【連載】百々峰だより(寺島隆吉)

「神に許された国」と「神に許された民」に未来はあるか、その2

寺島隆吉

本記事は、http://tacktaka.blog.fc2.com/blog-entry-637.htmlからの転載になります。

国際教育(2023/11/09)
ITT(International Telephone & Telegraph Corp. 国際電話電信会社)
サルバドール・アジェンデ(Salvador Allende、チリ大統領、医学博士、元外科医)
アウグスト・ピノチェト(Augusto Pinochet 、チリの陸軍軍人、クーデター独裁者
フランク・チャーチ(Frank Church、民主党上院議員、「チャーチ委員会」委員長)
ナオミ・クライン(Naomi Klein、ジャーナリスト、『ショック・ドクトリン』の著者)
ビクトル・ハラ(Víctor Jara、チリの「ヌエバ・カンシオン(新しい歌)」運動の旗手)
スティング(Sting、ロックバンド<ポリス>結成、They Dance Aloneの曲などで有名)
「死のキャラバン」(チリのスタルク将軍が率いる殺毅部隊が展開した恐怖作戦)
「誘拐」「疾走」「連れ去り」(チリのピノチェト独裁政権が全国的に展開した恐怖作戦)

アフガニスタン首都カブールでの私、アフガニスタン訪問 空爆後のカブール

米軍による空爆後


一刻も早く前回の続きを書きたかったのですが次々と雑事が襲って来て、なかなか時間がとれず、ついに今日に至ってしまいました。
とはいえ、「次回が楽しみです」という声も届いているので、非常に申し訳なく思っています。どうかお許しください。

さて、前回は次のように述べてブログを閉じました。
さて、軍事攻撃による「クーデター」という手段は、まさに「ショック療法」そのものですが、それが「チャーチ委員会」によって世に知られるようになってからは、内外の世論の批判が厳しくなり、CIAは次の手段を開発し始めます。
それが「カラー革命」「色の革命、花の革命」という戦術でした。その典型例がジョージア(旧名グルジア)における「バラ革命」2003、ウクライナにおける「オレンジ革命」2004でした。そしてウクライナにおける第2の「カラー革命」が2014年のクーデターでした。
これも大手メディアでは「民衆革命」と褒めそやされていますが、『ウクライナ問題の正体』で詳述したように、実はこれも一種のク―デターでした。しかし、これを説明していると長くなりますので次回に回します。


しかし私は上で、次のように書いたものの、その「ショック療法」が、どの程度「衝撃的」で「ショック」だったのかを何も紹介していないことに気づきました。
<軍事攻撃による「クーデター」という手段はまさに「ショック療法」そのものですが、それが「チャーチ委員会」によって世に知られるようになってからは、内外の世論の批判が厳しくなり、CIAは次の手段を開発し始めます>

そこで今回は、次の二つをまず紹介したいと思います。さもないとCIAがこれまでの戦術を変更せざるを得なかった理由が納得してもらえないのではないかと思うからです。
(1)ピノチェト将軍によるチリのクーデターがどのように「残虐」であったか、
(2)その「ショック療法」なるものが、それをモデルにして次々と南米各地に引きおこされたクーデターに、どのような影響を与えたのか

それはともかく、前回で紹介したナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』は、ピノチェト将軍によるクーデターの残虐ぶりを、次の第3章のすべてを使って詳述しています。
第3章「ショック状態に投げ込まれた国々――流血の反革命」103-136頁)
しかし実を言うと、33頁という大量の頁数を使って詳述しただけでは、その残虐さをまだ伝えきれずに、ナオミ・クラインは章を改めて、第4章~第5章も、その「ショック療法」の「ショックぶり」に筆を費やしているのです。
第4章「徹底的な浄化――効果を上げる国家テロ」(162-137頁)、
第5章「『まったく無関係』――罪を逃れたイデオローグたち」(163-180頁)
しかし、その全てをこのブログで伝えるゆとりはありませんので、ここでは第3章にしぼって(しかもその一部しか)紹介できないのが、残念至極です。読者の皆さんで、心と体にゆとりのあるかたは、ぜひとも原著にあっていただきたいと御願いする次第です。

ヘンリー・キッシンジャーとピノチェト、1976年

 


