ヴィクトリア・ヌーランドとは何者なのか④―未だ闇の部分が深いウクライナクーデターでの活動実態―
国際写真説明:ウクライナの2014年のクーデターで大きな役割を果たしたとされるヌーランド。だが実際に現地で何をしたのかについては、未解明の部分が大きい。
国務省のキャリア官僚としてのヴィクトリア・ヌーランドの名を高らしめるきっかけになったのは、2011年5月の同省の広報官就任であったろう。だがそれ以上に大きかったのは、周知のように2013 年に国務次官補となってから翌年2014年にかけての、当時のウクライナ大統領ヴィクトル・ヤヌコヴィッチが暴力で追放されたクーデターに関与した「実績」だ。
これについては、ヌーランドに関する批判的な記事を他者に先駆けて発表していたジャーナリストの故ロバート・パリーの次のような評価が一般的に見受けられる。
「ヌーランド国務次官補(欧州担当)は、2014年2月22日のウクライナにおける『政権交代』の “首謀者 “であり、民主的に選出されたヤヌコヴィッチ大統領の政権転覆を画策する一方で、常に騙されやすい米国の主要メディアには、クーデターは実際にはクーデターではなく、”民主主義 “の勝利だと信じ込ませていた」(注1)
また『ウォール・ストリート・ジャーナル』の記者として長らくワシントンで取材した後、米国の拡張的な対外政策を保守主義の立場から批判している『The American Conservative』誌の編集長も務めたジャーナリストのロバート・メリーも、同じような見解に立っている。
「2014年、ヌーランドは欧州・ユーラシア問題担当国務次官補として、ウクライナのヤヌコヴィッチ大統領を血なまぐさいクーデターで崩壊させる手助けをした。このクーデターは、予想通り米国とロシアの緊張を危険なレベルまで高め、ウクライナ内戦を引き起こし、ウクライナがロシアの影響圏から引き離されてNATOの一員となった場合、ロシアが軍事的対応を取ると脅すように仕向けた」(注2)
ただ、ウクライナクーデターでヌーランドの動きが具体的に明るみになった事例は、それほど多くはない。その一つが2014年2月4日に流出した、駐ウクライナ米国大使(当時)ジェフリー・パイアットとの間の電話内容であった。ロシア諜報機関に盗聴されたと思われるこの会話があったのは1月28日だが、内容は米国のクーデター関与を裏付ける証拠としても知られている。
特に注目されたのは、ヤヌコヴィッチの追放を見越した上での新政権の人事が、すでに話し合われていた点だ。そこで名前が登場するのは、ネオナチの「スヴォボダ」党首のオレフ・チャグニボクと、プロボクサー出身の親欧米派で右派の「ウクライナ民主改革連合」党首のヴィタリー・クリチコ、そして反ロシアの「全ウクライナ連合『祖国』」(後に人民戦線党と改称)を率いていた元ウクライナ国立銀行副総裁で元経済大臣のアルセニー・ヤツェニュクの、主要な野党指導者3人だ。
会話ではヌーランドがパイアットに対し、「ヤッツ(注=ヤツェニュクのこと)は経済の経験や政府の経験もある男だと思う。彼に必要なのは、クリチコとチャグニボクが閣外にいるということだ」と語っている。さすがにネオナチの党首が入閣したのではまずいと判断したのだろうが、実際にヤツェニュクはクーデター後の「新政権」の首相になっている。
もっとも会話内容以上に、最後あたりでヌーランドの口から飛び出した「Fuck the EU!」という言葉が国際的な注目を集めた。これは米国の早急なヤヌコヴィッチ打倒路線に与していなかったEUへの不満が出たと見られ、英BBCによるとEUは「ロシアとの対決を引き起こすのには躊躇しており」、「長期的に関与するのを追求して、時間と共に(ウクライナが)EUに引き付けられるのを当てにしていた」(注3)という。
この「外交官」らしからぬ品位を欠いた発言が、以降に付きまとう「カラー革命のゴッドマザー、血に飢えたサイコパス、政権転覆モンスター」(注4)といった悪評につながったと考えられる。さらにもう一つは2013年12月に「キエフ中心部で親EUのデモ参加者(注=当時のヴィクトル・ヤヌコヴィッチ政権の反対派)にクッキーを配った」(注5)というものだ。
異例の強面で内政干渉
本人は後に「クッキーではなくサンドウィチを持って行った」、「デモ参加者だけではなく、べクルート(注=ウクライナの機動隊)の戦士のためのものでもあった」として、「ロシアメディアに対して誤報を告発した」(注6)という。だが、誰に何を配ったのかが問題なのではない。機動隊員が受け取ったかどうか不明だが、いやしくも一国のキャリア外交官が他国の反政府抗議活動による騒乱現場に赴き、抗議側の人間たちに食べ物を手渡すなどという行為は、おそらく戦後の各国の外交史でも例がないはずだ。
