【連載】鑑定漂流ーDNA型鑑定独占は冤罪の罠ー(梶山天)

第54回 刑務所で芽生えた友情、再審を諦めない気持ちの励みに

梶山天

千葉刑務所での生活がスタートした菅家利和さんは当初、第6工場に配属され、6人の雑居房で暮らすことになった。ところが、リーダー格の男から相次いで暴行を受けた。暗雲が立ち込めていたのだ。異常な雰囲気に気づいた医務の先生がこっそり呼んで菅家さんがズキズキ痛いという胸のレントゲンを撮り、右の肋骨2本を折る大けがをしていたことが発覚する。

そこで、ただ湿布を張り替えるだけの治療が続いた。養生を理由に独居房に入り、3週間後には、別の第4工場へ配属され、新しい雑居房に移った。菅家さんに暴行を加えたリーダー格の男とは、二度と顔を合わすことはなかった。

2001年2月ごろに菅家さんの兄が一度面会に来てくれた。どんな話をしたのか彼はよく覚えていないが、看守から「兄貴が心配するから、暴力を振るわれたことは絶対に言うなよ」と厳しく言われ、心配をかけないように多くを語らなかった。これは、刑務所内での暴力が外に漏れないように封じたのだ。刑務所内での暴力は、ほんの氷山の一角にしか過ぎないかもしれない。残念ながら隠すことに力を注ぎ、房内の暴力をなくすことを徹底する刑務所の意志が見えない。

正義の女神のテミス像

正義の女神のテミス像

 

リンチを受けた当時は、毎日が気が狂いそうだった。それでも新たに配属された第4工場の人たちとの出会いと友情が塀の中で「冤罪」と戦う菅家さんを一回りも二回りも成長させていく。まさに「戦友」と言ってもいいだろう。この人たちの笑顔が菅家さんの心を励ましてくれたのは間違いない事実である。

第4工場での仕事の大半は、紙袋に紐の取っ手を取り付ける作業だった。デパートなどで使うような手提げ紙袋で、菅家さんは、紐を穴に通したり、結び目をつけたり、紙を糊(のり)付けしたりしていた。8年半の間には、手提げのビニール袋にプラスチックの取っ手を電気ゴテでくっつける仕事や、袋の汚れや破れを見分けて区別するだけの仕事もあった。

月給600円の十等工から始まって、3カ月から1年に一度のペースで九等工、八等工と位が上がって、6年くらいかけて一等工になった。最高位の一等工の月給は7300円。それ以上は報酬は上がることはなかった。位が上がる理由は、実はよくわからないという。懲罰があると下がってしまうが、真面目に働いていると、前触れもなく、「上がったよ」と看守に言われるだけで、3カ月かかることもあれば、1年以上かかることもあった。技術や熱意は全く関係なく、位によって面倒な持ち場を割り当てられるわけでもない。同じ工場には28年も服役して、懲罰もないのに、ずっと三等工で月給が1000円くらいの人もいた。給料が上がる理由がよく分からないので、あまり作業を頑張る気にはなれなかった。

平日の作業の合間には、1日30分の運動がある。晴れていれば外へ出て、足腰が弱くならないように、1周400メートルの運動場を歩いたり、走ったり仲間とソフトボールをしたりすることもある。雨の日には、講堂で卓球をしたり、カラオケの道具を出して歌を歌ったりもした。年に一度ののど自慢大会では、何とか工場の代表として「潮来笠」を歌い、一度だけ刑務所全体で2位に入賞したこともあった。

刑務所での一番の楽しみは、テレビを見ることだった。拘置所では新聞とラジオだけの生活だったので、9年ぶりにテレビを見た時は、とてもうれしかった。

テレビを見られる時間は、平日なら夜7時からで、6人の雑居房にいたころは、チャンネル争いを防ぐために、テレビは二つのチャンネルしか選べなかった。一つはNHKの教育テレビで、もう一つは、刑務所が決める民放局の一チャンネルだった。菅家さんが好きな「水戸黄門」がよく月曜日に放送されたが、いつも見られるわけではなかった。野球中継もよく流れたが、9時ちょうどにテレビが消されるので試合を最後まで見られることはほとんどなかったという。

06年ごろから刑務所の規則が変わって、2人だけの房となり、チャンネルを自由に選べるようになった。年代の違う人が同房だと、チャンネル争いが起きると聞くが、菅家さんは、3年間で入れ替わりに同房になった3人がみんな同年代だったので、見たいテレビはいつも似たり寄ったりで特に気兼ねすることもなかったという。

第4工場に移ってからは、幸い悪い先輩にいじめられることはなかった。むしろ第4工場では、いい仲間に恵まれた。大切な仲間だと胸を張る。柔道をやっていて、腕っ節が強く、みんなから慕われていた兄貴分のような存在だった人は、「菅家さんはおとなしすぎるから、もう少し言いたいことははっきり言った方がいいよ」とアドバイスしてくれた。他の人からもよく似たような言葉を掛けてもらい、肩をポンとたたかれては励まされた。

