【特集】ウクライナ危機の本質と背景

ヴィクトリア・ヌーランドとは何者なのか② ―ネオコン人脈とのつながりと「ロシア解体」路線のルーツ―

成澤宗男

写真説明:ヌーランドはもともとのロシア嫌いの感情に加え、職務からチェイニーらネオコンの潮流に接触することで「ロシア連邦解体」という野望を抱くに至った。

ジョー・バイデンの大統領就任式から約3カ月後の2021年4月15日、 ヴィクトリア・ヌーランドは上院外交委員会で、バイデンが指名した国務次官(政務担当)の承認を得るための演説に立った。

そこでヌーランドは、自身を「国務省に32年以上勤務し、共和党と民主党の両政権から5人の大統領と9人の国務長官に仕えた」としながら、次のように経歴を語っている。

「私の外務キャリアは、冒険と挑戦と歴史的瞬間に満ちていた:
1985年の中国・広州での最初の視察から、米中関係は非常に有望に思えた。
1991年、赤の広場にソ連国旗が降ろされ、ロシア国旗が掲揚されるのを見た。
ルワンダからハイチ、ボスニア、コソボまで、厳しい軍備管理問題や紛争に取り組んだ。
ツインタワーが倒壊した翌日、我々の偉大な同盟が、一国への攻撃をすべてへの加盟国の攻撃と見なす第5条を発動した際、NATOの次席代表として務めた。

そしてもちろん、ブッシュ政権で駐NATO大使を務め、オバマ政権では欧州・ユーラシア担当国務次官補を務めて議員の多くの皆さんと緊密に仕事をする機会があった」(注1)。

演説では奇妙にも、ヌーランドの国務省キャリア官僚としての経歴を語る上で外せない2014年2月のクーデターを始めとするウクライナでの活動は一切触れられていない。それどころか、ウクライナの「ウ」の字も出てこない。そこであまりに「外交官」らしからぬ言動が米国内外でひんしゅくを買ったためだろうが、どう考えても次のような発言は首をかしげざるを得ない。
「プーチンのロシアは、ほとんどすべての大陸に戦闘機と武器を配備し、敵対勢力に対する偽情報、選挙干渉、抑圧的なキャンペーンを加速させている」

ロシア軍の本格的な海外基地は、シリアの地中海を臨むラタキア市南東にあるフメイミム空軍基地と、その南方の港町・タルトゥースの海軍基地の2カ所に限られる。規模的にも米軍のそれと比べるべくもないが、なぜ「ほとんどすべての大陸」などという認識が生まれるのか。

しかも「偽情報、選挙干渉」は、米国のお家芸だ。旧ソビエト連邦崩壊後、無能ゆえにロシア経済を崩壊させて国民に塗炭の苦しみをもたらしたボリス・エリツィンを再選させるため、1996年の大統領選挙に大々的に「干渉」したのが米国であった事実を、国務省職員のヌーランドが知らないはずがない。

前項で触れたヌーランドの虚言癖を実証する一例だが、米国の主流派メディアからは指摘されることもない。その代わり、夫のロバート・ケーガンとの関係について触れた『ニューヨーク・タイムズ』の2014年6月15日の記事は、ヌーランドを「米国で最もタフで、最も経験に富んだ外交官の一人」(注2)と好意的に描写している。
確かに、経歴上は申し分ないのかも知れない。ただ出身校の名門・ブラウン大学での専攻はロシア文学で、多くは国際関係論や政治学を専攻する国務省のキャリア官僚の中では、異色の存在だ。同時に、官僚らしからぬ激しいロシアへの憎悪も、ヌーランドの国務省内での存在を際立たせている。

旧ソ連のトロール漁船での「任務」

元大統領バラク・オバマの2期8年を通じ、国家安全保障担当副補佐官(戦略コミュニケーション・スピーチライティング担当)として仕えたベンジャミン・ローズは、同政権の内情を知る上で貴重な資料価値がある著書『THE WORLD AS IT IS』を残しているが、そこではヌーランドについて「タカ派の国務省職員で反ロシア、ディック・チェイニーの利口な元部下」と表現している。

ブッシュ(子)政権時代の副大統領だったチェイニーについては後述するが、英『フィナンシャル・タイムズ』紙は2014年8月1日付で、ヌーランドを「オバマ政権内で対ロシア強硬路線をとる原動力となった」(注3)とも指摘。さらに「米国とロシアの関係を悪化させるために、誰よりも多くのことをしてきた」(注4)という評価もあるが、必ずしも誇張ではないだろう。少なくとも、「タカ派」で「反ロシア感情(Russophobia)」という面が、ヌーランドの本質な特徴であるのは間違いない。

