【連載】鑑定漂流ーDNA型鑑定独占は冤罪の罠ー(梶山天)

第49回 弁護団に相談せずに直接鑑定人に鑑定データの提出求める 公正さを欠く東京高裁

梶山天

2009年5月、国民が一定の重大事件について、一審の裁判を裁判官3人に国民の間から抽選で選出された裁判員6人を加えた9人の法廷で審理判断して結論を出すという裁判員制度が法制化された(同年8月に東京地裁の裁判から開始)。そんななか、足利事件の再鑑定に取り組んでいた筑波大学法医学教室の本田克也教授が5月7日、その鑑定書を東京高裁に送った。翌日には弁護側、検察側双方の「真犯人とされる精液と菅家さんのDNA型が一致しない」とする鑑定書が裁判所に届いた。

本田教授が鑑定書に記したのは、全部で11部位だ。内訳は、性犯罪にうってつけのYファイラー8部位(そのうち大阪医科大学の鈴木廣一教授とDNA型が一致しているのは6部位、残りの2部位は鈴木教授が鑑定していないDNA型)と、ミトコンドリア2部位、そして旧鑑定で実施されたMCT118の1部位だった。鈴木鑑定書には33部位の結果が記されていた。

本田教授が常染色体STR型判定に核心を持つことができず、鑑定書に記載しなかったのには二つの理由があった。

一つは、双方の出した肌着遺留精液の型が26部位も異なっていたからだ。つまり、真犯人とされる型が二つ出たことになり、どちらかが間違っていることは紛れもない事実だ。

また常染色体STRは、鋭敏な検査なので、被害者の型が紛れ込む可能性がある。本田教授自身は、何度も再検証して自信を持っていたが、2人の結果が不一致となると鑑定自体の信用性が疑われ「鑑定不能」、さらには再審棄却の可能性もある。肌着精液遺留と菅家利和さんのDNA型が一致していないことはどちらの鑑定でも明らかで、覆ることはない。ここで自らの鑑定の正しさを主張して再審請求の争点が逸れることは避けたかった。

手柄は鈴木教授でいい。菅家さんの無罪という結果さえ得られれば、目的は達すると考えた。あくまで鈴木鑑定を立てようとしたのだ。ただ、鈴木教授の結果を知らされていなければためらわずに全データを出していただろうと残念に思ったのも事実だ。なぜなら、本田教授のデータにこそ真犯人の情報があると確信していたからだ。

もう一つは、メディアのスクープ合戦で、鑑定作業が妨害され、さらに多くの実験ができなかったからだ。しかし、11部位だけの報告でも再鑑定の目的には十分適(かな)っているのは明らかである。DNA鑑定ではたった一つの違いでも、不一致と判断できるからだ。

鑑定書を送付し終えた本田教授は、残りの仕事に取りかかった。幾通りもの検査で、DNA

検査機器であるパソコンのハードディスクが飽和状態だ。整理しなければ、正常に作動しなくなる恐れがある。それに、データが盗まれるという可能性もないとは言えない。鑑定書に記載したデータを残し、予備実験のチャートの多くを消去した。翌日、6月12日までに弁護側と検察側が意見書を出すことになった、という報道を目にした。

それから数日後、やっと終わったと本田教授がホッとしていたところに、東京高裁の岡田博子書記官から電話がかかってきた。何事なのかと思いながら電話に出た。

「鑑定書をありがとうございました。それで、試料がもし残っていたら、その残りを大至急送り返してください。大至急、お願いします」、書記官の声は慌てていた。

「そんなに大急ぎでお返しする必要があるのですか」と聞き返すと、「是非お願いします」と書記官は言うだけで、理由を説明しない。なぜこんなに焦っているのかと思いながらも承諾し、本田教授は試料の残りを返送した。

東京高等裁判所のプレート

 

5月12日午後4時ごろ、岡田書記官から再び電話が入った。「実は検察官から先生の鑑定書に追加データを送ってほしいという上申書が出されたのですが、それを郵送とファックスで送っていいでしょうか」。

本田:「何のことですか。すべて判定書に記載した通りですし、鑑定書の内容はまだ法廷で正式に検討されていないはずなのになぜ追加データが必要なのです」。よく読みもしないで、鑑定書が誤っているとでも言いたいのかと、不愉快な気持ちになった。

岡田:「私どもでは分かりませんので上申書を見ていただきたいのです」。

同じことしか繰り返さない書記官に、本田教授が仕方なく、「追加データとはどういうものか。少し読み上げてもらえませんか」と言うと、ホッとしたような声が返ってきた。

「『泳動チャートの全データ、定量PCRの全データ、ミトコンドリアDNAのプライマー配列とサイクル数……』」。

聞きながら、これに何の意味があるのだと本田教授は思った。鑑定結果を導き出すデータは全て提示した。理論的には、何らの破綻もないはずだ。鑑定書そのものには、反論できないから、言うなれば「ゴミ漁り」をやって反論の材料を集めるつもりかと思えた。