さて第3章の冒頭は次のように始まっていました。

アウグスト・ピノチェト将軍とその支持者は、一九七三年九月二日の事件を一貫してクーデターではなく、“戦争”と呼んでいる。
サンティアゴ市内はまさに交戦地帯の様相を呈していた。戦車が大通りを走りながら発砲し、戦闘機が政府機関の建物に空爆を加える。だがこの戦争には奇異な点があった。戦う側が一方しかいないのだ。
最初からピノチェトは陸海軍と海兵隊、そして警察軍を完全に掌握していた。一方のサルバドール・アジェンデ大統領は支持者を武装防衛隊へと組織することを拒んだため、彼の側には軍隊はいっさい存在しなかった。
唯一の反対勢力は、大統領政庁「ラ・モネーダ」とその周りの建物の屋上で民主主義の府を守るために勇猛果敢に抵抗した大統領と政権中枢の人々だけだった。フェアとはほど遠い戦いだった。官邸内にはアジェンデの支持者がわずか三六人しかいなかったのにもかかわらず、二四発ものロケット弾が撃ち込まれた。

1970年にチリで誕生した社会主義政権は、ソ連(指導者レーニン)やキューバ(指導者カストロ)と違って腐敗した独裁政権にたいする武装闘争の結果として生まれたものでした。
しかしチリで誕生したアジェンデ政権は、武器ではなく選挙で誕生した世界初の社会主義政府でした。このアジェンデ大統領について、ナオミ・クラインは前掲書で次のように述べています。

アジェンデはラテンアメリカの新しいタイプの革命家の一人だった。チェ・ゲバラと同じく医者だったが、アジェンデはロマンティックなゲリラと言うより、気さくな学者といった雰囲気を漂わせていた。フィデル・カストロに勝るとも劣らない激しい調子で街頭演説を行なったが、チリにおける社会変革は武装闘争ではなく選挙によってもたらされるべきだという信念をもつ、徹底した民主主義者でもあった。(第2章88頁)

私は、アジェンデがカストロとともにキューバ革命を闘ったチェ・ゲバラと同じく医者だったことに尽きぬ興味を覚えます。彼らにとっては「体を治す」「病気を治す」ためには「社会を治す」つまり「貧困をなくさねばならない」と考えたわけです。
ですから、「武器ではなく選挙で革命を」と考えたのでしたが、チリの経済を支配していたアメリカ企業は、これを許そうとしませんでした。そのようすは前掲書では次のように述べられています。

一九六八年の時点で、アメリカの海外投資の二〇%はラテンアメリカに向けられ、米企業がこの地域に持つ子会社は五四三六社を数えた。
こうした投資は膨大な利益をもたらした。アメリカの鉱山会社はそれまでの五〇年間に、チリの銅鉱業(世界一の規模を持つ)に一〇億ドルの投資を行なったが、そこからじつに七二億ドルの収益を得ていたのである。
アジェンデが当選すると、アメリカ実業界は就任式を待たずにアジェンデ政権に宣戦を布告した。その中心となったのはワシントンに本拠を置く「チリ特別委員会」だった。
メンバーはチリに子会社を持つアメリカの大手鉱山会社や、委員会の事実上のリーダーであり、まもなく国有化されるチリの電話会社の株式を七〇%保有していた国際電話電信会社(ITT)などである。
プリナ社、バンク・オブ・アメリカおよびファイザーケミカル社も、さまざまな段階で代表を送っていた。

つまり、アメリカ企業はチリを食いものして莫大な利益を上げている反面、チリの一般庶民は貧困のまま置き去りにされていたのです。
貧困は医者にかかる機会や教育を受ける権利を奪います。この「世直し」「社会を治す」ことを目差したのがアジェンデだったのですが、ITTを初めとするアメリカ企業はこれを許そうとしませんでした。
彼らはワシントンに本拠を置く「チリ特別委員会」をつくり、アメリカ政府(CIA)まで利用してアジェンデ政権を倒そうとしたのです。その先兵として使われたのがチリ軍簿すなわちピノチェト将軍でした。


アフガニスタンに社会主義政権が成立し、今までの王制が民衆を貧困のまま置き去りにしていたのに対して新しいアフガン政権は女性すら無料で大学に行けるような制度に変えました。
以前にも紹介しましたが、その結果、アフガニスタンは大きく前進しました。そのようすをジョン・ピルジャー『世界の新しい支配者たち』(岩波書店2004:196)は次のように描写しています。