ロシアの英文国際関係誌『International Trends journal』の編集長であるアンドレイ・バイコフはヌーランドが「1990年代初頭にモスクワの米国大使館に勤務していた」際に、「初めてロシア研究を始め、そこで非常にロシア嫌悪感情の米国流ソビエト学の伝統的な考え方に影響を受けた」(注5)と述べている。

だが、ロシアへの悪感情はより以前から形成されていた可能性も否定できない。ヌーランドは入省間もない1984年、当時のソヴエト連邦のトロール漁船に半年ほど乗船していた経験を有する。「希少魚種の捕獲を防ぐため、すべてのソ連漁船に米国の監視員がいた」時期で、かつ「米国の船員が(本土から)20マイル水域で漁獲し、その海域で漁獲が許されなかったソ連の船員に漁獲物を届ける」ことが認められており、ヌーランドは「獲った魚の配達を確実にするため、ソ連船と米国側との間の無線通信を担当していた」というが、その当時から「ロシアに嫌悪感を抱いていた」(注6)という証言があるからだ。

いずれにせよ、反ロシア感情は職務を継続するなかでさらに拍車がかかっていったようだ。その端緒は、モスクワから国務省に戻り、1994年から1996年の間に当時のクリントン政権の国務副長官だったストロボ・タルボットの首席補佐官を務めたことだった。ロシアの専門家であるタルボットはヌーランドのメンターとなり、2002年に有力シンクタンクのブルッキングス研究所の所長になって以降も支援者としての関係を続けている。ヌーランドの夫のロバート・ケーガンが2010年に同研究所の上級研究員になれたのも、タルボットの引きがあったからと思われる。若い時分にはリベラル派としてならしたタルボットだが、国務副長官に就任するまでには対ロシア強硬派になっていた。

「ヌーランドのキャリアは、ヨーロッパで冷戦の基盤が完全に消滅しないようにすることであった。彼女の本省でのキャリアは、ビル・クリントン大統領の国務副長官で親友のストロボ・タルボットの首席補佐官としてスタートした。ヌーランドがユーゴスラビアを完全に分裂させるのを支援し、米国がロシアの同盟国であるセルビアの利益に反する方向に傾くことを確実にしたのはタルボットの指導下であった」(注7)

だがおそらくヌーランドのさらなる転換は、2003年7月から2005年5月にかけて、ブッシュ(子)政権で「史上最強の副大統領」という異名をとったチェイニーの国家安全保障副大統領補佐官を務めた経験によってもたらされたように思える。言うまでもなく同政権時代はネオコンと呼ばれる右派の政治勢力が全盛を極め、軍事・外交政策に巨大な影響力を及ぼしたが、チェイニーはその頂点にいた。そうした環境が、ヌーランドを単なるキャリア官僚の域を超え、特定の政治勢力の目的、価値観を自己と一体化する方向に導いたのではないかと推測される。

ブッシュ(子)政権で「史上最強の副大統領」と呼ばれたチェイニー(右から2人目)。その権力は、何事にも疎いブッシュを上回っていた。チェイニーの左はラムズフェルド、左側が国務長官のパウェル。手前は、大統領補佐官のコンドリーザ・ライス。

 

「史上最強の副大統領」に仕える

ただこの時期のヌーランドに関しては、誤解が目立つ。典型的なのは「ビクトリア・ヌーランドは、ディック・チェイニーの主要顧問だった時代に、イラク戦争の提唱と実行、そして侵略後のイラクの統治において重要な役割を果たした」(注8)というような類いの記述だ。ヌーランドがチェイニーの補佐官になった2003年7月はすでに4カ月前からイラク戦争が始まっており、例の「フセイン政権の大量破壊兵器保持」といったデマの拡散を含む「イラク戦争の提唱と実行」は時期が過ぎていたからだ。しかもこうした謀略的な「提唱と実行」の多くを担ったのは国防総省の中に密かに設置され、チェイニーも関与していた「特別計画局」であり、そこにヌーランドが配置されていた形跡はない。

ヌーランドが所属していた副大統領室(OVP)は、チェイニーの側近中の側近であった首席国家安全保障担当副大統領補佐官のルイス・リビーがメンバーを人選して管轄し、「前例のない異常な秘密性の高さ」で知られていた。同時に「チェイニーが集めた(ネオコンの)強硬派の信奉者軍団」が「チェイニーの目や耳として機能するのみならず、彼のイニシアチブに抵抗する官僚機構を監視する」(注9)機能も果たしたとされる。そこで、ヌーランドが何を手掛けていたのかを示す資料はごく乏しい。

