第53回 肋骨2本折るリンチ、まずい食事、地獄だった獄中生活
メディア批評&事件検証罪を犯したのであれば、それ相応の罰を受けるのは当たり前だが、冤罪で刑務所生活を送る人にとっては、一日一日が地獄だ。足利事件の犯人として17年半をも拘置、刑務所生活を送った菅家利和さんに塀の中でどんなだったのか、ありのままを語ってもらった。
一言でいえば、想像を絶する生活を一時期送っていた。割り当てられた房の入居者のなかには、とんでもない暴力者がいるとこともあるということだ。
菅家さんが千葉刑務所に入所したのは、2000年10月30日だった。その日は午前中に荷物をまとめて、バスで移動した。刑務所についてから数人の入所者といっしょにお昼を食べた記憶があるという。刑務所生活を送るための書類を埋めたり、荷物の点検をしたりするのに、かなりの時間がかかった。割り当てられた房にようやく入ったのは、夕食を食べ終えたあとの夜7時ごろだった。菅家さんには「187番」という番号が付けられた。でも、名前で呼ぶ看守が多かった。
刑務所の生活に慣れるためだと思うが、最初の3週間は独房で過ごした。食事は三食とも自分の房に運ばれてきて、作業の時間には拘置所と同じような袋貼りの仕事だった。工場は全部で11あり、第6工場に配属され、6人の雑居房に移った。菅家さんは看守に「俺は本当は(殺人を)やってないんです」と話したが、看守は「おめぇの言うことなんか信用できるか。みんなと同じことやってもらうぞ」と相手にされなかった。
この工場は、65人くらいの服役囚がいて、流れ作業でゴム手袋を袋詰めするような仕事で、菅家さんは、ベルトコンベアのそばに立たされ、流れてくるゴム手袋をビニール袋に入れて流すだけの作業だ。初めて配属された時は、十等工という立場で、月に600円しかもらえない。時給ではなく、驚くことに月給の額がそれだけだという。
朝は6時半に起床して、まず簡単に房の掃除を行い、7時から自分の房で朝食を食べ、行進しながら工場へと移動し、8時から作業を始める。工場に行く途中、「検身場」と呼ばれる部屋で、パンツ一丁になって、何も持ち込んでいないか、チェックされる。規則が厳しかった最初のころには、パンツを下ろしてケツの穴まで調べられた。そのあとに舎房用の作業着から工場用の緑色の作業着に着替え、午前8時から11時55分まで午前中の作業だ。
その後、工場内の食堂のような場所に移り、食事は正午からわずか15分で食べ終えて12時20分には、また作業を午後4時10分ごろまで続ける。
お風呂は拘置所と同じように、夏場は週に3回、冬場は週に2回入れる。工場ごとに一番風呂から四番風呂まで順番が決まっていて、午後の作業の最中に工場のメンバーが一斉に入る。千葉刑務所には、旧風呂と新風呂と二つあるので、第六工場なら65人が二手に分かれ、銭湯のような風呂場で、一斉に体を洗う。
08年夏ごろには、百人を超える工場もあったので、風呂がだいぶ窮屈だったと思う。おまけに風呂の時間は相も変わらず15分だった。石鹼やシャンプーの貸し借りは厳禁で、シャワーを出しっぱなしにしても「長く使うな!」と怒られ、髭を剃って体を洗ううちに「3分前!」と怒鳴られ、更に「1分前!」とせかされるため、ゆっくり湯船に浸かる時間はない。
夕方午後5時ごろには、房に戻って点呼されて、5時過ぎに夕食が運ばれてくる。入所したころは、房内の小さな流しで、食器を全部洗う決まりだったが、その後はお皿を洗ってもらえるようになってお箸やスプーンだけを洗うようになった。
午後6時からは「仮就寝」と言って、布団を敷いて寝ても構わないし、テレビを見たり、手紙を書いたりして過ごしてもいい時間となる。夜9時になると、就寝の時間で、今度は眠くなくても必ず横にならないといけない時間だ。
ここからが刑務所が秘かに抱えている問題だ。菅家さんが入居した雑居房には、すでに千葉刑務所に入って17年ほどになるという先輩がいた。菅家さんより年下だが、おっかない顔をしていた。殺人罪で無期懲役となった暴走族上がりで、その男が雑居房のリーダー格らしく、会うなり「お前は1週間だけ客だからな」という。客でいるうちに、布団の敷き方や上げ方、窓の拭き方、食器の洗い方、トイレの掃除のやり方などを全部覚えろ、と言うわけだ。一度に多くのことを覚えるのは苦手だったが、なかでも難しかったのは、食事の後で洗い終えた6人分のお箸をそれぞれの箸箱に片づけることだった。ほとんどの服役囚は、百円くらいのお箸と3百円位の箸箱を自分で買って使っているのだ。みんなが同じ茶色っぽいプラスチック製のお箸を使っていて、印もついていないため、どれが誰のお箸かがさっぱり分からないのだ。ところが、どうもベテランの人なら見分けがつくみたいだという。