一九六〇年代に、アフガニスタンでは解放運動が起こった。その中心になったのはアフガニスタン人民民主党(PDPA)で、ザヒール・シャー国王の独裁支配に反対し、一九七八年、ついに国王の従兄弟、マハメッド・ダウドの政権が打倒された。それは、あらゆる意味で幅広い人民の革命だった。(中略)
新政権は、男女平等、宗教の自由、少数民族への権利、農村における封建制の廃止など、これまでは認められていなかった諸権利の承認を含む新しい改革計画を発表した。一万三千人以上が獄中から釈放され、警察のファイルが公式に焼却された。
部族主義と封建制のもとで、平均寿命は三五歳、幼児の三人に一人は死亡した。識字人口は、人口の九パーセントだった。新政権は貧困地域には無料医療を導入した。強制労働は廃止され、大規模な識字運動が開始された。女性たちとっては、これまでに聞いたことのないような前進だった。一九八○年代後半には、大学生の半数が女性となった。アフガニスタンの医師の四〇パーセント、教員の七〇パーセント、公務員の三○パーセントは女性になった。

このような動きをアメリカは歓迎しませんでした。アフガンの眠れる資源をアメリカ企業が略奪することに障害となるからです。
そこでイスラム原理主義勢力を使って政権転覆させた結果、内戦となり、アフガンの女性は再び教育を受ける権利を奪われ、タリバンが支配する世界へと逆戻りすることになりました。
私はこの内戦が小休止している期間に、幸運にもカブールを訪れ、破壊された学校を再建しているようすを見る機会を得ることができましたが、カブール市内も市外も内戦の傷跡が生々しく残っていて、見るも無惨でした。
それはともかく、このようにアメリカは企業の利益を守るためにCIAを使ってでも転覆しようとするのです。この一端をナオミ・クラインは次のように述べています。(前掲書『ショック・ドクトリン』第2章90頁)

一九七二年三月、レテリェル(チリの駐米大使)とITT(国際電話電信会社)との間で切迫した交渉が行なわれている最中、ジャック・アンダーソンという全米配信の新聞に寄稿するコラムニストが資料に基づく暴露的な連載記事を発表した。

大統領選挙の二年前、ITTとCIAおよび国務省との間で、アジェンデの大統領就任を妨害する秘密計画が企まれたというのだ。
この記事を受け、民主党が多数を占めるアメリカ上院が調査に乗り出した結果、大規模な陰謀の存在が明らかになった。
ITTがアジェンデの反対勢力に一〇〇万ドルに上る賄賂の提供を申し出、「チリ大統領選の結果を操作する秘密計画にCIAを引き込もうとした」というのである。

しかし、何年にもわたるアメリカによる執拗なまでの不正工作にもかかわらず、一九七三年、アジェンデは依然として政権の座にありました。八○○万ドルの秘密資金をもってしても、彼の権力基盤を揺るがすことはできなかったのです。
それどころかこの年行なわれた中間選挙では、アジェンデの党は一九七〇年の大統領就任時よりも得票数を増やしたのでした。資本主義とは異なる経済モデルヘの願望がチリに深く根を下ろし、社会主義に対する支持が増大しているのは明らかでした。

チリ大統領サルバドール・アジェンデ

 

チリの独裁者だったピノチェト将軍

 


そこで最後の手段としてピノチェト将軍を使って軍事クーデターを起こそうとしたのでした。ではアメリカはチリ軍部にどんな教育をしたのでしょうか。その結果、どんな惨状が生まれたのでしょうか。以下は同じくナオミ・クラインからの引用です。

クーデターに至るまで何年もの年月にわたり、アメリカから指導員(CIA要員もかなりいた)が送り込まれた。
彼らは、チリの軍隊に徹底した反共教育を施し、社会主義者とは事実上ソ連のスパイであり、彼らはチリ社会には馴染まない「内なる敵」だという意識を叩き込んだ。
だがチリ社会にとって真の意味で内なる敵となったのは、本来守るべきはずの一般大衆に対して銃を向けることも辞さない軍だった。(前掲書105頁)