それでも、『ワシントン・ポスト』(電子版)07年1月19日付には以下のような記述がある。

「ブッシュ政権の一期目に、ワシントンでOVPとして知られる場所は、一種の安全保障問題担当のスタッフとして機能していた。そこではルイス・リビーが強力な首席補佐官であり、有能な外交問題のエキスパートを、チェイニーの国家安全保障副大統領補佐官として採用した。それがエリック・エーデルマンと、ヴィクトリア・ヌーランドの二人だった」(注10)

ヌーランドの前任者のエーデルマンは、同じく国務省のキャリア外交官。冷戦期にはソ連問題局ソ連部長、モスクワの米国大使館対外政治部門責任者、ソ連・東欧担当国務次官補等の要職を経験したが、明らかにネオコンの潮流に属していた人物として知られる。チェイニーにも信頼されていたようで、トルコ大使に任命されてOVPを離れた後、2005年にはイラク戦争前の情報偽造工作で大きな役割を果たした有力なネオコンの一員のダグラス・ファイスの後任として国防次官となり、ブッシュ(子)政権の任期切れまで在職した。
また米国政府のHPによると、ヌーランドは「イラク、アフガニスタン、ウクライナ、レバノン、より拡大した中東における民主主義と安全保障の促進など、あらゆるグローバルな問題に取り組んだ」(注11)とある。

おそらくイラクはおろか中東をそれまで担当した経験がなかったヌーランドが関与した分野は、専門である東欧・ロシア問題も含まれていたとしてもおかしくない。事実、ヌーランドはイラクでの武装勢力との戦いが激化して米兵の死者が増えていた2005年7月に、女性として初のNATO大使(常駐代表)に指名され、チェイニーの前で宣誓式を執り行っている。NATOあるいは欧州は、おそらくOVP時代にすでに担当していた職務、分野だったのではないか。

チェイニーは2001年の「9・11事件」後のアフガニスタンとイラクでの「対テロ戦争」で果たした役割が印象的だが、おそらくよりグローバルな視点から米国の一極支配戦略を構想していたのは間違いない。政権内でチェイニーの最大の盟友だったドナルド・ラムズフェルドが国防長官を辞職し、2006年12月にその後を引き継いだ非ネオコンのロバート・ゲイツは、2015年に発表した回想録『Duty: Memoirs of a Secretary at War Paperback』でチェイニーを「冷静で、穏やかに話す人物」としながら、以下のような無視できない逸話を披露している。

「ソビエト連邦が1991年後半に崩壊した際、ディックはソビエト連邦やロシア帝国のみならず、ロシアそのものも崩壊するのを望んでいた。それによって、世界の他の国々にとってはもうロシアが脅威でなくなるからだ」

ネオコンが引き起こしたに等しいイラク戦争は、当初よりも長引いて米兵の死傷者も増加したため、皮肉にもネオコンの凋落の原因となった。

 

継承された「ロシア連邦解体路線」
ゲイツはブッシュ(父)政権でCIA長官を務めるなど、安全保障国家(security state)の官僚としての面が強く、ネオコンの様々な団体に関与したり、その主張に賛意を示した事例はない。冷戦終結直後、次にロシア連邦を解体するというチェイニーの路線は、ゲイツが気に留めたように必ずしも主流ではなかった事実をこの回想録は示唆していよう。

優れた米国のジャーナリストであるダイアナ・ジョンストンは、ヒラリー・クリントンの批判的な伝記である『QUEEN of CHAOS』において、この「ロシア解体」という「チェイニーの意図こそヌーランドと同一」であり、そのことが「米国の外交政策におけるネオコンの永続的な役割」を示していると見なしているが、妥当な指摘だろう。言い換えれば、ブッシュ(父)政権時代はまだ異端であったネオコンの路線は、現在に至って明確に米国の軍事・外交政策を深部で動かす機構の中で基本となったのであり、それを体現しているのがヌーランドなのだ。

米国の気鋭のジャーナリストであるベン・ノートンも、昨年2月のウクライナ戦争勃発前に、次のように指摘していた。
「現実は、モスクワ政府が資本主義を復活させたにもかかわらず、米帝国はロシアがユーラシア大陸の単独支配に挑戦することを決して許さないということだ。だからこそ、ワシントンがロシアの安全保障上の懸念をまったく無視し、ドイツ統一後もNATOを『一歩も東に拡大しない』という約束を破り、モスクワを不安定化させようと躍起になって軍事化された敵対的な国々に周辺を取り囲ませているのは驚くべきことではない」(注12)

