【特集】沖縄の日本復帰50周年を問い直す

宮古諸島・重層する被支配の歴史 —虐げられし者たちの系譜―(前)

清水早子

▼▼太平洋戦争時の日本軍による「全島要塞化」

宮古島における基地建設の歴史は大正時代までさかのぼり、1919年ごろから、有事の際、北海道 諸島・台湾に臨時要塞を建設することになり、1922年から沖縄本島中城湾、宮古島狩俣、西表島船浮に要塞建設計画が作られたことが、防衛庁防衛研究所戦史室「先島群島作戦(宮古編)」に見られる。

しかし、中城湾、船浮要塞施設の建設に着手完成したのは1941年で、宮古島では遅れて1943年10月から飛行場建設などに陣地構築が始まった。山も川もない平坦な宮古島は「航空基地として最適」と判断され、3つの飛行場が建設されることになった。『沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』でいわれるように、沖縄戦の最大の特色は「航空特攻戦法」であった。(※宮古島の海岸には特攻用の舟を隠した穴も多数残っている)。

1つの滑走路が爆撃されても、他の滑走路の利用により航空基地全体の機能を喪失しないことを主眼とする「第10号作戦」に取り組み、3つの飛行場と6本の滑走路をもつ航空基地建設による全島要塞化が始まった。

米軍上陸を想定した第32軍は満州に駐屯していた第28師団を先島守備強行のために第32軍に編入させ、宮古島に移動させた。第28師団は日清・日露の戦歴を持つ日本陸軍の精鋭師団の一つとして数えられた部隊であった。そのほとんどは満州から釜山、鹿児島経由で宮古島に送り込まれた。

1944年宮古島に駐屯した日本軍は最終的には、陸軍のみで2万8000人、海軍を合わせると3万を超える強大なものであった。人口6万人の島では、約1万人が疎開して島を離れ、老人、女性、子どもが多い中、成人男性は島民より軍人の数の方が上回り、街にはカーキ色が溢れていたという。飛行場建設には、「島民を各地区隊に収容して参加させる」(野口退蔵『宮古島建築兵始末記』)状況が強いられ、青壮年はもとより小学生まで動員、作業にかり出され、学校などの島内の主要建設物もほとんど軍に接収された。

宮古島では直接の地上戦はなかったが、連日の米軍による空襲、イギリス東洋艦隊による艦砲射撃で、平良の街はもとより島中ほとんどが焼土と化した。海空の輸送路を断たれ、孤立した島内で島民も軍人も飢餓と栄養失調、マラリア等の伝染病に苦しんだ。戦死者の数は爆撃によるものより飢えと伝染病によるものが上回るという。

十・十空襲と呼ばれる1944年10月10日の空襲では軍関係者だけで1500人余、民間人200人以上とされるが、1947年の統計によるとマラリア罹患者は3万人以上、死者428人、飢えによるものを加えると、終戦以降も増え続け正確な死者数は今なお、不明という。

Itoman, Okinawa, Japan – March 24, 2017: Engraved names of war dead in the Cornerstone of Peace at Okinawa Prefectural Peace Memorial Museum. The museum was established in 1975 on Mabuni Hill.

 

▼▼宮古島にあった16ヶ所の「慰安所」と朝鮮人「慰安婦」

日本兵とともに宮古島には、朝鮮人軍夫と「慰安婦」が連行された。引き上げた時点での朝鮮人軍夫の数は600余と記録があるが、飛行場建設、港湾の荷役労働や井戸掘りの重労働を強制され、爆撃では港湾、航空基地などがターゲットになったため、彼らは真っ先に被害に遭った。空襲の最中まで労働を強いられ、荷役労働中に港湾で爆撃に遭った朝鮮人軍夫の死体が海に累々と浮かんでいたという。相当数の朝鮮人軍夫がいたはずである。

若い朝鮮人女性がほとんどであった「慰安婦」は島内少なくとも16ケ所の「慰安所」に収容されたことが、地元研究者やその後の調査で判明している。宮古島島民に目撃されている「慰安所」のほとんどは、飛行場建設が本格化した1944年ごろに作られている。

1944年、宮古島の陸軍病院にはマラリア患者があふれ、患者を運ぶ担架や医薬品が不足していた。歯科医であった池村恒正氏は軍医として現地召集される代わりに、台湾の台北帝国大学医学部まで物資を取って来るよう指示され、台湾に渡るが物資を得ることはかなわず、軍人二人に付き添われた「朝鮮人の慰安婦53名」とともに帰途についた。

