第56回 両親に届かなかった遅すぎる無罪
メディア批評&事件検証検察の突然の刑の執行停止による菅家利和さんの釈放から19日後のことだった。2009年6月23日、東京高等裁判所(矢村宏裁判長)が再審開始を決定した。17年以上かかった再審請求までの流れとは異なり、DNA再鑑定後は事態が速やかに進められた。
宇都宮地裁(佐藤正信裁判長)は同年9月4日、2回目の三者会議で、再審初公判期日を10月21日と決定した。さらに再審公判での証拠調べについて、大阪医科大学の鈴木廣一教授と筑波大学の本田克也教授を証人として採用することも決めた。そのうえで、検察側意見書を書いた福島弘文科学警察研究所長と、事件当時担当検事だった森川大司・元宇都宮地検検事の証人尋問も採用した。
ついに再審初公判のその日が来た。拘置所に収監されていた菅家さんが1992年の年明けから家族に送り続けた14通の手紙全てを弁護人が丁寧に読み上げた。早くに亡くなった父親への思いを綴ったくだりにさしかかると、菅家さんの胸から熱いものが込み上げてきた。母親は白内障を患っており、あまり目が見えなくなっていた。ひたすら息子の無実を信じ、帰ってくる日を待ってくれていた母親も菅家さんが刑務所を出る2年前に帰らぬ人となった。
佐藤裁判長に罪状認否を問われた菅家さんは「私は殺していません。犯人は別にいます」と答え、さらに用意していた文章を読み上げた。「どうか、冤罪に苦しむ人が二度と生まれないように足利事件の真実を明らかにして私の納得のいく無罪判決を下していただきたいと思います」。
冒頭陳述で検察はそれまでとは違い、掌を返したように「一刻も早く刑事手続きから解放することが菅家さんの利益」と主張した。再審は着々と進み、1カ月後の12月24日、第3回公判で福島所長の尋問が行われた。
佐藤博史弁護士:「科警研(科学警察研究所)が鑑定した当時、半袖下着には精子以外に何のDNAが付着していたと考えられますか」。
福島所長からは明確な答えがなされなかった。
佐藤弁護士:「(旧鑑定書には)『以上の精液及び膣液検査の結果から半袖下着の斑痕には少量のヒトの精液のみが付着していることが証明された』とあります。それ以外に考えなければいけないのは、被害者のDNAの存否じゃありませんか、という質問です。違いますか」。
福島所長:「それは可能性としては分かります」。
佐藤弁護士:「科警研は、半袖下着のDNA抽出には二段階抽出を用いていない訳ですね」。
福島所長:「その通りです」。
佐藤弁護士:「そうすると、二段階抽出を採っていないから、被害者のDNAもそのまま残っていることになりますね」。
福島所長:「その通りです」。
佐藤弁護士:「では、科警研が抽出したDNAが男性由来である根拠は何ですか」。
福島所長:「確か、精液の抗体検査をやっています」。
佐藤弁護士:「抽出したDNAについて聞いているんですよ。男性由来かどうかの確認は取れていないわけですね」。
福島所長:「それはそうです。昔は、DNA鑑定はMCT118法しかやっていませんから」。
肌着には、着ていた人の皮膚細胞や体液などが当然付着しているはずである。肌着に犯人と松田真実ちゃんのDNAが混在している可能性を前提にした鑑定やその解釈を行うべきだったがそれを怠っていた。そのうえ、誤りが生じうる方法で電気泳動させ、バンドにぼやけや歪みがあるにもかかわらず赤点を付け、一致しているように見せ、データを書き加えた。科警研が二重の間違いを犯していたことが明らかになった。
弁護側は佐藤弁護士に続き、DNA型鑑定に精通する笹森学弁護士が福島所長に当時の科警研の半袖下着の抽出量について聞いた。
笹森弁護士:「半袖下着の『1-ア部分』から吸光度計による抽出DNAの濃度を計算したものですね」。
福島所長:「その通りです」。
笹森弁護士:「ここには二つの数字が書かれていますが、1μl当たり約15ngくらいとしても、両者を掛け合わせると900ngのDNA収量と見込まれますね」。
福島所長:「その通りです」。
先の控訴審における向山明孝元科警研技官の証言が覆った。DNAの量は30ngだったと言ったが、本当はその30倍はあったことが判明した。笹森弁護士はさらに畳みかけた。
笹森弁護士:「1回のPCRで7・5ngを使ったとしても、今お見せしたものでいけば、PCR120回分に相当します。すると電気泳動はその2倍である240回できますね。
ところが科警研のDNA鑑定では、半袖下着については4回分の電気泳動写真しかありません。そして全量消費したというのですから、残りは試行で使い切ったと考えられますね」。
福島所長:「その通りです」。
旧鑑定書はHLA・DQα法をしなかった理由として「全量消費」を挙げていたが、それも崩れた。検査ができなかったというのも嘘だろう。そもそも、肌着から抽出し直さなくてもDNAの量は十分にあったのだ。
佐藤弁護士が「証人は菅家さんに謝ることができますか」と問うと福島所長は「申し訳ないが、謝ることはできない」と答えた。この言葉は、福島所長の立場を明確にするものだった。警察の捜査だけでなく、裁判においても、その判断を誤らせた元凶は科警研のDNA鑑定だった。この裁判において菅家さんに真っ先に謝罪すべきは科警研ではないだろうか。
2010年1月22日の第5回公判で菅家さんは、森川元検事に直接尋問する機会を与えられた。一審判決で無期懲役が言い渡された1993年7月7日以来の再会で、今度は立場が逆転。冤罪の責任を追及した。そして「自分に無実の罪を着せたことについて、謝ってください」と迫った。再三にわたる謝罪要請にも森川元検事は言い訳をするだけで口を閉じた。
この再審には取り調べをした栃木県警の刑事たちも呼んだが誰一人応じなかった。
判決の日が来た。「親父、お袋……」。50席全てが埋め尽くされた宇都宮地裁の傍聴席にいるはずのない父と母の姿を探した。「生きていてくれたら……」。そう思うと、菅家さんはたまらなかった。塀の外に出てかれこれ10カ月になろうとしていた。
2010年3月26日午前10時過ぎ。全ての審理が終わり、足利事件の犯人という汚名を着せられた菅家さんの再審判決の瞬間が来た。
「主文、被告人は無罪」。静まり返った法廷内に響いた佐藤裁判長の声が「もう我慢しなくていいよ」と菅家さんには聞こえた。ずっと我慢し続けてきたものが頬を伝わった。
「通常ですと、判決宣告後に裁判長は将来について適当な訓戒ができるということになっていますけど、本件については、自戒の意味を込めて菅家さんに謝罪をさせて頂きます」。
公判の最後、佐藤裁判長は優しい口調で語り出した。
「菅家さんの真実の声に十分に耳を傾けられず17年半の長きにわたり、その自由を奪う結果となりましたことを、この事件の公判審理を担当した裁判官として、まことに申し訳なく思います」。壇上の裁判官3人が静かに立ち上がり、菅家さんに向かって頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。このような取り返しのつかない事態を思うにつけ、二度とこのようなことを起こしてはならないという思いを強くしています。菅家さんの今後の人生に幸多き事を心より祈り、この事件に込められた菅家さんの思いを深く胸に刻んでこの再審公判を終わることにします」。
無罪判決に歓声が響く法廷で、菅家さんは天井を仰いだ。そしてつぶやいた。「聞こえるかい、親父、お袋。疑いが晴れたよ。心配かけてごめんなさい」。
<終わり>
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独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。