それでも忘れてならないのは、ヌーランドは「国務省職員としての30年に及ぶキャリアにおいて、多くのことを影で実行してきた」という事実だ。ウクライナで「メディアの見出しに躍り出た瞬間が2回」があったが、それは「単なる偶然に過ぎない」(注7)と考えるべきだろう。無論、「2回」とは「Fuck the EU!」の電話暴露と、クッキー配りのことだ。
これ以外にも明らかになっている部分で強調されるべきは、ヌーランドの強面ぶりに他ならない。例えば仏『ル・モンド』紙が2014年2月6日付に掲載した「ロシアは米国をウクライナで『クーデターに賭けている』 と批判(La Russie accuse les Etats-Unis de « miser sur un coup d’Etat » en Ukraine)」という記事では、次のように報じられている。
「米国務次官補のヴィクトリア・ヌーランドが2月、危機にある情勢の解決策を見出そうとキエフを訪れた際、ロシアは米国に対し、ウクライナへの脅しと野党への資金提供を中止するよう促した。
ウラジミール・プーチン大統領の顧問のセルゲイ・グラジエフは、日刊紙『Kommersant Ukraine』のインタビューで、『西側は脅迫と威嚇を中止すべきだ』と述べ、例として昨年12月にヌーランドが権力に近い支配グループ(les Oligarques)との会談の例をあげた。グラジエフは、『我々が知る範囲では、ヌーランドはもしヤヌコヴィッチ大統領が野党に政権を譲らなければ、彼らを米国のブラックリストに載せると脅迫した。これは、国際法とは無縁の行為だ』と述べた」
さらにヌーランドは、「権力に近い支配グループ」のみならず、2013年12月11日にヤヌコヴィッチ本人と会見した際、やはり「脅迫」めいた発言をしている。そこでは、本人によると「ヤヌコヴィッチ大統領と2時間以上過ごした。……厳しい会話だったが、現実的なものだった。私は、昨夜起こったこと、ここで安全保障の面で起こっていることは、欧州の国家、民主主義国家では絶対に許されないことだと、彼にはっきりと伝えた」(注8)という。
この「昨夜起こったこと」とは、正確には同日未明に、機動隊が市内の「マイダン」と呼ばれる独立広場で、バリケードを作り占拠していた反政府勢力を退去させて双方に負傷者が出た衝突を指す。反政府勢力の中心となったのは「スヴォボダ」や、「右派セクター」等のネオナチ、極右であり、その暴力行為は無法を極めた。
そしてヤヌコヴィッチが11月21日に懸案となっていたEU連合協定に関するEU側との審議を延期すると発表(注9)して以降、キエフやネオナチの地盤であるウクライナ西部で抗議行動が激化。翌月になっても、反政府勢力の暴力がさらにエスカレートしていた。
「2013 年 11 月 30 日、デモ参加者はマイダン広場からの退去を命じられた。これに応じて、過激派は警察官やベルクート特殊部隊に向かってガラス、石、パイプ、瓶、燃えている丸太を投げ始めた 。これにより治安部隊はデモ参加者を暴力的に解散させた。……右派セクターは 2013 年 12 月 1 日に急進派が大統領府を警護する警察と戦闘を起こし、注目を集めた。彼らはいくつかの建物を占拠し、キエフ労働組合会館の5階に定住した。……彼らは法執行官を襲撃し、議会や政府の建物を占拠しようとし、警棒で治安部隊を殴り、丸石、発煙弾、火炎瓶を投げつけ、バスやトラックに放火した」(注10)
ここまで暴力が横行しながら、治安当局が放置すれば逆に職務怠慢だ。「欧州の国家、民主主義国家では絶対に許されない」のは、むしろこうした行為ではなかったのか。米国やEUの意を体しているネオナチや極右の暴力を許容しつつ、それを取り締まる政府に「許されない」などと迫るのは内政干渉だろう。
優先的解明過大としてのネオナチとの関係
そもそも、寡聞にして米国の国務次官補クラスの官僚が一国の国家元首に対面するなどという事例を他に知らない。通常であればどう考えても国務副長官以上の出番であろうが、ヌーランドは暴力行為が頻発している当事国の治安対策まで干渉しているのみならず、EU連合協定まで持ちだし、「ウクライナの欧州の未来を救う」ために「欧州や国際通貨基金との対話を再開」するよう要求している。EU加盟国でもない米国がウクライナに対し、ロシアよりもEUの関係を重視するよう迫るのは明らかに筋違いで、どう選択するかはウクライナ政府の専権事項のはずだ。