このような事実を考えると、日本の自衛隊もアメリカ軍との軍事演習を何十年も重ねてきていますし、アメリカで教育を受けた幹部も少なくないという事実がありますから、日本もどんな事態になっているのか、考えるだけでも恐ろしくなります。
それはともかく、この教育を受けたチリ軍部は、その後どんな行動に出たのでしょうか。ナオミ・クラインの説明は次のように続いています(同書105頁、下線は寺島)。

アジェンデが死亡し、閣僚たちが捕らえられ、表立った大衆の抵抗行動も見られなかったことから、軍事政権の戦闘はその日の午後には終了した。
元駐米大使レテリエルをはじめとする「VIP」(政権幹部)の捕虜は、シベリアの強制収容所のピノチェト版とも言うべき、チリ最南端のマゼラン海峡に浮かぶドーソン島へ送られた。
だがチリの新たな軍事政権にとって、アジェンデ政権中枢部を殺害・拘束しただけでは、まだ十分ではなかった。軍の幹部は自分たちが権力の座にとどまれるかどうかは、チリ国民がインドネシア国民のように真に恐怖の状態にあるかどうかにかかっていることを知っていた。
機密解除されたCIAの報告書によれば、クーデターの直後、およそ一万三五〇〇人の市民が逮捕され、トラックで連行され拘束された。
うち数千人はサンティアゴの二つのサッカースタジアム、チリ・スタジアムと巨大なナショナル・スタジアムに連れて行かれ、ナショナル・スタジアムではサッカーの代わりに見せしめの虐殺が行なわれた。
兵士たちは頭巾をかぶった協力者を伴って観客席を回り、協力者が「破壊分子」だと指差した者をロッカールームやガラス張りの特別観覧席に連行し、拷問した。何百人もが処刑され、やがて多くの遺体が幹線道路脇に放り出され、市内の水路の濁った水に浮かんだ。


上の下線部では「インドネシア国民のように」とありますが、これは当時のスカルノ政権が同じくCIAの指導の下にスハルト将軍によって政権転覆させられたことをさしています。
このクーデターで「数カ月のあいだに70万人もの人びとが虐殺された。そのほとんどが土地なし農民だったわけですが」(チョムスキー『アメリカが本当に望んでいること』現代企画室、86頁)、ピノチェト将軍は、この先例に従おうとしたわけです。

さらに上の引用では、「うち数千人はサンティアゴの二つのサッカースタジアム、チリ・スタジアムと巨大なナショナル・スタジアムに連れて行かれ、ナショナル・スタジアムではサッカーの代わりに見せしめの虐殺が行なわれた」と書かれています。
そして、その残虐ぶりは、「何百人もが処刑され、やがて多くの遺体が幹線道路脇に放り出され、市内の水路の濁った水に浮かんだ」という描写にも表れているのですが、それをもっと具体的に描写したものが次の記述です。

サンティアゴでチリ・スタジアムに連行された人々のなかには、伝説的な左翼フォーク歌手ビクトル・ハラがいた。彼が受けた扱いには、一つの文化を圧殺しようとした猛烈なまでの決意が如実に表れている。
チリの真実和解委員会の報告書によれば、兵士たちはまずハラが二度とギターを弾けないように彼の両手を打ち砕き、それから銃で四四回も撃ったという。死後も彼が人々に影響を与えるのを恐れた軍事政権は、彼の演奏のオリジナル録音をすべて破壊するよう命じた。
フォルクローレ歌手のメルセデス・ソーサは亡命を余儀なくされ、革新的劇作家のアウグスト・ボアールは拷問を受けたあげくにブラジル国外へ追放された。エドゥアルド・ガレアーノもウルグアイから追放され、ウォルシュはブエノスアイレスの路上で殺害された。ひとつの文化が意図的に抹殺されようとしていた。

