【連載】鑑定漂流ーDNA型鑑定独占は冤罪の罠ー(梶山天)
足利事件再鑑定の鑑定人尋問の会場になった栃木県下野市の自治医科大学。裁判官らが見守る中で大阪医科大学の鈴木廣一教授が被害者の肌着をハサミで等分した。

第46回 連絡もなく突然ファックスで届いた鑑定データ

梶山天

2009年3月10日頃だったろうか。筑波大学研究室の電話が鳴った。本田克也教授が受話器を取ると、大阪医科大学の鈴木廣一教授からだった。2人が話をするのは、同年1月23日に鑑定人尋問で栃木県下野市の自治医科大学で会って以来のことだ。

足利事件再鑑定の鑑定人尋問の会場になった栃木県下野市の自治医科大学。裁判官らが見守る中で大阪医科大学の鈴木廣一教授が被害者の肌着をハサミで等分した。

足利事件再鑑定の鑑定人尋問の会場になった栃木県下野市の自治医科大学。裁判官らが見守る中で大阪医科大学の鈴木廣一教授が被害者の肌着をハサミで等分した。

 

「実験は進みましたか」。取るものもとりあえずと言った雰囲気で、鈴木教授が尋ねた。「まだ確かめている段階ですが」。本田教授はとっさに返事をしてしまった。「先生はどうですか」。「結果は出ました」。

これ以上、聞かない方が良いだろうと思った本田教授が黙っていると、鈴木教授が興奮したように「大変なことに、結果は違ってるよ。STRのほとんどで」と、受話器越しにも大きな声で鑑定結果を躊躇なく伝えた。

「やはりそうですか。大変なことになりましたね」。正式な再鑑定の結果だからうかつには話せないと思い、言葉を選びながら本田教授が慎重に答えると、「SE33の検査もやったけれどもそれも、明らかに違っている」と鈴木教授はお構いなしに話し始めた。

本田:「私の場合は今のところ、Yファイラーで多くが違っています。また、アイデンティファイラーでも違っているようです。MCT118法でも違っているみたいですが」。

鈴木:「うちは、それはやっていないから……。けれどもミニファイラーでも違う」。

「分かりました。今後、重大な問題になりそうなので慎重に、くれぐれも外部に情報が漏れないように内密にやりましょう」。釘を刺して本田教授は話を打ち切った。鈴木教授は何故か無言になり、そのまま電話を切った。

法廷で明らかにする前に事実がメディアに漏れ、噂だけが独り歩きしてしまうと裁判での信用性が失われる。検察や科学警察研究所(科警研)が鑑定書送付前に圧力をかけ、鈴木教授が鑑定結果を隠そうとしたら大変なことになる―それが、本田教授の「内密にやりましょう」という言葉に込めたメッセージだった。

電話を終えた本田教授は、相手の胸中を慮(おもんばか)った。重要な秘密を1人で抱え込むのは余りにも苦しく、耐えがたい。できれば誰かに打ち明けて、この思いを共有してもらいたい。鈴木教授も信じられない事実に、思わず電話してきたのだろう。とすれば、他の人にも電話しているのでは、という不安がよぎったのも事実だ。

本田教授も、せめて弁護団には伝えたいと思った。だが、公平な鑑定人としては、絶対それはしてはならないことだ。これまで一度も守らなかったことはない。抱えた思いに蓋をして、裁判所に鑑定書を提出して公になるまで1人で耐える覚悟を決めた。

しかし、鈴木教授は、どうだろうか。検察官、特に法医学者出身の福島弘文・科警研所長とは交流が深い。連絡して指示を仰ぐかもしれない……。一瞬不安が頭をもたげたが、正義感の強い人だからそんなことはないはず、と自分に言い聞かせた。そう思いたかった。鈴木教授がこの後、科警研にこの件を報告しても「どうして違っていることを本田に伝えたのだ、向こうが安心するだけではないか」と叱責されるだけだ。このことは秘密にしておくに違いない、と1人納得した。

3月末のことだ。本田教授が研究室に戻ると、鈴木教授からファックスが2枚届いていた。何かと思って手に取って見ると、鑑定データだった。こんな大事なデータを事前に連絡もなく、いきなり送ってくるなんて、無神経すぎないか、と本田教授は眉をひそめた。瞬間、検察側の鑑定人がこんなことしたら駄目だろう、と怒りさえ覚えた。足利事件の再鑑定を行っていることを、本田教授は大学内でも極秘にしている。鑑定データも試料も、機密性を保持すべく、管理していたのだ。

鈴木教授の杜撰(ずさん)とも思えるやり方に少々閉口しながら、本田教授はファックスの字面を追いかけた。鈴木教授は、Y染色体・常染色体STRの全ての部位の型判断を出していた。試料が古いため、部位によっては型が不明になるものがあるにもかかわらず、あまりにもきれいに結果が出過ぎていることに本田教授は驚いた。

