【特集】沖縄の日本復帰50周年を問い直す

宮古諸島・重層する被支配の歴史 —虐げられし者たちの系譜―(前)

清水早子

宮古諸島は沖縄本島と八重山諸島の中間、沖縄本島から南西に約300キロに位置し、琉球弧の中で八重山諸島同様、南島文化の影響の濃い諸島で、8つ(宮古島、大神島、池間島、来間島、伊良部島、下地島、多良間島、水納島)の島々からなる。

Japan Okinawa islands map with watercolor texture / translation of Japanese “Okinawa Map”

 

宮古諸島にいつごろから人々が定住したのかは定かではないようだ。中国の秦(紀元前230~221年)の始皇帝が銅貨を使用する以前は宝貝が通貨として使用していたことや宝貝が宝物や装飾品とされていたことなどから、宝貝が多く採れた宮古島が古代貿易の根拠地であったとか、柳田国男が「海上の道」で宮古島を「日本民族発祥の地」という仮説を立てたその根拠が、“宝貝”だとも言われる。“宝貝のみぞ知る”学説よりも、私は古代、宮古に「母権制と母系制」があったようだ(『平良市史第一巻通史編Ⅰ』)という記述の方に関心が向く。

琉球弧の中で歴史学的には最も新しいとみなされている宮古で、言語学的にみると宮古方言の中に「万葉言葉」が多く残っていて、逆に古い要素を多く保持していることも興味深い。

▼▼薩摩支配下の琉球王府の施策としての「人頭税」

14世紀末、宮古は琉球王朝に統一され、1500年には八重山のオヤケ赤蜂らの乱の折、宮古の仲宗根豊見親が一族郎党を率いて首里王府軍3000の先導役をつとめ、その功績により宮古の支配者としての地位を確立した。1609年3月、薩摩藩主島津氏は軍船100余隻、3000余の軍兵を投入、わずか1週間で琉球全土は手中にされたと言われている。

領土内の反乱には八重山まで遠征する戦闘性があったにもかかわらず、その100年後にたやすく制圧されているのは、侵略者としての薩摩藩の軍事力と戦闘意欲に比して、鉄砲も持たなかった琉球は格段の差があったのだろう。

薩摩の侵略によって、琉球王朝は独立国家としての実体を失い、1637年~59年に整備され宮古・八重山に課せられた過酷な人頭税は、王府がその体制維持のため、財政危機のしわ寄せとしてとった施策の一つとみなさている。従来の在地役人(地元村役人)による間接統治から、常駐在番役人を派遣しての直接統治へと1629年移行していった。

人頭税は15歳以上50歳未満の男には粟(宮古では米ができないので)、女には上布を定額貢租として課した。その税負担は個人責任であるとともに村ごとの連帯責任ともされ、村は納税者の減少をおそれて相互の往来すらなくなり、村単位の閉鎖社会は人頭税が廃止される1902年まで270年ほど続いた。

在番役人は当初1人から1647年に3人に増員されたが、わずか3人の在番で王府の方針が徹底することは困難であり、私服を肥やす在地役人の不正、腐敗は横行した。

在地役人は民衆の土地や税を私物化し、必要な手続きもせずに民衆を拷問し、在番役人には取り入ろうと村の女性を差し出した。王府は1678年、1767年、1865年、1873年と4回にわたり検使を派遣し、民衆の役人に対する不満・批判を聴取し、帰任後「規模帳」を作成し、行政、産業、祭祀、習俗など多岐にわたる改革内容が示された。

しかし、それは、在地役人の綱紀粛正を通して王府の政策を百姓にまで徹底させ、いかに生産性を高め、貢租を確保するかいう点に眼目があったようだ。

1800年、冊封使を清から迎え、また冊封の答礼使を清へ送り出し、薩摩への使者の派遣などによる王府の財政のひっ迫は深まり、それは末端の民衆にしわ寄せられた。民衆は村からさえ逃亡し、山野に隠れたという。

近世末期には検見役というものも派遣しているが、それでも役人の腐敗は止まらず、頻繁に襲う台風と旱魃による飢饉、厳しい税の取り立てに民衆は疲弊、窮乏し、憤り、やがてさまざまな抵抗をこころみる。中でも「落書事件」は特筆すべきものである。

1858年、検見役として宮古へ来島していた武富親雲上良有の宿所に落書を投げこんだ者がいた。誰の行為かわからないままになっていたが、2年後の1860年、那覇にある薩摩在番奉行所にあてた讒書(ざんしょ)を宮古に来ていた薩摩商人にひそかに託送するという事件が起こった。

Narrative of the expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan : Performed in the years 1852, 1853, and 1854, under the command of Commodore M.C. Perry

 

その書状は、琉球王府支配を批判し、「…悪政に困弊する島民を公道の下に救い給わば…」とその告発を薩摩藩へ直訴する内容で、琉球王府にとっては体制を揺るがす反逆行為であり、大事件となった。犯人糾明は混迷したが、その2年後、主犯とされた者は3年間牢こめの上、斬罪、その妻子は10年間久米島流刑となって決着した。宮古の民衆は困窮のあまり、琉球王府の政策への告発を薩摩藩へ向けて訴え、救いを求めようとしたのだろうか。

Narrative of the expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan : Performed in the years 1852, 1853, and 1854, under the command of Commodore M.C. Perry

 