こうした相手国をあたかも格下の属領扱いするヌーランドの態度は、米国固有の傲慢不遜の現れかもしれないが、外交の常識を明らかに逸脱している。そのような言動が、本人を良くも悪くも目立った存在にしたのは否定できない。ただこれについては、以下のような当時の事情を考慮する必要があるだろう。
「ヌーランドは自分より格上の欧州の上級指導者たちと頻繁に会い、彼らが聞きたくないメッセージを伝えている。……こうしたデリケートな仕事の多くは、伝統的にヌーランドの上司である政務担当国務次官ウェンディ・シャーマンに押し付けられるものだった。しかしシャーマンは、イランとの核交渉で米国の交渉チームを率いるという重大な任務を背負わされており、ヌーランドに国務次官補としては異例の裁量と影響力を与えている」(注11)
そしてこのことが、ヌーランドをしてオバマ政権内の対ロシア強硬派の中心となる結果をもたらしたのは疑いない。ただ、クリントン政権時代のヌーランドの上司で、長年の後援者でもある元国務副長官のストロボ・タルボットの証言によれば、「彼女は強い自信を持っており、どのような政権であっても、自分が仕えている政権のために働くことに絶対的な献身性を有している」(注12)という。ヌーランドがウクライナに関し独断で暴走したというよりも、大きな米国の戦略的枠組みの中でそれを前提としつつ、外交官としては型破りな印象を受けるまでに精力的に政権のため動いたと見なす方が事実に近いだろう。
一方で、ヌーランドのクーデターの関りについては知られていることより、知られていないことの方が多い。ヌーランドは少なくとも2013年から14年にかけてのウクライナの政治危機で3回出入りしていることが判明しているが、そもそもこの種のクーデターの例に漏れず、米国の工作の実態については闇が深く、後年の情報公開を待たねばならない部分が大きい。
特に解明されるべき課題は、ヌーランドとネオナチとの不透明な関係だ。前出の「スヴォボダ」については、欧州議会が2012年12月13日、「ウクライナ情勢に関する決議」を採択したが、そこで同年のウクライナ議会選挙で「スヴォボダ」が450議席中38議席を獲得したことに関して「スヴォボダ党への支持で表明されている、ウクライナ国内での民族主義的感情の高まりを懸念している。人種差別主義、反ユダヤ主義、外国人排斥的な見解はEUの基本的価値観と原則に反するものであるため、最高議会の民主派政党に対し、この党との提携、支持、連立を組まないように訴えていることを想起する」(注13)として、抗議を表明していた。
だが、EUが歓迎した2014年のウクライナクーデターを前後して「スヴォボダ」へのこうした批判は公式の場から沈静化する。「スヴォボダ」は戦前のナチスドイツ協力者で、ウクライナ西部でユダヤ人やポーランド人の大量虐殺に手を染めたステファン・バンデラの流れをくむ。本来であれば、国務次官補クラスの高官がその党首と面会しただけで問題にされてしかるべきケースであり、欧米のご都合主義が露呈した形だ。
「オレンジ革命」から始まった政権転覆工作
しかもユダヤ系とされるヌーランドは、「ウクライナを支配するモスクワ・ユダヤ・マフィア」だの「ロシア人、ドイツ人、ユダヤ人、その他のクズ」(注14)だのといった「人種差別主義、反ユダヤ主義」をむき出しにした言動を繰り返しているチャグニボクに、忌避感を抱いた形跡はない。満面の笑みを浮かべてクリチコとヤツェニュクを交え、チャグニボクと写真に納まっている写真がインターネット上に出回っているが、チャグニボクとは個別に会談した事実が伝わっている。無論、暴力によるクーデターに決定的な役割を果たしたネオナチの党首と何を話し合ったのか不明だ。
また、同じく街頭での暴力行為の先頭に立った「右派セクター」とヌーランドの関係も不明だが、これについてはロシア外相のセルゲイ・ラブロフが2014年5月14日、ブルームバーグの動画でのインタビューで以下のように触れている。
「ワシントンから返答を得たかったもう一つのことは、右派セクターの調整官(アンドレイ)アルチョメンコがヴィクトリア・ヌーランドとの会談のため、極秘にワシントンを訪問したという報道だった。そして、大西洋を越えた欧州での出来事を操作することは深刻すぎるため、私たちはこれらの質問への答えを求めている。……それは我々にとって非常に深刻だ」(注14)
この「極秘」の「訪問」はクーデター後と見られるが、その時期に新たにヌーランドが「右派センター」との関係を構築したとは考えにくい。推測の域を出ないが、クーデターという決定的な時期にヌーランドが水面下で「右派セクター」と何らかの意思疎通があったからこそ、公にはできない何かの「極秘」の問題でわざわざワシントンで両者が接触するような関係性ができていたのではないか。