本田:「後半の要求、例えば定量PCR以降は比較的簡単ですが、チャートの多くは機密性のためパソコンから削除しました。残っているものもあるかもしれませんが、内容が分からないようにファイル名を変更しているため、すぐに探し出すのは困難です。鑑定に多くの時間を割いたので、他にやるべき仕事もたくさん残っており、余裕がありません。しばらく鑑定業務から解放されたいのです。それに、弁護人や検察は6月12日までに意見書を出すのでしょう。それまで待ってもらうよう、考え直してほしいのですが」。

腹立たしい気持ちを抑えながら本田教授が伝えると、書記官は途方に暮れたのか、電話の相手が裁判官に変わった。

「とりあえず上申書を見ていただけないでしょうか。そのうえでできないならできないで構いません。それと、データの提出を求めているのは、科学警察研究所です」。

本田:「追加データの提示は当然、鈴木先生にも連絡されているのでしょうね。鑑定人は2人とも同等の立場であるはずですから」。本田教授は当然の質問をした。

裁判官:「鈴木先生にはなく、本田先生だけです。はっきりしたことは分かりませんが、鈴木先生の鑑定書は私たち素人目にも分かりやすく、また、実験の全データを提示されてい

るからではないかと思います。それに対して、本田先生の鑑定書は難しく、分かりにくいところやデータに足りないところがあるからではないでしょうか」。

本田:「私に送る以上、鈴木先生にも当然送るべきです。本来ならとても応じられませんが、それでは困るのでしょう。とりあえず、上申書は送ってください」。本田教授は仕方なく了解した。

裁判所から送られてきた検察の上申書を見た本田教授は、目を剥いた。これはまるで「鑑定の取り調べ」じゃないか。簡単に言えば、これまでに行った実験の全データを提出せよ、という内容だった。裁判官はデータの提出を求めたのは、科警研と言った。科警研がデータを調べるのだろう。とすれば、この指示は福島弘文所長以外にありえない。

しかし、と本田教授は思った。再鑑定は、旧鑑定が正しかったのかどうか、検察・弁護側の両鑑定人がともに公正な立場で検証するために東京高裁が命じたものだ。そして再鑑定の結果、旧鑑定が極めて杜撰だったことが明らかになった。科警研は今や裁かれる立場にあると言っても過言ではない。この再鑑定は「再審請求審」というれっきとした裁判だ。それなのに、渦中の科警研にどうして追加データを求める権利があるのか。検察は科警研の代理人でもないし、裁判所は公正な判断者であるべきなのに、これはどうしたことか。

そもそも裁判官の一連の対応が、本田教授には、不信極まりなかった。鑑定人同士連絡を取り合うことを指示したり、証拠調べに関連する追加データの提出を鑑定人に求めたり……。あまりにも偏った訴訟指揮だと感じていた。

本田教授は、佐藤博史弁護士にこの事実を伝えた。佐藤弁護士がすぐさま裁判所に確認した結果、検察官が追加データの提出を求める趣旨を裁判官に説明し、裁判官はそれを認め、弁護人の意見も聞かずに本田教授に直接連絡して上申書を郵送した、という事実が判明した

これは、検察の上申書一項に記された《同鑑定『本田鑑定』のDNA型判定が正しいものか……正確に検討できない》という主張を裁判所が認めた、という意味にも取れる。検察は裁判所に対して、本田鑑定の排除への準備をすでに進めていたのである。裁判所が証拠調べに関して判断を示す場合には、必ず弁護側の意見を聞いたうえで行わなければならないという刑事手続き上の原則が踏みにじられたのである。

「本件DNA鑑定に関し、徹底して公正な態度を持たせられたい」。明らかな違法行為に激怒し、佐藤弁護士は5月15日付で裁判所に申入書を提出した。

再鑑定は警察庁の科学警察研究所が行った肌着の旧鑑定が菅家さんのDNAと一致するか、しないのか。それが最大の目的だ。しかし、東京高等裁判所は公平さを失い弁護団に相談もせずに本田教授本人に鑑定データの提出をさせるなど違法行為を繰り返した。これが裁判所のすることか。しかもデータの提出を求めたのは裁判官が本田教授に電話で明らかにした科警研だという。科警研が足利事件を裁くのか。その科警研の旧鑑定が問題視されているのではないのか。それを明らかにするための再鑑定である。

 

鑑定のあら探しをするような要求に腹立たしさを感じていた本田教授だが、ここで逆上して検察の要求を無視しても菅家さんのためにならない。残っているデータを懸命に探し出し、既に消去したデータがあることも正直に付記して5月25日付で改訂鑑定書を提出したところ、鑑定書を修正し、改訂版を出したと報じられた。最初の鑑定書が誤っていたかのようだな―。事情を知ってか知らずか、そのやり方を不愉快に感じたが、裁判の大きな目的が矮小な事象に囚われるのを避けたかったので、黙ってやり過ごすことにした。

 

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梶山天 梶山天

独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。

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