刑務所に入ってから2年ほど過ぎたころ、雑居房の中で喧嘩が起きたのを、黙って見過ごしたことかあった。看守がやってきて、2人とも処遇に呼ばれて懲罰を受けた。2週間ほどで房に戻ってきてから、そのうちの1人がまた別のヤツを相手に喧嘩を売り始めた。喧嘩を売られたのが年配の弱そうな人だったので、菅家さんは思い余って「喧嘩なんかしない方がいいよ。また懲罰になるよ」と言って仲裁に入った。すると、喧嘩を売ったヤツが「何だ、オメー、横からうるせぇな」と言うので、菅家さんは「うるせぇとは何だ」と大声で怒鳴りかえした。ずっとおとなしかった菅家さんが初めて、声を上げたから驚いたのか、相手は何も言い返さずに黙りこんでしまった。

気が強くなったのは、この喧嘩の仲裁がきっかけだったと思う。思ったことは、遠慮せずに言うようになって、急に周りの人とも打ち解けられるようになった。兄貴分の人からも「菅家さん、変わったね。それでいいんだよ」と笑顔。うれしかった。

運動の時間や休日にはよく、工場の仲間と互いの身の上を話すようになった。他の人は故郷や家族のことはもちろん、犯してきた罪も隠さずに話した。でも菅家さんは、第4工場に移ってからも、足利事件には触れないようにしていた。「再審」だと言えば、嫉妬されるかもしれないし、無実だと説明せずに「幼女殺人」だということにはかなりの抵抗を感じたのだ。

ところが、02年12月に弁護団が再審請求すると、新聞にベタ記事が載った。それを工場の仲間たちが目ざとく見つけて「菅家さん、新聞に出てたね」と声を掛けてきて、さらに工場中に言いふらしていた。前の第6工場時代にボコボコにされた経験があったので、嫉妬されていじめられるかもしれないと警戒したのだが、第4工場の人たちはほとんどが、「そうなんだ。頑張れよ」と言って応援してくれて、気兼ねすることもなく、隠す必要がなくなってしまった。これも工場のメンバーの雰囲気が良いからこそできることだ。

支援者の1人である西巻糸子さんが身元引受人として認められるまでに、何故か2年近くかかった。ようやく面会が叶うようになったのは、同年5月以降のことだった。当初は服役囚としての処遇の段階が低く、許された手紙と面会は月に1回だったが、西巻さんはその月に1回も休むことなく、足利市内から千葉刑務所まで足を運んでくれたのだ。誰がどうしているとか、刑務所の中はこんなだとか、たわいのない内容だったと思うが「頑張ってね」のひと言が何よりも励みになった。

面会は工場で作業をしている途中に、急に声を掛けられて呼ばれる。他の服役囚は年に何度かの面会なので、自分が呼ばれるとまわりから「いいなぁ」と言われるが、菅家さんは呼ばれるのが当たり前になってきて、事情を知っている仲間から「おっ、今日もかい?」などと言われた。

西巻さんからは、本や雑誌、それに支援する会の会報もよく差し入れてもらった。自分ばかり本が増えてしまって何も来ない同房の仲間に悪いなぁと思うこともあったが、信用できる人とはこっそり、本や雑誌を一緒に読むこともあった。道路地図や温泉ガイドを入れてもらって、同房の人と一緒に眺めながら自分たちが旅しているのを想像するのが楽しかったのを覚えているという。

第4工場には70人くらいの人がいるが、懲役10年前後の有期刑だったのは10人から20人くらいで、残りの50人以上がみんな無期懲役だった。昔は20年前後で仮釈放の可能性があったのが、最近は風当たりが強くなって30年は出られないと言われていたので、年を取った人の多くは「俺たちは二度とシャバに出られない」と諦めていた。

仮釈放になる人は、同じ工場で年に1人いるか、いないかという程度。ある日、急に工場から消えてしまって、同房の人から「仮釈放になったらしい」と聞くことはあるが、実は亡くなっていたというケースも珍しくはない。

自分と同じくらいの年の人が、工場で口から血を吐いていたことがある。息子を交通事故で失い、奥さんに「殺して」と頼まれて殺害したという、有期刑の服役囚だった。聞けば、房内で何度か血を吐いていて、2年前から「医者に診せて欲しい」と看守に頼み続けたそうだが、「人数が多いから順番だ」と後回しにされ、医者が診ても「ちょっと体調が悪いだけだ」と放っておかれて、ずっと作業を続けていた。そしてある日、急に亡くなった。後になってから同房の人から「ガンで亡くなったよ」と聞いた。

菅家さんはこうも話してくれた。お袋が死んだのは、07年4月のことだった。半年以上も過ぎてから、西巻さんから間接的に聞いた。91歳だったはずだが、何処で、どんなふうに亡くなったかは分からない。両親は確か、天台宗のお経を読んでいたので、刑務所に天台宗のお坊さんが来ると、一緒にお経を読んでもらった。若いころに死んだ姉と逮捕のショックで亡くなった親父と、半年以上も前に死んでいたお袋のために、線香をあげて拝んだ。

急に逮捕されてから、お袋の顔を見ることも言葉を聞くこともできなかった。死に目にも会えないばかりか、長く墓参りも許されません。

菅家さんは刑務所を出てからよく夜空を眺めるようになった。

名まえのない空を見あげて、もしも明日に迷ったときには、綺麗な星を見つけて、お袋、あなたの名を呼びたい。

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梶山天 梶山天

独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。

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