両番組が世に提示した新しいTV報道の形式は、今日のニュース番組における基本スタイルになっている。『ザ・スクープ』の表の顔はいうまでもなく鳥越俊太郎氏だ。
そして、裏から幾人ものスタッフを支え続けてきたもう一人の顔が、現・報道局ニュース情報センターのチーフプロデューサーを務める青木吾朗その人である。
青木氏は83年にテレビ朝日に入社。宣伝部門と美術部門に半年ずつ勤務した後、ワイドショーの制作にたずさわった。
実は青木氏、意外なことに「報道志望」ではなかったという。
「映画会社が演出部門の採用を中断して久しかったので、ドラマを作るためにはTV局に仕事を求めるほかなかったんです。
もともと映画好きだったこともあって、あくまで志望はドラマでした。
ここ4〜5年はさすがに口に出さなくなりましたけど、入社して15年くらいはずっとドラマの部門へ配属希望を出し続けていたんですよ。
どうも理屈っぽい奴だからドラマには向いていないと思われていたのかもしれませんね(笑)」(中略)
【鳥越俊太郎との出会い】
鳥越俊太郎と二人三脚でやってきたイメージの強い青木氏だが、意外なことに最初の半年はろくに口を利かなかったという。
青木氏から見れば鳥越氏は「活字の人」。どこかTVを”舐めて”いると勝手に思い込んでいた。
反目し、怒鳴り合ったこともあるそうだ。
そんな2人が一気に距離を縮めたのは、『ザ・スクープ』で採り上げた「消えた花嫁」問題がきっかけである。
「当時、行政主導でフィリピンなどから農村部へ結婚相手を斡旋する事業が行われていたのですが、一度結婚したフィリピン女性が逃げ出すという事件が頻発したんです。
僕たちは、行政による人身売買であるという主張を掲げて、失敗した結婚事例ばかりを取材していた。
すると鳥越さんが『成功した例も見せて欲しい』と言った。
最初僕は『成功しているように見えるだけで人身売買的な実情は変わらないんだ』と返したんです。これに対して彼は『それは都会の人間の論理』と譲らない。
それで改めて取材をしてみたのですが、結果としては、彼のいう通りだった。
農村で働く青年が『一生、誰にも愛されずに死んでいくのは耐えられない』と言ったんですよ。
この言葉が耳に焼き付きましたね」
この取材をきっかけに鳥越氏と青木氏の関係は激変した。「ディレクターやプロデューサーという立場にいると、キャスターやコメンテーターのコメントがどこに着地するのかは、とても気になるところ。実際に納得できないことも多い。
しかし、鳥越さんにはそういう不安なところがまるでないんですよね。彼は、しっかりとした歴史観と知識を持っているので、ここいちばんのときでも絶対に外したりはしないんです」この2人には、まさに『戦友』という言葉がふさわしい」(後述略)
いやあ、この言葉を目にしたのは勿論彼の死後である。
嬉しい気持ちと悲しさが同時に押し寄せて私は混乱したのだ。
吾朗ちゃんと私の間には20年という時間の開きがあった。にもかかわらず彼が語っていた歴史観、人間観、世界観。
そういう言葉に満ち満ちている深い思い、これが間違いなく通底していたのだ。
嬉しかったなあ!最後の写真は21年11月2日「ザ・スクープ」に関わった4人─茅野臣平、鳥越俊太郎、田丸美寿々、そして青木吾朗。
この4人がお互いに会えてこの人生は楽しかったなあ。そう思っている写真である。
(2023/9/18)記述
鳥越 俊太郎
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1940年3月13日生まれ。福岡県出身。京都大学卒業後、毎日新聞社に入社。大阪本社社会部、東京本社社会部、テヘラン特派員、『サンデー毎日』編集長を経て、同社を退職。1989年より活動の場をテレビに移し、「ザ・スクープ」キャスターやコメンテーターとして活躍。山あり谷ありの取材生活を経て辿りついた肩書は“ニュースの職人”。2005年、大腸がん4期発覚。その後も肺や肝臓への転移が見つかり、4度の手術を受ける。以来、がん患者やその家族を対象とした講演活動を積極的に行っている。2010年よりスポーツジムにも通うなど、新境地を開拓中。