ウクライナ戦争を考察するにあたってはこの視点が不可欠だが、冷戦終結後、この「決して許さない」という意図をいち早く公言したのは、ブッシュ(父)政権時に手掛けられた「1992年国防計画ガイダンス(Defense Planning Guidance of 1992)」に他ならない。主要執筆者の一人は同政権の国防次官で、ネオコンのなかでも最高の理論家とされたポール・ウォルフォイッツだった。ウォルフォイッツはブッシュ(子)政権になって国防副長官として返り咲き、イラク戦争の口実を捏造して開戦に持ち込む上で大きな役割を果たした。
問題のこの「ガイダンス」では、「我々の第一の目的は、旧ソ連の領土であろうと他の地域であろうと、かつてソ連がもたらした脅威と同等の脅威となる新たなライバルの再出現を阻止することである」と宣言されている。ネオコンの戦略においては、ユーラシアにおいて米国に「挑戦」すると見なされる大国としてのロシアの存在は、解体されるべき対象でしかない。

ブッシュ(父)政権時代にチェイニーは国防長官であり、ルビーは国防次官補で、国防次官のウォルフォイッツが加わった布陣があったからこそ、ネオコンの理論の先駆的な集大成とされる「1992年防衛計画ガイダンス」が生み出された。だが当時の政権内で大統領のブッシュや大統領補佐官(国家安全保障問題担当)のブレント・スコウクロフト、統合参謀本部議長のコーリン・パウェルら共和党主流派に受け入れられず、結局お蔵入りとなる。

その後、ブッシュ(子)政権になって同「ガイダンス」は実質的に復活し、そこに盛り込まれた「先制攻撃」や一国主義、軍事的優位性の追求等の内容は「ブッシュドクトリン」と呼ばれる方針のなかに生かされるに至る。「ガイダンス」を作成した面々が、再び新たな政権の中枢を掌握したことを考えれば、自然の成り行きであったかもしれない。

その一方で、さすがにロシア解体路線は公言されなかったが、チェイニーのようにこの考えは副大統領室、あるいはネオコンのなかでは暗黙の路線として定着し、そこで職務を担っていたヌーランドにも共有されたと考えるのが自然だろう。おそらくヌーランドにとっては、かつてタルボットと組んで遂行した旧ユーゴスラビアの解体とバルカン化のイメージを、ロシアに投影したのではないか。

夫のケーガンや2人の子どもを交え、チェイニーにNATO大使就任にあたっての宣誓をするヌーランド。チェイニーの覚えめでたいがゆえの大抜擢だった。

 

パートナーのケーガンの影

だがタルボットやチェイニー以上にヌーランドに大きな影響を与えたのは、何といっても夫のロバート・ケーガンであったろう。この二人は、米国の政治専門インターネットサイトPOLITICOの2014年版「ワシントンで影響力のある50人」の47番目に夫婦として選出されている。その解説には、「ヌーランドとケーガンの独断的な米国についての論議は、世界の遠く離れた場所への軍事介入に慎重のため人気がない。しかし、プーチンやアルカイダのような連中がまだ獲物を追っているので、今年は自国に閉じこもるだけのドクトリンの可否を決める年となった」(注13)などとある。

プーチン大統領と「アルカイダ」を一緒くたにする点はいかにも米国らしい次元の低さだが、POLITICOの評価がどうあれ、この二人を事実上一体と見なして差支えはないだろう。1987年に「民主主義と世界における米国の役割について語りながら恋におちて」結婚したという二人だが、共に東欧のユダヤ系移民の子孫であるというルーツがどこまで両者の感情に影響を与えたのかは不明だ。
また、ヌーランドによれば「彼は彼、自分は自分」だと言う。だがケーガンは、「我々はおよそ30年間、この世界に生きてきた。二人の間に大きな(考え方の)ギャップがあるとは思っていない」(注14)と述べている。いずれにせよヌーランドを考察する上で、今やネオコンの「顔」となったケーガンの軌跡をたどる作業は不可欠だ。

一口にネオコンといってもその理念についてはそこに連なるとされる個々人の間でも温度差が認められるが、大まかに見ると①世界一極支配の優先的追求②「米国例外主義」の強い信奉③一方的武力行使・軍事介入のためらいのなさ④イスラエルへの無条件に等しい支持⑤「民主主義を広める」というイデオロギーへの過度な傾斜⑥ロシアへの激しい敵意⑦執拗な軍事予算拡大の主張⑧国際法や国連を始めとした国際機関の軽視――といった点を特徴とする。