前出の『Le Monde』紙の記事は、『Kommersant Ukraine』のセルゲイ・グラジエフが「『野党と反乱勢力を武装させることも含む、彼らへ供与する毎週2000万ドル』が支出されていると断言し、『ウクライナでの米国のクーデターの企て』を告発。ウクライナ政府は『混乱』を避けるため、力で闘わなければならないとも述べた」と報じている。当然、「反乱勢力」とは「スヴォボダ」や「右派センター」も含まれていると考えられるが、現地で米国のどの機関と接触していたのか、そこにはヌーランドも含まれているのかという点については、ウクライナクーデターへの米国の関与にかかわる最も重要な部分に他ならない。今後の解明が待たれよう。
同時にヌーランドの動きを知るための前提として、まず米国のウクライナに対する意図が何であったのかが理解されねばならない。米国の冷戦終結後のウクライナに対する政治工作としては、2004年の「オレンジ革命」が最も良く知られている。同年11月の大統領選挙開票の結果、ヤヌコヴィッチが親EU・親米の右派ヴィクトル・ユシチェンコに勝利するが、これを「不正選挙」だとして抗議行動を起こし、翌年1月の再選挙で前回の投票結果を逆転させた運動を称して「オレンジ革命」というが、実態は「CIAの公然部隊」とされる「全米民主主義基金」(NED)を主体とした米国の選挙介入でしかなかった。
「2004年、NEDは国務省や米国国際開発庁(USAID)、フリーダムハウス、ジョージ・ソロスのオープン・ソサエティ財団、英国のウェストミンスター研究所、政治コンサルタントのディック・モリス、CIAを含む他の政府グループと手を組み、同年の選挙後にヴィクトル・ヤヌコヴィッチが大統領に就任するのを阻止した。国務省によれば、その年だけで米国はウクライナの政権交代構想に約3400万ドルを費やし、ソロスは地元の『選択の自由』や『新しい選択2004』といったNGOを支援するため、約160万ドルを提供した」
「NEDの活動家とソロスのオープン・ソサエティ財団は、若者の抗議運動を支援するために幅広い広報戦略を採用し、有給の抗議者をキエフにバスで送り込み、オンラインのテレビ抗議放送局を作り、扇動用具を作成した」(注15)
暴露された米国主導のクーデターの内幕
だが当選したユシチェンコは腐敗にまみれ、自派の内紛もあって2010年1月の大統領選挙に敗北。ヤヌコヴィッチの勝利を許す。「オレンジ革命」は結果的に失敗となったが、米国はその後もヤヌコヴィッチの打倒を断念した形跡はまったくない。前出のパリーは2014年初めの段階で、「NEDの報告書によると、ウクライナでは65のプロジェクトが進行中で、活動家の訓練、ジャーナリストの支援、企業グループの組織化など、基本的には、国を不安定化させるために実行に移される可能性のある影の政治構造のようなものを作り上げている」(注16 )と指摘している。
例のヌーランドの暴露された電話の会話相手であったパイアットは、米国のウクライナ大使としてキエフに赴任したばかりの2013年8月に、同年11月に放送開始となるデジタルテレビ局である Hromadskeの立ち上げに補助金を支出している。このテレビ局は反政府気運を激化させる上で極めて大きな影響力を発揮したとされ、すでにパイアットがヤヌコヴィッチ政権の揺さぶり、あるいは打倒に向けた任務を当初から負っていた事実を示唆している。
遅れてウクライナに到着したヌーランドの動きも、そうした大きな計画の中の一環であったはずだ。本人がNEDの現地の活動に関与していたかどうかは定かではないが、2014年のクーデターは、明らかに「オレンジ革命2」という性格があったろう。それは最初の失敗にめげず、米国がロシアと長い国境線を接する隣国のウクライナを何としても影響下に置いて反ロシアに転換させ、ロシアへの出撃拠点に変えるという飽くことのない狙いに基づいていたと考えられる。
それを裏付ける有力な材料が、ウクライナの元外交官で、ワシントンのウクライナ大使館での勤務経験もあるアンドリー・テリジェンコの証言だ。
テリジェンコは前大統領ドナルド・トランプの個人弁護士で、元ニューヨーク市長のルディ・ジュリアーニの依頼により、現大統領ジョー・バイデンと息子ハンター・バイデンらファミリーのウクライナを舞台にした不正疑惑の解明に協力したとされる。また、ウクライナ第一副首相の上級政策顧問、ウクライナ検事総長の顧問の経験もあり、ウクライナ政府の内情を知り得る立場にあった。テリジェンコは米国の気鋭のジャーナリストであるアーロン・マテのインタビューを受けた際、「2014年のクーデターに米国は積極的に関与していたのか」という質問に対し、以下のように回答している。