船は翌朝、与那国港外で米軍の攻撃を受け、「慰安婦」たちはアイゴー、アイゴーと叫びながら溺れ死んでいくのを目の当たりにした。九死に一生を得た池村氏は、53名のうち生き残った7名の朝鮮人「慰安婦」を連れて宮古に戻った。彼はこう証言する。「生き残った朝鮮の女性は7名だけだった。この人たちは好き好んで『イアンピー』になったわけではない。日本の強権で連れて来られた人たちだった」「着のみ着のまま7名の「慰安婦」を野原越(司令部があった)の師団管理部に連れて行った」「兵隊の性欲とはそんなに強いものだろうか。連日列をなして順番を待っていた。担架と薬品を取りに行って、それは果たさず、朝鮮の女性7名を連れて帰ったわけです・・・」と。(『沖縄県史』第10巻)

沖縄本島では「慰安所」は、特に植民地女性を収容した「慰安所」は「皇土の一部」である沖縄に持ち込むことに対する批判を避けるため、集落のはずれなど住民の目に届かない場所に建てられているが、宮古島では平坦な地形であり、飛行場建設に総動員された島民の目から隠れたところに「慰安所」を置くことはできなかった。

それらは、陣地近くの原野や道端、集落近くや街中の人目につく場所に建てられたバラック小屋や赤瓦家であった。多くの島民が現認しているばかりではなく、「慰安所」建築の手伝いや「慰安所」までの道案内をさせられたり、そのうえ、住居である家を「慰安所」として接収されたものもある。

さらに川もない島では生活用水は井戸水であり、軍も島民も「慰安婦」も水場という生活空間を共有せざるをえなかったため、陣地や「慰安所」の位置は井戸と密接な関係にあった。日本軍も「慰安所」から島民の目をそらそうとした痕跡はなく、「慰安婦」たちも水場での水浴びや洗濯する姿を目撃されたり、井戸を共有する一部島民との親密な交流も見られた。

島民の居住空間の近くにいた「慰安婦」に対して、宮古島島民の眼差しには差別的な偏見が相対的に少なかったようだ。とはいえ、強制連行されるか騙されるかして朝鮮半島や台湾から宮古島にやって来た若い彼女たちは、移動の自由も人権も奪われ、「慰安所」の前で居並ぶ「ふんどしだけを身に着け、手に印の押された白い紙を持った兵隊」たちの性のはけ口とされ、奴隷状態に置かれていたことに違いはない。

1945年の終戦時、8月26日米国海兵隊2000人が上陸用舟艇(LST)で入港、10月6日までかかって日本軍の組織的な武装解除が行われた。沖縄本島とは異なり、軍民ともに捕虜として収容所に送られることはなく、3万人もの日本軍は復員が終了する1946年2月まで孤立した島に島民とともに共存した。「宮古島では補給路を失った兵隊と郡民が襤褸をまとい、わずかばかりの食糧を求めてさまよっていた」(『平良市史第一巻通史編Ⅱ』)のだ。

敗戦と同時にこれら宮古島の軍隊がいち早く執り行なったのは、書かれた戦争記録の抹消であった。「宮古島に於ける作戦資料はすべて終戦に方(あた)って焼却したので何も残っていない」(防衛研究所戦史室「山砲兵隊二十八連隊」『宮古島戦史資料』)。

「平良町に上陸して来た焼けただれた軍旗は、侵略戦争の終末を暗示し、象徴するものとなった。同年(1945年)8月31日、野原岳司令部に保管し、男子教員の輪番制による『護衛』された天皇家三代の『御真影』とともに連隊旗は『軍旗奉焼』と称して焼却された。」(『平良市史第一巻通史編Ⅱ』)

終戦後、朝鮮人軍夫は、港で解放の行進をしたという。「慰安婦」とされた彼女たちはどこへ行ったのか記録はなく、検証もない。島民の記憶の中にのみ、彼女たちは生きている。そして、日本の敗戦から63年の後、島民たちの薄れてゆく「記憶の場」にいた彼女たちは、「祈念碑」としてその存在を再び明らかにする。

【参考文献】

・平良市(現宮古島市)史第一巻通史編Ⅰ、Ⅱ。
・仲宗根将二(宮古島市在住郷土史研究家)『宮古風土記』。
・洪沇伸(「朝鮮人と沖縄戦」「ジェンダー」研究者)『「慰安婦を見た人々」』、季刊戦争責任研究62号。

※「宮古諸島・重層する被支配の歴史―虐げられし者たちの系譜―(後)」は5月27日に掲載します。

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清水早子 清水早子

1995 年、進学塾講師として関⻄より宮古島教室へ赴任。宮古島の子どもたちと向き合い、反戦活動や持ち上がる基地問題への取り組みを地元の市⺠と共に続けている。ミサイル基地いらない宮古島住⺠連絡会事務局⻑、宮古島ピースアクション実行委員会代表。

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