このように残虐に殺されたひとたちは、単に活動家だけではなく、チリが世界的に誇りにしている歌手・作家・芸術家など多様な文化人にまで及んでいました。その典型例が伝説的なフォーク歌手ビクトル・ハラでした。
ハラは、首都サンチャゴのチリ・スタジアムに連行され、観衆の見ている前で、「二度とギターを弾けないようにと、彼の両手は打ち砕かれ、それから銃で四四回も撃たれる」という、実に残酷な殺し方をされているのです。
銃で「四四回も撃たれて」死亡しているのですから、「二度とギターを弾けないようにと両手を打ち砕く」必要はなかったはずですが、これは「ピノチェト将軍に刃向かうものはこのような運命にあうのだぞ」という国民全体に対する恐怖作戦だったことは間違いありません。
そして、このようなクーデター独裁政権が南米全体に広がっていたことは、アルゼンチンの有名なフォルクローレ歌手のメルセデス・ソーサ、ブラジルの革新的劇作家のアウグスト・ボアール、『火の記憶』で世界的に有名になったウルグアイの作家エドゥアルド・ガレアーノ、アルゼンチンの著名な記者ロドフォ・ウォルシュなどが、次々と暗殺されたり、国外追放されたりしたことによく表れています。

惨殺されたフォーク歌手ビクトル・ハラ

 

『火の記憶』で世界的に有名作家ガレアーノ

 


さて、二つのサッカースタジアムでの例に見るとおり、このように首都サンチャゴでは恐怖作戦が荒れ狂ったわけですが、その作戦を首都の外にも広げるために、ピノチェトは更なる謀攻を展開することになります。
ナオミ・クラインの説明は次のようになっています。(前掲書、上巻105-106頁)

恐怖を首都の外にも波及させるため、ピノチェトは冷酷無比な部下セルヒオ・アレジャノ・スタルク将軍に命じて、「破壊分子」が拘束されているチリ北部の一連の収容所をヘリコプターで次々に巡回させた。
スタルク将軍が率いる殺戮(さつりく)部隊は、拘束者のなかから名の知られた者を、多いときには二六人も選び出しては処刑した。
この流血の四日間はのちに「死のキャラバン」と呼ばれ、ほどなくチリ全土に「抵抗は死を意味する」というメッセージが広まった。
ピノチェトの戦いは一方的であったにもかかわらず、その効果はどんな内戦や対外侵略にも劣らないほどすさまじかった。

この虐殺のニュース「死のキャラバン」は世界中に激しい抗議を呼び起こし、ヨーロッパや北米の活動家は自国政府に対し、チリとの貿易を停止するよう強力なロビー活動を行なうようになりました。
国際ビジネスに門戸を開くことを存在理由とするピノチェト政権にとって、これは明らかに好ましくない結果でした。そこでピノチェトは、恐怖を広めつつも詮索好きな世界のメディアの目に留まらないようにするという新しい戦術に移ることになります。
こうしてチリでは、ピノチェト政権は、人々を「誘拐」し「行方不明」にするという戦術を取り始めました。ナオミ・クラインによれば、それは次のように展開されました。(前掲書、上巻124-125頁)

チリではやがてピノチェトが、人々を「行方不明」にする戦術を取る。
公然と殺害したり逮捕するのではなく、反体制派の人々を拉致して秘密の収容所に連れて行き、拷問を加え、多くの場合殺害するのだが、表向きは何も知らないと言い張るのである。
殺害後、遺体は集団墓地に投棄された。
一九九〇年五月に設置されたチリの真実和解委員会によれば、遺体のなかには「浮き上がらないように腹部をナイフで切り裂き」、それから秘密警察がヘリコプターに乗せて海に投げ捨てたものもあった。
こうした「誘拐」「連れ去り戦術」は目立たないだけでなく、社会に恐怖を行き渡らせるうえでも公然と行なわれる虐殺より効果的だった。
国家機構が人々を跡形もなく消してしまうということほど、国民を不安に陥れるものはなかったのだ。


