【連載】鑑定漂流ーDNA型鑑定独占は冤罪の罠ー(梶山天)
菅家利和さん(左から2番目)に深々と頭を下げて謝罪する栃木県警の石川正一郎本部長(同3番目)。

第52回 冤罪被害者への法廷での真の謝罪、法制化へ

梶山天

電撃的な刑務所からの保釈になった菅家利和さんは、その足で千葉市内のホテルで記者会見を開いた2009年6月4日夜からしばらくは、ずっとマスコミの取材が続いた。

その間、佐藤博史弁護士に案内されるままテレビ局らへ渡り歩いた。テレビのどこを見ても自分の保釈のニュースで一時、途切れることがなかった。

短い期間ではあったが、たくさんの有名人にも会えた。元巨人軍の長嶋茂雄監督や小宮悦子さんなど刑務所のテレビで見たことのある人たちばかりだった。なかでもフジテレビの安藤裕子さんは、テレビで見るよりも生で見るほうがずっと綺麗だ、と思ったという。

とはいえ、マスコミに対しては、少し複雑な思いがあったのも事実だ。逮捕された当時は、ひどいことを言うものだ、書くものだと思った。警察の情報だけで、完全に自分が犯人にされていたのだ。まるで女児を狙うオオカミみたいに報道しているところもあった。マスコミと言うのはきちんと取材もしないで一方的に報道するものだと恨んでもいた。自分の家族の生活まで、脅かす人たちだと思った。しばらくは、マスコミに対して怒りを覚えていたのだ。

ところが、裁判所が事実から目をそらそうとしている時に、本当のことに目を向けて、報じてくれた雑誌やテレビ局があった。自分の自白に矛盾があること、検察、警察の取り調べが一方的なこと、そして、唯一の証拠であるDNA鑑定に問題があることなどをマスコミがきちんと指摘したのだ。この時は、「法廷で真実を恐れずに話せ」と勇気をマスコミにもらった。うれしかった。

釈放への道が開けたのも、もちろん弁護団の努力だが、マスコミの後押しのおかげでもあった。だから、釈放後の報道を見ていても、ありがたいという気持ちが湧いてきた。昔のことは帳消しというか、許すというか、もう自分でこだわるつもりはなかった。

警察、検察、そして裁判所に対しては、「絶対に許せない」という思いをずっと心の中で抱えて生きてきた。17年半の人生を返してほしいというのが本音だった。それができないなら、せめて自分や家族に謝ってほしい。中でも自分を取り調べた2人の刑事と、裁判所に起訴した検察官には、是非直接会って謝罪してもらいたいと思った。

菅家さんが釈放されて間もなくして検察の幹部がマスコミを通じて「服役させて、大変に申し訳ない」とコメントを出した。菅家さんは謝罪というのは、相手に直接するものではないかと自分は思うと言葉にした。「会ったこともない人の言葉が新聞に載っていても、自分にはなかなかピンとこない」という菅家がさんの言葉がISF独立言論フォーラム副編集長の梶山天の胸に刺さったままだ。

釈放から13日目に当たる6月17日、菅家さんは左藤博史弁護士の付き添いで初めて東北新幹線に乗って宇都宮まで出向いた。実は栃木県警から弁護士のもとへ、菅家さんに会って謝りたいという連絡があったのだ。わざわざ東京に出向いてくれると言われたが、それもなんだか申し訳ない気がして菅家さんの方が同県警まで足を運ぶことにしたのだ。

県警本部で菅家さんを出迎えたのは、石川正一郎本部長だった。温かく迎え入れられながら、なるほど警察というのは、犯人に対してすごくおっかない態度をとるが、普通の人には至って親切なんだということを初めて知ったという。

菅家利和さん(左から2番目)に深々と頭を下げて謝罪する栃木県警の石川正一郎本部長(同3番目)。

菅家利和さん(左から2番目)に深々と頭を下げて謝罪する栃木県警の石川正一郎本部長(同3番目)。

 

石川本部長は、頭を深々と下げて、「本当に申し訳ありませんでした」と謝った。低姿勢で、正確のよさそうな顔をしていて、心から詫びているのが伝わってきた。

この日の朝は、実は謝罪されても許さない、と言う思いで宇都宮に向かったのだ。でも、一番偉い人が真摯に謝ってくれたので、「まあ、いいか」という気持ちになったという。自分が受けた仕打ちを忘れることはできないが、詫びる気持ちは伝わったので、石川本部長には「分かりました」と言って、握手して帰ってきた。

本当は、菅家さんを取り調べした2人の刑事を県警本部に来てもらっての謝罪を要求していた。しかし、その2人は、姿を見せることはなかった。石川本部長は「2人の刑事に会ってきた。2人とも同じ気持ちだった」というようなことを説明し、「自分が代理で詫びるんだ」と話したという。

この謝罪だが、本来ならば、冤罪を作った人本人が法廷で謝罪するという法律が制度化されていないことがおかしい。だって、そうでしょう。冤罪になった人は自分の人生だけでなく、家族や親類の人生までもめちゃめちゃにされる。いつもそうだが、冤罪を作った裁判官が謝らず、その代役を再審を開いた裁判官たちがするのは、冤罪の被害者にしてみれば、何の意味もない。