▼▼「琉球処分」と宮古島

日本の廃藩置県まもなく1871年秋、那覇へ上納物を運ぶ宮古船が帰途、暴風に遭い台湾南東部に漂着した。乗船者69人のうち3人は溺死、54人は上陸後現地人に殺害され(殺害の原因については諸説がある)、生存者12人は翌年6月福州をへて帰国した。これが「台湾遭害事件」である。

この事件が鹿児島県参事大山綱吉から明治政府に報告され、これを口実に明治政府は1874年4月、西郷従道率いる台湾「征討」軍を送った。このことを背景に「琉球処分」は時期を速め断行されることになり、1879年他県に8年遅れ廃藩置県を迎えた。1871年の廃藩置県では琉球は鹿児島県の管轄下に置かれ、翌72年に琉球藩となったが、中国(清)との関係は従来どおり存続していた。

台湾出兵は清国を初め、イギリス、スペイン、米国など諸外国の抗議の中で強行されたものである。抗議する清国との交渉過程で清国は、琉球は中国の属国であることにしばしば触れたが、日本側はうまく琉球問題を避け、議定書で殺害された宮古島民らのことを「日本属国民」と書くことに成功し、琉球が日本の藩属であることを公文書の中で清国は認めたものであると解釈した。こうした姑息な歴史の流れの中で、宮古船の遭難に端を発した台湾出兵は、琉球の日本への帰属を対外的に処理する布石となって「琉球処分」は本格化していく。

「琉球処分」については2つの解釈がある。一つの解釈は『沖縄一千年史』や『宮古史伝』等にあるように「1879年3月11日付で廃藩置県を仰せつけられたこと」であり、もう一つは「明治政府の下に沖縄が日本国家の中に強行に組み入れられた一連の政治過程を言い、1872年の琉球藩設置に始まり、1879年の沖縄県設置を経て、翌年の分島問題の発生と終息にいたる前後9年間にまたがり、この時期を沖縄近代史上、琉球処分の時期として位置づけること」である。(金城正篤「琉球処分論」)宮古・八重山の分島問題も「琉球処分」の中の一環として取り扱う見方である。

▼▼琉球条約と宮古・八重山の分島問題

日本政府が1872年9月琉球王国を廃して琉球藩を置き、1875年5月清国への朝貢及び使節派遣、琉球への冊封使差し止め、1879年4月4日についに廃藩置県という最後の断を下すまで、日本政府への琉球藩の陳情と嘆願、一方、日本政府の琉球藩への説諭と弾圧、日本対清国間の折衝、論駁、誹謗、抗議等三つどもえになって複雑な様相を呈し、琉球問題は未解決のままくすぶり続け、宮古・八重山の分島問題にまで発展していった。

清国の抗議が続く1879年5月、日本に立ち寄った前米国大統領グラントに仲介を依頼した明治政府は、沖縄島以北の日本国の管理するものは除き、宮古・八重山は清国領とするいわゆる「分島」案を提出した。

「琉球処分」の経過の中でも、宮古・八重山は打ち棄てられようとしたのである。交渉すること2ケ月、両国全権の間に「琉球条約」が妥結した。しかし、調印には至らず交渉は打ち切りになり、1881年条約は流れた。当時、清国側にはトンキン問題でフランスとの確執があり、朝鮮での1882年壬午の変、1884年甲申の変など対朝鮮問題も抱えており、琉球問題はうやむやになっていった。

1894年日清戦争に至るまでの間、英修道著『外交史論集』によると、「日本の琉球統治が着々と実績を上げている一面、琉球の清国派が清国において復帰運動をしたり、朝貢使と称する琉球人を清国が待遇したり、琉球官吏が旧王国を夢見て抵抗した事件もあった」とある。そして、日清戦争での清の敗北の結果、琉球問題は日清外交から消えていった。

▼▼人頭税撤廃運動

仲宗根将二氏著『宮古風土記』によると、1879年の廃藩置県の後も、明治政府は旧支配層への配慮から、「旧慣温存」策をとり、宮古・八重山では在地役人のそれまでの権限も、人頭税も存続されていた。

「那覇出身城間正安、新潟県出身中村十作らの指導もあって、宮古農民の人頭税撤廃・島政改革運動は燎原の火の如く燃え広がった。」とある。

1883年11月代表4人は命がけで海を渡って上京、政府、貴族院・衆議院に請願し、本土の各新聞は一行の訴えを「沖縄宮古島の惨状」と大きく報じた。その紙面に触れた人々は、このような過酷な悪政が延々と二百数十年、今なお沖縄の離島で続いていることに驚愕したという。

1902年12月、人頭税は撤廃され、翌年1月から他県同様の地租条例が制定された。宮古農民の直接請願行動は、沖縄全県の制度改革、近代化を促す引き金となったという。「一方、人頭税廃止と同時に徴兵令も適用され、1904年勃発した日露戦争では多くの兵士が「満州」の山野で屍をさらした」のである。

歴史の歯車が少し違った噛み合わせをしていれば、宮古・八重山は今頃、中国に属していたことを知る人はこの諸島にももう多くはない。この宮古諸島の先人たちは、琉球王府による支配、王府を通しての薩摩の支配、明治政府と中国清の覇権抗争の中で、なんと収奪され、翻弄され、生き抜いてきたことか。しかし、まだこの先、戦争の時代へとこの諸島の悲運は続いていく。

 

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清水早子 清水早子

1995 年、進学塾講師として関⻄より宮古島教室へ赴任。宮古島の子どもたちと向き合い、反戦活動や持ち上がる基地問題への取り組みを地元の市⺠と共に続けている。ミサイル基地いらない宮古島住⺠連絡会事務局⻑、宮古島ピースアクション実行委員会代表。

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