この「誘拐」→「失踪」という戦術は、徐々に世界に知れわたるようになりました。そして誕生したのが<They Dance Alone~孤独なダンス>という曲でした。
この曲はイギリスのロックバンド<ポリス>のメンバーでもあるミュージシャン、スティングが1987年にリリースしたアルバム<Nothing Like The Sun>の中に入っています。
私がこの曲を初めて聴いたとき、その哀愁のある美しいメロディーが心に染みてきて思わず、若者言葉で言う「鳥肌が立ち」ました。歌詞とメロディーが実にみごとに一致していて、聞く人の胸を掻きむしるような観がありました。
この曲には<Cueca Solo>というスペイン語の副題が付いています。日本語にすると「孤独のクエカ」になります。クエカというのはチリの舞曲で、男女のペアがハンカチを振りながら踊るのだそうです。
しかし、ピノチェト政権は、次々と、夫、息子、父親、恋人を誘拐し連れ去っていきます。だから残された妻や娘、母、恋人は、「クエカCueca」を一人で踊らざるを得ません。愛する人と共に踊るはずの曲を一人ぼっちで踊らなくてはならない女たち…。
それをスティングは<They Dance Alone~孤独なダンス>という秀逸な曲に仕上げたのでした。私がこれを聞いたとき、「どうしても授業で取り上げたい」「そして学生に歌わせたい」と思いました。
歌詞の1題目は次のようになっています。
Why are these women here dancing on their own?:彼女たちはなぜ一人で踊っているのだろう
Why is there this sadness in their eyes?:なぜその目には悲しみが宿っているのか
Why are the soldiers here:ここの兵士達はなぜ
Their faces fixed like stone?:顔は石の様にこわばっているのか
I can’t see what it is that they despise:兵士たちが見下しているのは何なのか
They’re dancing with the missing:行方不明の者と踊っている
They’re dancing with the dead:死んだ者と踊っている
They dance with the invisible ones:見えない相手と踊っている
Their anguish is unsaid:苦悩を声に出すこともなく
They’re dancing with their fathers:見えない父たちと踊っている
They’re dancing with their sons:見えない息子たちと踊っている
They’re dancing with their husbands:見えない夫たちと踊っている
They dance alone:一人きりで踊る
They dance alone: 一人きりで踊る

当時の私は岐阜大学教養部で英語を教えていましたから、どうしてもこの曲を英語教材として取り上げ、「英語を学ぶ」だけでなく「英語で学ぶ」授業をつくりたいと思ったのです。幸いにも人権団体Amnesty Internationalが1988年にWorld Tour Concertを企画し、それをNHKが放映してくれたことも幸いしました。
そのなかにStingの<They Dance Alone>も入っていました。その曲に合わせて流された曲の付属映像も素晴らしい出来栄えで、私の実践意欲をますますかき立てくれました。この約7分の動画URLを下に載せておきましたのでぜひ視聴していただきたいと思います。
(この私の授業は、拙著『国際理解の歩き方』第4章「映像と音楽で学ぶ平和・人権・環境」に、その実践記録を載せてあります)

スティング<They Dance Alone孤独なるダンス>             自主教材『世界人権宣言』  
https://youtu.be/MS_bN5ECJTI (約7分の動画)

 


それはともかく、チリを初めとして南米に荒れ狂った軍事独裁政権は、世界中の心あるひとの怒りをかきたてました。スティングもその一人だったのです。
1944年生まれの私にはその当時、ロック音楽は「不良の音楽」という認識しかなかったのですが、その私の認識を変えてくれたのが、Beatlesの<Yesterday>という曲だったり、このStingの<They Dance Alone>でした。
いずれにしても、アメリカがCIAを使って南米を荒らし回り、その結果、心あるひとたちの強い抗議の声が世界中から湧き上がることになったことは間違いありません。
前回のブログで紹介したアメリカの「チャーチ委員会」の調査だけでなく、このような世界中から届いた声がCIAに戦術転換を迫ることになりました。
その結果、生まれたのが「カラー革命」という新しい戦術でした。今回のブログはそれを書く予定でしたが、その前段で力尽きてしまいました。
しかし、これくらい詳しく説明しないと、アメリカ政府が世界中で展開している外交政策の無慈悲さと、CIAが戦術転換をせざるを得なくなった理由が理解していただけないと思ったのです。
と同時に、いまアメリカがウクライナを道具として使ってロシア政府を転覆または弱体化させようとしている動きも(さらには、それにも行き詰まったので、今度は焦点をイスラエルに向けさせようとしている動きも)、このような歴史的経過をふまえて初めて理解できるのではないかと思います。
ですから、このような廻り道になりましたが、どうかお許しいただきたいと思います。次回こそは「カラー革命」に集中します。いま少しお待ちください。

<追記>
繰り返しになりますが、ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』には、チリだけではなく、CIAが軍事独裁政権を使ってブラジルやアルゼンチンなどで展開した残虐行為についても詳細な記述があるのですが、その全てを紹介するゆとりが私にはありません。ぜひ原著を参照いただければ幸いです。

本記事は、百々峰だより からの転載になります。

寺島隆吉 寺島隆吉

国際教育総合文化研究所所長、元岐阜大学教授

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