【連載】知られざる地政学(塩原俊彦)

「知られざる地政学」連載(15) 抗肥満薬をめぐる地政学(下)

塩原俊彦

 

 

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糖尿病治療薬から抗肥満薬へ
ただし、その前段階があった。トカゲの唾液に含まれる化学物質、すなわち、GLP-1の変異体が発見され、糖尿病治療薬としての試験が開始される。エキセナチドあるいはバイエッタと呼ばれるこの薬は、2005年に米国で発売される。だが、バイエッタは1日2回の注射が必要であり、使用する意欲をそぐものであった。このため、製薬会社の化学者たちは、GLP-1のさらに長持ちするバージョンを探すようになる。試行錯誤の末、デンマークのノボ・ノルディスク社はリラグルチドというGLP-1製剤を開発した。同社はこれをビクトーザと名づけ、2010年に糖尿病治療薬として承認した。そして、この薬には、わずかな体重減少という予期せぬ副作用があることに気づく。

実は、1990年代初頭、グルカゴンとGLP-1を大量に産生する膵臓細胞の腫瘍を移植したラットを研究していたノボ・ノルディスクの研究者たちは、動物がほとんど食べなくなっていることに気づいていた。2010年にリラグルチドが糖尿病治療薬として承認された後、体重減少を目的とした臨床試験が開始されるようになる。臨床試験の後、FDAは2014年に肥満症治療薬サクセンダとして承認した。投与量は糖尿病の約2倍であった。患者は体重の約5%を減らした。

別の道
ノボ・ノルディスクは糖尿病に焦点を当て続け、患者が毎日注射しなくても済むように、より長持ちするGLP-1を作る方法を見つけようとした。その結果、別のGLP-1薬であるセマグルチドが開発され、患者が週に1回注射するだけで十分な効果が持続するようになる。これは2017年に承認され、現在はオゼンピックとして販売されている。

つぎは、オゼンピックの抗肥満薬への転用が課題となる。オゼンピックの糖尿病に対する承認から1年後の2018年、ノボ・ノルディスクは臨床試験を開始する。2021年、ノボ・ノルディスクはFDAから、同じ薬剤を週1回、最大投与量を増やして注射する肥満症治療薬として販売する承認を得た。この薬はウェゴビーと命名された。なお、同じセマグルチドを含む錠剤のリベルサスもノボ・ノルディスクが製造している。ウェゴビーは肥満症、オゼンピック、リベルサスは本来、糖尿病向けの薬剤だ。

ウェゴビーは米国において2021年から販売されており、2022年12月にはFDAが12歳から18歳にも使用を承認した。こうして、2023年7月に米国の医師がウェゴビーに書いた処方箋は週に約9万4000枚、オゼンピックは約6万2000枚にのぼった。
ほかにも、すでに糖尿病治療薬として承認されている製薬会社イーライ・リリーの「マンジャロ」(チルゼパチド)も肥満治療薬への転用をねらっている。マンジャロやウェゴビーは注射薬だが、ファイザーは経口薬のダヌグリプロンの臨床を進めている。

価格をめぐって
2023年9月に公表された論文「糖尿病と肥満の新しい治療法のコスト見積もり」は、米国において一般に、医薬品の定価が医療保険会社や薬局給付管理者と呼ばれる仲介業者と秘密裏に取引された後に企業が受け取る正味価格とは大きく異なる問題に焦点を当てている。下表に示したように、定価と正味価格(リベートやクーポンを含むすべての価格譲許の後にメーカーが受け取る平均支払額)との差が大きいのだ。

オゼンピックとリベルサスの平均値引き率はほぼ同じで、64〜69%である(これらはいずれもノボ・ノルディスク社製で、糖尿病を適応症としているが、投与経路が異なる)。ウェゴビーの正味価格は定価の約半額、オゼンピックの正味価格は定価の約3分の2、マンジャロの正味価格は定価の約80%ということになる。肥満症を適応症とするウェゴビーの1カ月分の正味価格は701ドルと推定され、患者の支払う1349ドルも高額だ。だが、今後、抗肥満薬の競争激化が予想されることから、定価も正味価格も下がることが確実視されている。なお、最初に紹介したリリー社のゼップバウンドの定価は1カ月分約1060ドルに設定された。

表 GLP-1薬(オゼンピック、リべルサス、ウェゴビー、マンジャロ)の月間価格見積もり
(出所)Benedic N. Ippolito & Joseph F. Levy, Estimating the Cost of New Treatments for Diabetes and Obesity, 2023, p. 3.

問題点
もちろん、抗肥満薬には問題点がある。第一に、副作用問題がある。オゼンピックはひどい吐き気や胃腸合併症を引き起こすこともある(2023年8月31日付「ワシントン・ポスト」を参照)。あるいは、「GLP-1製剤には、吐き気、消化不良、腹部膨満感、逆流などの副作用がある」という情報もある。

しかも、長期的な副作用の評価はより難しい。承認された注射による体重減少のほとんどは脂肪によるものだが、筋肉にも影響があることを忘れてはならない。2023年7月12日付のThe Economistによれば、「注射を受けた人は6.9キロの筋肉減少を経験し、これはプラセボ群のほぼ5倍であった」という。さらに、ある臨床試験では、参加者の平均BMIは16ヵ月間で37.6から31.2に減少したが、治療を中止すると1年以内に減少した体重の大部分が戻ってしまった。血圧の改善も失われた。このような薬を何十年も使用することになれば、「副作用も蓄積しやすくなる」という指摘もある。