1週間は確かに「客」としていろいろ教わったが、ちょうど1週間後には元暴走族の先輩から「そろそろ覚えたか?」と聞かれ「いや、まだ全然です」と答えたらそれから容赦ないいじめが始まったのだ。リンチと言ってもいい。
何かを間違えたのを皮切りに、いきなり頬をぼこっと殴られた。敷いた布団がちょっとでも曲がっていれば、それだけでも怒られた。何かあるたびに、立て続けにやられるようになって、頭を壁にぶつけられたり、急所を蹴られたり、首を絞められたりして気を失うこともあった。水が苦手なのに、水を張ったバケツに頭を押し付けられて息ができなくて、死ぬかと思たこともあったという。
トイレに入れられて「脱げ」と言われ、素っ裸にされ、ションベンを飲めとか、ウンコを食えとか、しつこく要求もされた。12月でただでさえ寒いのに窓を開けて「その前でジッとしてろ」と裸のまま座らされた。消灯の時間に掛け布団を奪われ、裸のまま敷布団で横になった。寒くて小便がしたくなっても「そこでしろ」と言われてトイレに行かせてもらえなかった。ついに我慢できずに布団の上に漏らしてしまうと、翌朝になって「菅家が寝小便しました」と看守に言いつけられた。
暴力は毎日ではないものの3、4日に一度、フルコースでやられ、いつも夕食を取ってからの仮就寝の時間だった。菅家さんが暴力を受けている間、他の4人は黙って見て見ぬふりをしていた。昼間の工場も同じなので、昼食を取る場所も一緒だった。彼の気まぐれで「おめぇは食うな」とか、「食ったらただおかねぇぞ」と言われて、怖くて昼ご飯を食べられなかったことがしばしばあった。
看守から「菅家、お前は食いたくないのか?」と聞かれても「は、はい」と答えるしかなかった。助けてもらいたかったが、そのリーダー格の男が何度も「いいか、看守に言ったら殺すぞ」と脅されていたので、怖くて何も言えなかったという。
もの凄く乱暴なやつで,同房者が過去にも被害に遭ってて、何十回も懲罰を受けているという札付きのワルだと聞いた。看守がヤツに何度か「お前、何か悪いことしてねぇだろうな?」と確かめるうちに、異変を察知した。菅家さんが殴られて2週間ほど過ぎた時に、医務の先生が房にやってきて、さりげなく菅家さんの体調を気遣って診察をするふりをして医務室へ連れ出してくれた。
医務の先生から「お前、アイツに何かやられたのか?」と聞かれたので最初のうちは「いや、やられていません」と答えていたのを医務の先生がしつこく「そんなはずはない。おかしいと思ってここに連れて来たんだ。本当はやられたんだろう?」と聞くので「はい、やられました。胸が痛くて起き上がるのが辛くてしかたありません」と実情を語った。
胸を後ろから腕で締め付けられたり、正面から蹴られたりした時から、ズキズキと痛くて起き上がるのが辛かった。その場でレントゲンを撮ってみると、右胸の肋骨2本が折れていた。養生を理由に、菅家さんは再び独居房に移った。最初の1週間は安静にして横になり、次の2週間は自分の房で袋貼りの作業を再開した。そして3週間が過ぎたころ、今度は第4工場へと配属され、新しい雑居房に移った。よほどのトラブルがなければ工場を替えられることはないので、その後の8年半はずっと同じ工場で働くことになる。
ご飯は、宇都宮と東京の拘置所と負けないくらい人が食べるものとは思えない味だった。米に麦を混ぜた黒っぽい飯はカチカチで、わざわざアメリカから安いものを輸入して使っていると噂されていた。たまに出るうどんやそばは、冷めてのびきっていた。野菜の煮物や炒め物が出るが、うまく言葉では表現できないくらい、強烈にまずいものばかり。
拘置所と違って、食べ物を自分で買ったり、差し入れしてもらったりすることはできない。出されたものを食べるほかなく、嫌いなカボチャやサバを口にしたことがあるが、それでもまずくて、残す人も少なくなかった。拘置所で60キロに増えた体重が刑務所に入った途端に50キロを割って40キロ台に戻った。
服役囚の数少ない楽しみは、週に二度のパン食の日だ。聞いたことのないメーカーのコッペパンが、決められた曜日に出された。小さな袋詰めのマーガリンやジャムをつけたり、たまについてくる小さなコロッケを挟んだりして食べるのが、刑務所では、一番のご馳走だった。パン食日は、コーヒーとヨーグルトがついてきた。菅家さんはコーヒーが大好きだったのに、刑務所のコーヒーには、最初から砂糖が入っていて甘ったるく、量もほんの少ししかなかった。
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独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。