ケーガンの父親のドナルド・ケーガンを始めとするユダヤ系を中心とするネオコンの源流、及びその衰勢についてはここで触れる余裕はないが、今世紀初頭に一世を風靡したネオコンが政治勢力としては退潮しながらも、現在のバイデン政権を典型に上記のような傾向が多かれ少なかれ米国で主流化したように思えるのは、おそらくケーガンの尽力が大きい。

良く知られているようにネオコンが一つの政治勢力として結実したのは、ケーガンが盟友でネオコンの理論的支柱のウィリアム・クリストル(注=ドナルド・ケーガント並ぶネオコンの源流の思想家であったアーヴィング・クリストルの息子)と共同で1997年に、シンクタンク「米国新世紀プロジェクト(Project for the New American Century, PNAC)を創立したことがきっかけとなった。創立されたPNACの「原則」への賛同者名簿にはチェイニーやラムズフェルド、リビー、ウォルフォイッツらブッシュ(子)政権の要職を担った面々が目立った。

だがPNACはアフガニスタン・イラク戦争の戦況停滞と米兵の死傷者増大で国民の厭戦感が高まり、同政権の支持率も凋落し始めた2006年に活動停止に追い込まれる。2007年には、戦争の主要な首謀者と見なされたチェイニーの辞職説すら出た。
ヌーランドも、チェイニーの一派と見なされたためか、NATO大使の地位からブッシュ(子)政権末期の2008年になって、国防総省の国防総合大学(National Defense University)の教員という左遷人事を味わう。

さらに逆風にあえいでいたネオコン勢力にとって、2008年と2012年の大統領選挙で民主党のバラク・オバマに二度も敗北を喫したのは立て続けの打撃となった。しかもケーガンは、大統領選挙で共にオバマに敗れた共和党候補のジョン・マケインとミット・ロムニー両候補者の選挙チームの外交政策顧問であった。いくら夫婦は別といえ、これではヌーランドにとってオバマ政権下の国務省での出世の展望は限られていたはずだ。

だが結果的にヌーランドがオバマ政権になって再び国務省に戻されたばかりか、脚光をあびるポジションに返り咲けたのも、ケーガンの「活躍」と無縁ではなかったろう。ケーガンこそ、ネオコンやPNACの人脈がほぼ壊滅状態になりながらも、ネオコンの継承者として米国の外交政策に対する影響力を失わなかった稀な存在であったからだ。
(この項続く)

(注1)「Statement of Victoria Nuland Nominee for Under Secretary of State for Political Affairs Senate Foreign Relations Committee」
(注2)「Events in Iraq Open Door for Interventionist Revival, Historian Says」
(注3)「US diplomat Victoria Nuland faces questions over strategy」
(注4)July 25, 2023「Uber Russia-hawk Victoria Nuland rises to acting deputy secretary of state」
(注5)March 6, 2015「Are We Paying too much Attention to the Assistant Secretary of State?」
(注6)February 21 ,2018「Victoria Nuland speaks about her experience of living with 80 Russian fishermen on one boat」
(注7)December 12, 2013「Victoria Nuland and Robert Kagan – partners in world destruction」
(注8)「Victoria Nuland’s Destructive Career Unveiled: State Department’s Second-in-Command」リンクはこちら
(注9)April 20, 2006「Cheney, the Neocons and China」リンクはこちら
(注10)「Cheney’s Enigmatic Influence」リンクはこちら
(注11)「U.S. MISSION TO THE NORTH ATLANTIC TREATY ORGANIZATION」リンクはこちら
(注12)February 1, 2022,「Ex VP Dick Cheney confirmed US goal is to break up Russia, not just USSR」リンクはこちら
(注13)「THE POLITICO 50」リンクはこちら
(注14)(注12)と同。

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成澤宗男 成澤宗男

1953年7月生まれ。中央大学大学院法学研究科修士課程修了。政党機紙記者を経て、パリでジャーナリスト活動。帰国後、経済誌の副編集長等を歴任。著書に『統一協会の犯罪』(八月書館)、『ミッテランとロカール』(社会新報ブックレット)、『9・11の謎』(金曜日)、『オバマの危険』(同)など。共著に『見えざる日本の支配者フリーメーソン』(徳間書店)、『終わらない占領』(法律文化社)、『日本会議と神社本庁』(同)など多数。

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