「アジアでは日本に従え」──対米従属という国体護持のために(後)
安保・基地問題3.「対米従属」なのか
先日、テレビのある討論番組に出演する機会があった。事前に局から討論テーマとして挙げられていた「〝日米安保〟と〝主体的安全保障〟について」との表現が目に留まった。「主体的安全保障」って何だろう。ネット検索でも何も引っかからず、局の担当者に問い合わせメールを送った。
返信は、要旨、次のようなものだった。
「日本が米国の意向に沿う姿勢を『対米従属』と呼ぶ論者がいるが、それに対し、近年の敵基地攻撃論や防衛費増額などに表れる日本の姿勢を『主体的安全保障』とする論者がいる」。
……敵基地攻撃能力の保有や防衛費増額は日本の「主体的」判断なのだろうか。そもそもその前提にある対米「従属」とは何だろう。
米国の歴史家ジョン・ダワーは日本政府のこの「従属」を「わずかな例外はあるものの、ワシントンの基本的な戦略及び外交政策」に反対しないことと指摘した。
近著『対米従属の構造』(みすず書房)を発表した古関彰一は、同書において、「米国政府の安全保障上の対日政策は、基本的には、米軍基地の確保、米軍による自衛隊の指揮権、核の傘、アジア太平洋域のヘゲモニーという性格のもの」と表している。とすると、日本の「対米従属」とは、「米軍基地の確保、米軍による自衛隊の指揮権、核の傘、アジア太平洋域のヘゲモニーに日本がわずかな例外を除いて反対しないこと」であるといえるのではないか。
しかし、本稿で縷々記載した通り、特に近年、日本は米国の方針に強く反対する姿勢も見せてきた。たとえそれが安全保障に関係することであっても、強く米国に抗う場面が現実に存在する。極端にわかりやすい例でいえば、米軍基地の確保や米国による核の傘などを日本について否定する発言をしたトランプ氏が「アメリカの顔」となった時、日本社会の大半、特に指導者層はその方針に絶対的な拒否感を示している。
政治学者の白井聡は、対米従属を戦前の「国体」に並行して捉え、戦後の「国体」は「米国が日本の上に君臨する構造」であるという大胆な指摘をした(『国体論 菊と星条旗』(集英社新書)白井聡)。日本の米国信仰が「国体」の域に達しているという評価は言い得て妙であり、画期的な指摘である。
もっとも、ここで一点確認しておきたいのは、「現在においては、その『国体』として君臨する『アメリカ』が『現実に存在するアメリカ』であるとは言い切れないのではないか」との点である。
すなわち、日本が敬仰するのは、核大国であり軍事大国として圧倒的な力を持ち、この地域に君臨する覇権国の姿であり、対立構造をステータス・クオ(現状)のまま維持してくれる「アメリカ」なのである。核への依存を減らし、軍事演習を中止するようなアメリカは「アメリカ」ではない。日本の期待を裏切るような「アメリカ」が垣間見えれば、日本は「あらまほしきアメリカ」に戻るよう懸命に働きかけを行うのである。
戦前の「国体」、すなわち「天皇制」についても、どのような人物がその地位にあろうと、その「天皇」は「国体」であった。それと同様に、現代の「国体」は、「日本があらまほしいと思うアメリカ」なのであって、「実際のアメリカ」ではないのではないか。そして、その「あらまほしきアメリカ」の「国体護持」のためにどの国よりも懸命になっているのが現在の日本なのではないだろうか。
今後、米国がさらに力を落とすことになったり、例えば2024年の米大統領選でトランプ氏が再選されたりする場合には、日本の「国体」は「実際に存在するアメリカ」ではないことが加速度的に露呈していくことになるだろう。
もう一歩進め、その「あらまほしきアメリカ」がどんなものか考えてみると、結局、現在の日本の「国体」は、紆余曲折を経た上で、単なる極端な「軍事力信仰」に落ち着いた、ということになるのかもしれない。となれば、憲法9条を掲げる平和主義国家のなれの果ての姿であるが、そこまで薄っぺらい結論に落ち着くのがいいのかどうかは、今後の議論や研究に待ちたい。
先に上げたテレビ局からの返信メールを読んだとき、「私が問題視してきたこの事態(敵基地攻撃能力の保有など)を〝主体的〟として評価する流れがあるのか」と愕然とした。
しかし、冷静になってみれば、本稿で取り上げた通り、日本は、米国に命じられなくとも「あらまほしきアメリカ」、即ち「対立を基調とする地域のステータス・クオの維持」に懸命になり、その時々の「実際の米国」の意思に背くこともある。日本は「天皇の威を借りる」ように「アメリカの威を借り」ているのであって、「主体的安全保障」というよりは「忖度的安全保障」とでも言うべきものではあるものの、そこに日本の強い意志が存在しているのは間違いない。
いずれにせよ、そろそろ私たち日本人は「日本は米国に従属させられている」というマインドセットから卒業すべきである。日本政府は主体的に現在のステータス・クオを求めてきたのであって、米国と先後しながら、現在の東アジアの軍事対立の状況をリードしている。
これをただ「対米従属」とだけ表現すると、本来は日本にも大きく存在するはずの責任の程度を曖昧にし、結果、改善の糸口を見いだすのがより困難になる。隣国との対立を繰り返し、一向に日本の安全保障環境が良くならないのは,日本政府や私たち日本人が主体的にこの道を選択している結果である。それこそ主体的に、この選択を変えない限り現状が変わることはない。私たちはこのことを明確に認識せねばならない。
(「ではどのような外交政策を主体的にとるべきと言うのか」という質問が飛んできそうであるが、筆者は、先に触れたASEAN諸国の米中間における強かなバランス外交が今日現在の一つのモデルとなると考えている。詳細は、近著『米中の狭間を生き抜く』(かもがわ出版)をご覧いただきたい)。
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新外交イニシアティブ(ND)代表、弁護士(日本・米ニューヨーク州)。米議会などで政策提言を行うほか、国会議員等の訪米活動を企画。近著に『米中の狭間を生き抜く─対米従属に縛られないフィリピンの安全保障とは』。