人の命や長期の自由を奪うことの重大さを軽んずる裁判官や検察官、警察官の多いこと、この上ない。裁判とは、何事も公平でなければいけないのが原則である。だとすれば、再審で冤罪が確認され、無罪になった人に誰に謝ってほしいのか、再審を開いた裁判長が冤罪被害者に聞き、その人物が存命ならば法廷で謝罪をするという裁判の儀式として法制化する必要が急務だ。裁判では罪を犯したら償うことは法律で決まっている。冤罪も罪である。捜査機関がその罪を犯して何もお咎めがないのは、裁判の公平性がない。直ちに実行すべきだ。捜査機関が慎重に証拠を見極めて裁判に臨む事につながると信じたい。

足利事件では、早い段階で当時信州大学法医学教室の本田克也助手が警察庁の科学警察研究所(科警研)が行ったMCT118部位のDNA鑑定に欠陥があることを指摘し、その指摘を真摯に受け止めてそれが本当かどうか確認もせずに無視、世紀の再鑑定で間違いだと認めるまでに17年もかかったのも犯罪に等しい。この技官たちも法廷に呼んで謝罪させるべきだった。この科警研こそが冤罪を作ったガンそのものだ。この組織がまともな組織で父んと確認実験をして、間違いだったと謝罪、訂正しておけばもっと早い段階で菅家さんは事由になれたのは間違いない。それほど科警研の犯した罪は重大なものと言える。

さらにもう一つ見直しをしてもらいたいことがある。私が朝日新聞鹿児島総局長時代に鹿児島県警が架空の公職選挙違反事件をでっちあげて当選した県議や住民たち十数人を逮捕し、起訴した「志布志事件」の裁判中にこの捜査が冤罪だったとする調査報道を行い被告とされた全員が無罪になった。逮捕時に捜査員たちは表彰を受けたが無罪になった途端に表彰は取り消された。足利事件でも再審で菅家さんが無罪になる表彰されていたていた捜査員全員が取り消された。当然である。

そこで思うのが、裁判官や法医学者らなどが叙勲などでよく表彰されているが、その中に冤罪を作った人たちがいる。しかも2回も冤罪にかかわった裁判官もいる。こんな人たちの表彰は取り消すべきではないのか。一体何を基準に表彰しているのか、国民をバカにするのも程がある。警察ではもうすでに行っているのだ。すぐにでも調べて取り消しをするのか、しないのか、検討してもらいたい。

ここらへんで菅家さんが栃木県警本部で石川本部長から謝罪を受けた話に戻そう。県警本部の訪問を終えた後、車で宇都宮から足利に向かった。窓から見える景色を懐かしく思った。特に赤城山が見えた時には、いよいよ故郷に帰って来たとの実感がわいた。足利市内に入ってから、事件現場のすぐそばにある田中橋から見渡せる風景は、余り変わっていないように見えました。

町の中心部を市役所へと北上する途中、実家があった場所へと続く路地をちらりと覗き込んだが、面影は見つけられなかった。今はもう空き地になっているという。中心部の街並みは、マンションやビルが増えていて、だいぶ違って見えた。十字屋とか、キンカ堂とか、昔あったデパートがなくなってしまっていた。

市役所に行くと、大勢の支援者や市民が出迎えてくれて、「お帰りなさい」と声を掛けてくれた。主婦や若者たちも近寄ってきて「握手してください」と言われるなど足利で温かく出迎えられて、格別にうれしかった。

逮捕される前は、行くのは職業安定所ばかりで、市役所の中へ入る機会は選挙の投票くらいしかなかった。まして市長に出迎えられて「歓迎します」と言われて記念写真まで撮られるなんて、夢のような気分だった。市長からは、市営住宅と仕事を世話してくれると言ってもらった。ありがたい話だった。

市役所を出てから、事件の被害者である女児の遺体が見つかった渡良瀬川の河川敷に足を運んだ。草木が高く生い茂っていたので、冬に実況見分で連れてこられたときとは、だいぶ様子が変わっていた。女児が亡くなった場所に向かって手を合わせ、心から冥福を祈った。帰りは、17年半前とほとんど変わらない東武線の足利市駅から特急の「りょうもう号」に乗って帰った。

塀の中では新聞やテレビを見ていたので、世の中の変化を全く知らないわけではないが、それでも真新しいことに驚かされた。ホテルでは、センサーのついた蛇口や乾燥機の使い方かわからなかった。駅の改札には、ハサミを持った駅員が立ってたはずだが、全部自動改札にな変わっていた。地頭券売機は昔からあったが、最近のタッチパネル式の画面の操作は難く、改札にピッと当てるスイカやパスモも慣れるまで時間がかかった。生まれて初めて持った携帯電話は少しずつ使い方を覚えているが、メールは思うように打てなかった。

菅家さんは、ときどき妹と携帯電話で話していた。17年ぶりだった。妹が佐藤弁護士に送っていた手紙の中には、これまで、「母親ともに何度も死を考え、身内であるのを隠してきた」などと書いていたが、今後は菅家さんと一緒に「静かに生活したい」とも記されてあった。7月下旬には、菅家さんは妹と浅草の浅草寺の裏手で待ち合わせて、近くの喫茶店でコーヒーを飲んだ。「長い間、苦労かけたね」と言うと、妹は「もう気にしなくていいよ」と言葉を返した。大人になっても「利和ちゃん」と呼ばれていたのが、「利和さん」に代わっていた。

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梶山天 梶山天

独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。

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