第15回 DNA型鑑定独占は、こうして始まった
メディア批評&事件検証DNA型鑑定の独占は、いつから始まったのだろうか。足利事件の再審で菅家利和さんの雪冤が叶ってから7カ月後の 2010年10月中旬のことだった。筑波大(茨城県つくば市)の本田克也元教授が足利事件の冤罪を暴いたことに対する嫌がらせともとれるような、出来事が起きた。一抹の不安を抱くことになるのだが、的中し、それから警察庁による大学への介入が加速した。
本田元教授が司法解剖、DNA型鑑定の依頼を一手に受けていた茨城県警本部の当時の鑑識課長らが警察庁幹部の犯罪鑑識官に「至急本庁に来るように」と呼び出された。めったにないことだ。鑑識課長は、部下を連れて急いで警察庁に行った。要件をうかがうと、筑波大学法医学に委託している司法解剖の話だった。「解剖の検査項目は、検査を実施する前に県警が項目について筑波大から説明を受けて協議し、了解したものだけやるように」などと犯罪鑑識官は意味深長な話をしたという。検査項目の中で特に問題視したのは、DNA型鑑定だった。
「筑波大学では司法解剖の全例にDNA検査をしているようであるが、これは禁じなければならない。そもそも司法解剖は犯罪性の有無を検査すればいいだけのことで、解剖死体のDNA検査が含まれていることがすでにおかしい。これまで指摘されなかったのはどういうことか。本来DNA検査は、科捜研(都道府県警察)や科警研(警察庁)がやっているので大学はやる必要はないし、一本化したほうがいい。このことは今後、各大学や法医学会にも広げていく。しかし、手始めに茨城県警と筑波大学は余りにも悪質なので、10月26日以降DNA検査の予算は執行停止にする。県警が大学に行ってよく説明するように」。
数日後に鑑識課長から説明を受けた本田元教授は、警察庁の幹部が「解剖死体のDNA検査が含まれていることがすでにおかしい」と言っていたことから、今後はDNA鑑定を捜査機関が独占することを遠回しに言っていると受け止め驚いた。恐ろしいことだ。「このことは今後、各大学や法医学会にも拡げていく」とも言っていたのでこう返答した。「契約更新時期と異なる期にDNA検査の予算執行停止など、契約にも反します。そもそも執行停止の理由が明らかにされていません。
このような重大な決定を、指導や注意という段階を踏まず、いきなりのペナルティーです。責任の所在と理由について県警からの口頭での説明では納得し難いので客観的な通達文書を頂いたうえで、大学としてはできる限り勧告に従うべく検討したい」。しかし、茨城県警を通した警察庁の回答は「文書など提示するつもりはない。県警の責任であるから県警で交渉しろ」と、とにかく強引で文書の提示はなかった。
本田元教授は悩んだ。警察庁の指示に従うのは容易だが、筑波大学だけがこのような前例を作ってよいのかどうか。日本法医学会の努力で築いた検査費用の交付について、その一角を崩される状況になってきている。個人では到底、対応できない内容だった。鑑識課長によると、警察庁幹部が「他の大学にも拡げる」とも言っているからだ。すぐに同法医学会理事会の人たちに連絡して、理事会としての意見を仰いだ。
しかし、当時の中園一郎理事長は「警察庁の死因究明に関する研究会では、新たな制度について議論されている最中ですので、今回のご提案頂いた論点は、今後の議論の中でいかしていくことも可能と思いまます。いずれにせよ、しばらくお時間をいただければ幸いです」と棚上げされてしまったのだ。同法医学会にも見殺しにされたのか。寂しい思いが本田元教授を貫いた。さらに中園理事長からは当時の法医学会庶務委員長の「岩瀬博太郎教授(千葉大学)に相談するように」と言われ、再度相談したが、返事は同じだった。「筑波大学が悪いからこういうことになるので、うちの大学には関係ない。筑波大学で対応してもらうしかない」と過信しているようだ、と思った。しかし、事態はそんな悠長なことではなく、大変な事態になりかねないというのに‥。
この理事会の対応が全国の大学の司法解剖におけるDNA型鑑定に警察庁が大きく介入する契機になるとは思ってもなかったに違いない。千葉大学法医学教室のホームページなどその後の同法医学会の猛反発の状況を見たらよく理解できる。いわば本田元教授が同法医学会理事会に文書まで書いて相談していたのに終始、「対岸の火事」のような対応だった。
12年7月末、当時の茨城県警鑑識課長が会計担当の係長を連れて、本田元教授の研究室を訪れた。「筑波大学の解剖は、検査が多すぎる。無駄な検査はやらないように」と警察庁の指示を伝えるためだった。具体的には、薬毒物は、尿の簡易検査だけで十分だから陽性反応が出れば、それ以上、精密な検査はやる必要はない。腐敗した死体の組織学的検査は、組織が出ないから検査は必要ないなどだ。
本田元教授は長い間、非常勤で東京都監察医務院に勤務している。そこでは腐敗死体からの病理組織検査が可能だった。警察庁の意見は的外れだ。専門家でない者が勝手な意見を言っていると、はなはだ不愉快に感じた。
「どうして警察が解剖の内容にここまで立ち入るのですか」。たまりかねて本田元教授が聞いた。
「経費削減のためだと思います。警察庁は日本の変死体の解剖率を上げようとしているようですが、本末転倒ではないですか。経費を削減するなら解剖そのものを減らせばいい。解剖の質を落として量を増やせば、警察庁のメンツは保たれますが、検査項目を削ってもし見落としがあった場合その責任は鑑定医にかかってきます。必ずしも必要がない、自殺や事故であることが明らかな解剖をたくさんさせておきながら、一方で必要な検査を削れというのは矛盾しています。茨城県では、年間250体の解剖を私1人にやらせていながら、どれも細心の注意で解剖しています。検査を削るというのは本末転倒です。それでは責任が取れません」。
「……私どもは、警察庁に言われたことをお伝えしているだけですから」といい淀んだ後、課長は思いついたように言った。「例えば前回の解剖のように、刃物で刺されたような場合には、死因は明らかなのですから、疾患を調べるための組織学検査を行うのは意味がないのではないでしょうか?」
本田元教授は思わず声を荒らげた。「解剖を知らない人に何がわかるのですか。死因が刃物によるものか、それとも病気が絡んでいるか、裁判で争われたらだれが責任をとるのです。解剖を知らない人と、これ以上議論は無意味ですので、もう帰ってください。こちらはあくまで依頼されてやっている仕事ですから言われた通りにやります。やればいいのでしょう」。
「怒られたら困ります。こちらは、お願いに来ているのですから」と鑑識課長は慌てたが、本田元教授の怒りは収まらなかった。
「怒られたら困ります。大変なことになります」。課長の声は柔らかいが、脅しをかけているように感じた。こうした説明をした当時の鑑識課長は、後に茨城県警トップの刑事部長に昇進したのである。
独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。