他方で、途中で服用を止めてしまうという問題点もある。2009年から2017年の間に英国で処方された「GLP-1受容体作動薬」(GLP-1 RA)を調べた研究がある(2023年7月の情報に基づく)。GLP-1 RAの服用を開始した589人の患者のうち、45%が12カ月以内に、65%が24カ月以内に服用を中止した。同じ科学者グループが、米国で同様の期間にGLP-1 RAを服用した人々についても調査した。この研究では、糖尿病患者数ははるかに多かったが、英国におけるのと同程度の割合で服用を中止していた。12カ月以内に47%の患者がGLP-1 RAの服用を中止し、24ヵ月後には70%であった。この研究では、平均して約13カ月間GLP-1 RAを使用してから服用を中止している。

情報開示と議論の重要性
紹介した肥満症治療薬、オゼンピック、ウェゴビー、マンジャロなどが米国などで、いわば「臨床実験」されていることは、日本人にとって興味津々といったところかもしれない。問題は、その臨床結果をめぐる情報開示と、それらの利用をめぐる議論にある。
私が気になるのは、ここで紹介したような情報を日本人が知らなすぎるという現実だ。マスメディアの不勉強と、政治家や官僚の閉鎖的体質がこうした事態を生み出しているように思える。

この問題は格差の問題にも目を向けさせる。糖尿病薬であり、かつ抗肥満薬でもあるこれらの薬は一般に高額でありながら、巨額の売り上げが予想されている。下図に示したように、投資銀行のジェフリーズは、2031年までにGLP-RAと総称される薬の市場が1500億ドルを超えるとみている。これは、2021年に約1850億ドルに達したがん治療薬全体に匹敵する売上高だ。こうなると、保険適用の問題がクローズアップされることになるはずだ。

図 GLP-1 RAの売上高推移
(出所)https://www.economist.com/briefing/2023/03/02/a-new-class-of-drugs-for-weight-loss-could-end-obesity

同じ投資銀行ジェフリーズの調査によると、年収1万5000ドル以下の米国人がもっとも高い肥満症にかかっている(The Economistの「シュンペーター」を参照)。最初に紹介したWOFは、2035年までにメキシコ人の47%、イラン人と南アフリカ人の46%、マレーシア人の42%が肥満になると予測している。どうやらこの問題は、中小所得国や中小所得層に深くかかわっている問題なのだ。そして、それはウルトラ加工食品(UPF)と呼ばれる「カロリーが高く、栄養が乏しく、食べるのをやめられない」食品を放置してよいのかという問題を惹起する。

他方で、米国では、2023年11月22日、ニューヨーク州において、雇用、住宅、ホテルやレストランなどの公共宿泊施設における体重による差別を禁止する法律が施行された。実は、米国にはすでに外見による差別を禁止している、サンフランシスコやワシントンDCなどの都市がある。マサチューセッツ州、ニューヨーク州、ニュージャージー州、バーモント州など、いくつかの州も同様の法案を検討している(The Economistを参照)。

まさに、「たかが肥満、されど肥満」である。肥満について考えるだけで、実にさまざまな論点が思い浮かぶ。どうか、自らを不勉強と感じる人は、拙著『知られざる地政学』を読んでほしい。これは、不勉強な者への最低限の知識を提供するものであり、真摯に「学ぶ」姿勢をもつ者の出発点としてほしい本だから。

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塩原俊彦 塩原俊彦

1956年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。学術博士。評論家。一連のウクライナ関連書籍によって2024年度「岡倉天心記念賞」を受賞。 著書:(2024年6月に社会評論社から『帝国主義アメリカの野望:リベラルデモクラシーの仮面を剥ぐ』を刊行) 【ウクライナ】 『ウクライナ戦争をどうみるか』(花伝社、2023)、『復讐としてのウクライナ戦争』(社会評論社、2022)『ウクライナ3.0』(同、2022)、『ウクライナ2.0』(同、2015)、『ウクライナ・ゲート』(同、2014) 【ロシア】 『プーチン3.0』(社会評論社、2022)、『プーチン露大統領とその仲間たち』(同、2016)、『プーチン2.0』(東洋書店、2012)、『「軍事大国」ロシアの虚実』(岩波書店、2009)、『ネオ KGB 帝国:ロシアの闇に迫る』(東洋書店、2008)、『ロシア経済の真実』(東洋経済新報社、2005)、『現代ロシアの経済構造』(慶應義塾大学出版会、2004)、『ロシアの軍需産業』(岩波新書、2003)などがある。 【エネルギー】 『核なき世界論』(東洋書店、2010)、『パイプラインの政治経済学』(法政大学出版局、2007)などがある。 【権力】 『なぜ「官僚」は腐敗するのか』(潮出版社、2018)、『官僚の世界史:腐敗の構造』(社会評論社、2016)、『民意と政治の断絶はなぜ起きた:官僚支配の民主主義』(ポプラ社、2016)、Anti-Corruption Policies(Maruzen Planet、2013)などがある。 【サイバー空間】 『サイバー空間における覇権争奪:個人・国家・産業・法規制のゆくえ』(社会評論社、2019)がある。 【地政学】 『知られざる地政学』〈上下巻〉(社会評論社、2023)がある。

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