「米国人たちは、資金面でも運営面でも全面的に(クーデターに)関与している。 反対派が座っていたマイダン本部に米国大使員がやってくると決定を下し、基本的に公式には命令を下さないが、何かを推奨する。 しかし、彼が何かを推奨すれば、こうしなければならないということは誰もが知っていた」
「 ヌーランドがウクライナ政府(ヤヌコヴィチ政権)に働きかけたときの調整作業で、私はヌーランドがキエフに来たときに会話していた現場目撃した。 私は『流血が起きないように、ウクライナの大統領に電話してください』と言った。 ヌーランドとパイアットに会った午前中の会議で、彼女は『私はヤヌコヴィッチに電話して止めるよう命じたが、彼は3時間も電話に出なかった。 しかし、彼が電話に出たとき、私は彼に、このプロセスを止めなければ、政治的にあなたを破滅させると言った』と述べた。つまり、彼らはそこにいて、密室でこのプロセスをコントロールしていたのだ」「そう、すべてはウクライナ人の手によって行われた。しかし、それはすべて米国大使館、米国政府、ウクライナの現地にいる米国の政治アドバイザーたちによって準備されたもので、彼らは何年も、20年も前からウクライナで働き、(親ロシア派政府を打倒する)プロセス全体を準備し、ソロスの率いるグループとともに、宣伝に影響を与える方法を教わり、このプロセスを大衆に好意的にする方法を教わった」(注17 )
すべては「ロシアを破壊する」という戦略から
いわゆる「親露派」でもないテリジェンコのこの証言が現実と乖離しているとは考えにくいが、ヤヌコヴィッチの打倒、及びその後のポロシェンコ以降の政権に対して米国が及ぼし得た影響力は、一般に考えられている以上に絶大であったのは確かなようだ。クーデター後の政権がロシアに対し異様に敵対的な姿勢になるのも米国にとっては願ったりで、「ロシアを破壊するために、傀儡となる国が必要だった」(注18)というテリジェンコの指摘は、まさに2014年のクーデターと米国の「代理戦争」としての現在のウクライナ戦争の本質を言い当てている。そうした策動において、ヌーランドは、「絶対的な献身性」を発揮したのだ。
ただ当時の大統領のオバマが、どこまで意識的にこの戦略を追求したのかについては不透明な部分が残る。前々回に紹介したオバマ政権時代の国家安全保障担当副補佐官(戦略コミュニケーション・スピーチライティング担当)で、オバマに最も近いポジションにいたベンジャミン・ローズの同政権の回想録『THE WORLD AS IT IS』では、2014年2月にキエフでの暴動が激化した時期に関する以下のような描写がある。
「オバマは(キエフの治安悪化に)警戒していた。オバマは反政府運動参加者が、ウクライナの変革にとっての機会をもたらすとは考えていなかった。なぜなら、そうした変革自身が起きること自体に懐疑的であったからだ」
そしてクーデター後、米国にとっては好ましくないクリミアのロシア併合への動きが始まるが、その際にオバマがプーチンと電話で会談した際の様子が以下のように記されている。
「オバマはプーチンと長時間の会話をし、米ロシア両国が共に前向きに進める共通の利害を探そうとした。これらの電話会談は1時間以上に及び、プーチンはいつも会話を自身が情勢悪化の根源と見なすものに話題を切り替えようとした。すなわち、プーチンの見方によればヤヌコヴィッチを倒した勢力は米国によって手ほどきされたのであり、そうした勢力のリーダーたちの何人かは、米国の民主化促進プログラムからの資金を受け取っているではないか、と述べた」
「オバマは時間をかけて反論し、米国はウクライナを支配しても何の利益にもならないし、ウクライナとロシアの歴史的つながりを尊重していると強調した。そして『我々の一貫した利害とは、主権国家が内外の政策を自ら決定できるという基本的な国際的原則を擁護することにある』と述べた」
このオバマの発言を、米国特有の二枚舌と見なすのか、それとも本音と受け止めるのか、解釈は分かれるかもしれない。「尊重」や「国際的原則」のくだりは、明らかにヌーランドやNEDの行動から見て真に受けるのは困難のはずだ。その目的は、どう考えても「ウクライナを支配」するためであったのは疑いない。
