第16回 被害者女児の解剖鑑定書が「統合捜査報告書」に
メディア批評&事件検証今市事件の被害者女児の遺体を司法解剖した筑波大法医学教室の本田克也元教授は、正直なところ、自らが弁護団の要請に応じて被告を弁護する側にまわるとは夢にも思っていなかったという。
裁判を前に本田元教授が心配していたのは、被害者女児を解剖した所見と被告の供述が全く符号しないということを宇都宮地検の検事たちがどう考えているのか、だった。
もしかしたら栃木県警に騙されているのではないかと、気になったのだ。そんな折、「検察官から先生にお話を伺いたい」という電話が本田元教授に引継ぎ役の茨城県警からあった。
本田元教授は喜んで「だったら検察官だけでおいでください」と答えた。しかし、困ったことに返事は「どうしても栃木県警と一緒に」と聞き入れてくれない。本田元教授は「それは困ります」と答えるしかなかった。
本田元教授としては、勝又拓哉受刑者を殺人罪で起訴する前に検察官と会いたかった。すでに起訴後ではいまさら起訴を取り下げることはできない。しかし、なんとしても検察官には真実を分かってもらいたい、との思いは強かった。
しかし、警察官と一緒では、話したいことが邪魔されかねないと思えたのだ。こうしてその後は連絡が途絶え、検察官と話す機会はご破算になってしまった。
翌年の2015年8月。この今市事件裁判を担当する一木明弁護士から、本田元教授に「会って話を伺いたい」という電話が入った。普段、司法解剖を行った鑑定人としては、警察や検察の捜査や取り調べの情報を入れながら解剖所見との整合性を追求していくものである。ところが今回は、警察や検察官からの連絡はほとんどない。
本田元教授はもしかしたら、司法解剖の鑑定人の見解が無視されたまま裁判へと突き進むのではないかと思うと不安になった。それで、弁護士からの情報も得て、この事件の真相が知りたいと思い、会ってみることにしたのだ。
その時は、一木弁護士ら3人が本田元教授のオフィスに来た記憶があるという。当時、彼らは国選で弁護を担当していた。本田元教授は「どうして、私を訪ねて来たのですか」と聞いてみた。すると、弁護士は「先生の書かれた鑑定書を読ませて頂きましたが、容疑者の供述とはどうしても合わないところがあるのです。先生にもっと具体的なことをお聞きしたいと思いまして。本当のところはどうか、と思いまして…」。
本田:「どういうことになっているのですか?それで(殺人罪で起訴された)その人は凶器とか、殺害場所、方法などについては、どう喋っているのですか?」
弁護士:「検察官の話では、どうやら遺棄現場まで生きたまま連れて行って、そこで殺害したと言っているらしいのです。つまり、遺棄現場で殺した、ということになっているようなのです。まだ本人から直接、聞いたわけではありませんが…」。
本田:「それは絶対にあり得ない。私の鑑定書を読めば明白なはずです。私の鑑定書は証拠として出ているのですか?」
弁護士:「それが…。統合捜査報告書、として先生の鑑定書をそのままではなく、その一部が捜査報告書という文書の中に抜粋されて証拠とされています」。
本田:「ええっ、それは困ります。都合のいいところだけ利用されたのでは困ります。それで被告人は、本当に自分でやったと言っているのですか?」
弁護士:「それが拉致と強制わいせつについては認めていますが、殺人と死体遺棄については知らない、と言っているのです」。
本田:「それは本当ですか?ならば誰が殺した、と言っているのですか?」
弁護士:「他の人ということをにおわせていますが、知らない、と言っています」。
本田:「そんな馬鹿なことが。拉致と強制わいせつを認めたなら、殺人もやっていると言っているようなものです。第一、被害者の体を徹底的に調べた私が責任をもって言いたいことは、被害者の体には強制わいせつを疑わせる痕跡はありません。だから、被告人は嘘を言っている可能性があります。それにしても、そもそも私が死体から連想した犯人像と被告人の若い男性のイメージがあまりにも合わないのですが、本当に彼は真犯人なのでしょうか」。
弁護士:「私たちは、被告人は全く無罪ではないだろう、と思っているのですが」。
本田:「ただ私が不思議に思っているのが、彼女には性的な犯罪の痕跡が全くないし、強い暴行を受けた痕も見られません。しかもあの執拗な刺し方から見て、ただの殺しが目的としても全く第三者と考えるには少し違っているように思います。あの刺し方には愛情の裏返しの強い怨念があるように思えてなりません。だから他に真犯人がいるかもしれません。
私が考えているのは、おおかたの予想に反して、真犯人は男性よりもむしろ女性ではないかということです。そこで弁護士さん。今度、被告人に接見したら、彼が本当に拉致やわいせつ行為をやったのか、聞いてみてください。それを認めている限り、部分的に殺害と死体遺棄を否定しても、被害者と被告人とは接点があり、また動機があることになるので、仮に殺人が無実だとしても誰も認めてはくれません。
事実ならばいいのですが、本当に拉致とわいせつ行為があったのか、確かめた方がいいと思います。私は彼は嘘をつかされているような気がします。とすれば、全くの無実の可能性があると思いますので。どうにも、彼がなぜ部分的に認めるようなことをしたのか、そこが腑に落ちないのです。もしも認めるのなら全てを認めてもいいと思うのですが…」。
弁護士:「でも、そこだけは、私たちも聞いてみたのですが、答えは変わりません。ですので、私たちの裁判での争点は無罪を争うというのは無理ですが、何か、減刑になるような闘う余地はないかと思っているのですが…」。
本田:「大事なことは事実です。本当にやったのならそれでいいと思いますが、そうでないとすればはっきりと述べさせるべきだと思います」。
弁護士:「分かりました。よろしくお願いいたします」。
本田元教授はもし勝又被告(当時)が犯人とすれば、殺害や死体遺棄について何も知らないということはあり得ないので、これほどに死体所見と異なったこと、つまり現場まで生きたまま連れて行って、立ったまま十数回刺す、などというあり得ないことをしゃべることがありうるのだろうか?というのが大きな疑問だった。
何やら胸騒ぎがしてくるのは、本田元教授が自分で執刀した被害者女児の司法解剖鑑定書を検察側が法廷に提出せずに「統合捜査報告書」なるものを代わりに出しているという情報だ。
実際に解剖した自分の解剖結果そのものが法廷に出ないということは、1万体もの解剖結果で一度たりともない。解剖後一度も捜査機関が解剖の説明を受けずに、勝又受刑者か逮捕してからあわてて接触するかと思いきや、結局は解剖結果を捜査側の都合のいいように変えてくれないかと言うことに尽きる。何という違法捜査も甚だしいと、怒りを通りこしてこの現状を悲しく思った。
今市事件の弁護団と初めて接触してから3カ月が過ぎた同年11月だった。本田元教授は同時期に今市事件の裁判に弁護側推薦の証人で出廷することが決まりつつあった。
独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。