本田教授が行ったY‐STRで結果が出ているものは、鈴木教授のデータとはほぼ一致している。やはり真犯人のDNAである可能性が高い。しかし、本田教授の実験では高分子の型は検出できなかったものもある。鈴木教授はまた、常染色体STRで通常では増幅されにくいはずの高分子の型も判定しすぎていた。これは本田教授と異なっているものが含まれていたため、鈴木教授が誤っていると確信できた。だから「結果を慌てすぎで出してしまってはいないか、もっと再現実験を行うべきではないか」と本田教授が心配していると、電話が鳴った。

「ファックスを見てもらえましたか」。鈴木教授が自信たっぷりにしゃべった。本田教授はとりあえず、一致している型についてこう話した。「見ました。ここまでよく出されましたね。Y‐STRでいえば、私が確認できた型と全て一致しています。結果はほぼ同じです。しかし、(本当は鈴木教授に再実験をやってもらいたいと思いつつ)常染色体とY染色体STRの一部の検査は自信がありません」と答えた。さらに「私はSE33部位の検査はやっていませんがMCT118部位はやりました」とも答えた。

すると鈴木教授は「うちはMCT118部位の検査はやっていない。結果はどうでしたか」という。本田教授は内心、教えたくないなと思いながらも「菅家さんは18‐29型、肌着は18‐24型だと思います」と答えた。「そうですか、うちはやっていないので」。こう言った後鈴木教授は黙り込んだ。

鈴木教授の鑑定結果も、菅家利和さんの型とはまったく一致していなかった。しかし、Yファイラー以外、特に常染色体STRの型は本田教授といくつか違っていた。この違いは外来DNAの汚染によることも考えられ、鈴木教授には次のように伝えることにした。

「アイデンティファイラーについては型がうまく決まらない(実際は不一致があったから)ので自信がなく、出す予定はありません。鈴木先生の方で自信があるなら出しても構いませんが、あまりにもたくさんの部位の型判定を出し過ぎるのはどうでしょうか。たとえばDYS393(Y染色体STRの部位の一つ)は、先生の結果で正しいですか。菅家さんのDYS393は『18』という世界的にも稀な型が出ているので重要と思うのですが。サイズが小さい型のせいか、こちらではやや泳動誤差があり、値が少し変動するのですが」。

このDYS393部位の18型は日本人でも非常に珍しく、その判定結果一つで鑑定が決まると言っても過言ではないと本田教授は考えていた。鑑定結果を照合し合うのなら鈴木教授にはそこを皮切りにして、他の検査結果も再検証してもらいたいと期待し、粘り強く確認したのだ。本田教授は、菅家さんとの不一致については一致しているけれども、出された型はいくつか間違っているのではないか、と叫びたい気持ちであった。しかし、鈴木教授は「あれでいいよ」と言い切って本田教授の話には乗らなかった。後で考えれば、鈴木教授は、部下に頭を下げて、再実験をやらせるような謙虚さはとうていなかったのであろう。部下を信じる、という意味では良いことかもしれないが、自分で実験できない弱みが露呈しているのである。鈴木教授は自分で鑑定はしない。鑑定は全て部下にさせているのだ。何でも1人でこなせるから、自分が確信できるまで再現実験できる本田教授とは違うのだ。

本田教授は「……そうですか。それにしても、何度も言いますが結果を少し出し過ぎていませんか。確認実験の繰り返しが必要かと思うのですが。私の場合は、多数の繰り返し実験で値が少しずつ変動しますので、真の型を出すためにがんばっているのです。先生に自信があるのならよいのですが」と言葉を選んで再度の実験を薦めてみたが、「こちらの結果は確かだから」とあっさりさえぎられてしまった。自分の結果を「これを見ろ」とばかりにこちらに押しつけようとする強引な態度には腹がたっただけでなく、「自分の結果に合わせろ」と言わんばかりの強引な押しつけに、鈴木教授のあまりもの奢りを感じてうんざりしたのである。「鈴木さん、あなたは間違っている。これが正しいと言われれば、私の本物の結果は出すことができない。あなたと一致している型だけ出すとすれば、私の鑑定の精度が低くなってしまう。これでは菅家さんの無罪は証明できても真犯人を逃してしまう」と思いながらも、「ここは鈴木さんに手柄を与えよう、菅家さんのためなら、私は自分を押し殺そう」と脇役に回る覚悟を決めたのである。

鈴木教授は1~2回の実験で自信を持っているが、数値しか見ていないのではないかと思った。これも事実が判明した後でのことだが、助手に実験させていたとなると、データの出方の不確実性に対する認識が、この時の鈴木教授にはなかったのかもしれない。

本田教授が鈴木教授に念を押すようにY‐STRについて、DYS393が『18』という世界的にも稀な型が出ている例をわざわざ示してしっかり鑑定を繰り返して確認をすることを求めた。本田教授は、どんなことがあろうと、菅家さんと肌着の型が会わないだけは両者で確かであるから、菅家さんの冤罪を証明することを優先させたのである。そしてこのY‐STRは、性犯罪には打って付けの鑑定法で、本田教授がドイツのフンボルト大学ベルリンのルッツ・ローワー氏を中心としたグループと共に研究、開発したもので。最も得意とする手法だ。

 

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梶山天 梶山天

独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。

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