ただオバマは政権二期目に入った2013年以降、ロシアとの対決姿勢を強めるが、米国の対ロシア戦略は、最長でも8年の任期しかない大統領個人の方針や判断を超えた軍産複合体の深部で形成され、長期にわたって継承されていると考えていい。オバマの本音がどうであれ、米国が実際に実行したことはオバマが大統領になる以前から確立されていた「ロシアを破壊するため」にウクライナを「傀儡」化して利用する、という戦略から導かれている。そこで動いたヌーランドは、「ロシアに関する党派を超えた米国支配層のコンセンサスを体現している」(注19)のだ。
ブッシュ(子)政権時代の2004年の「オレンジ革命」も、その延長としての10年後の2014年のクーデターも、米国の対ロシア戦略の一環であったのは間違いない。そしてさらに10年後となる2024年はウクライナ戦争の最終局面が避け難く訪れるのを予測させるが、それはウクライナの敗色が濃い現在の戦況から、ヌーランドのみならず、ヌーランドが「絶対的な献身性」を捧げた相手にとっても、巨大な地政学的破綻となる可能性が強まっているように思われる。
(注1)February 26, 2022「The Mess That Nuland Made」
(注2)February 26, 2021「Keeping the hegemon-addicted in their proper place」
(注3)「Ukraine crisis: Transcript of leaked Nuland-Pyatt call」
(注4)「Victoria Nuland」
(注5) December 11, 2013「US official gives cookies to pro-EU protesters」
(注6)December 18,2014「Victoria Nuland: I did not bring cookies to Kiev, but sandwiches」
(注7)March 14, 2022 「Try This Game to Evaluate Levels of Disinformation in Times of War」
(注8)December 11, 2013「’World Is Watching,’ U.S. Diplomat Tells Ukraine」
(注9)当時、EUへの統合の前提となるEU連合協定の署名にあたってはIMFの融資に伴う大幅な緊縮財政が避けられず、ヤヌコヴィッチにとっては懸念材料だった。反面、ロシア側から提示された150億ドルのウクライナ国債買取やウクライナ向けガス価格の値引き等の経済支援は客観的にウクライナに有利であったのは間違いない。また世論的にもEU連合協定については評価が分かれており、大多数が賛成していたとは到底言い難かった。
(注10)「Maidan coup」
(注11)May 16,2015 「The Undiplomatic Diplomat」
(注12)May 16, 2011「Victoria Nuland to be State Department spokesman」
(注13)「European Parliament resolution of 13 December 2012 on the situation in Ukraine」
(注14)「Интервью С.Лаврова телеканалу «Bloomberg»」
(注15)August 10, 2020「Biden’s Ukrainegate Problem」
(注16)March 4, 2014「DID THE U.S. CARRY OUT A UKRAINIAN COUP?」
(注17)July 13,2023「Biden’s corruption led to Ukraine’s destruction: fmr. Kiev diplomat」
(注18)(注17)と同。
(注19)June 19,2020「Nuland’s biscuits again」
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1953年7月生まれ。中央大学大学院法学研究科修士課程修了。政党機紙記者を経て、パリでジャーナリスト活動。帰国後、経済誌の副編集長等を歴任。著書に『統一協会の犯罪』(八月書館)、『ミッテランとロカール』(社会新報ブックレット)、『9・11の謎』(金曜日)、『オバマの危険』(同)など。共著に『見えざる日本の支配者フリーメーソン』(徳間書店)、『終わらない占領』(法律文化社)、『日本会議と神社本庁』(同)など多数。