第5回 トルコ航空機邦人救出から得た知見と教訓を未来へ
メディア批評&事件検証トルコ航空機による邦人救出では、不甲斐ない対応をしておきながら、国会で自分たちの外交の成果だと胸を張った日本政府と外務省。戦時下で攻撃を受けながらも救出に動いたトルコ航空の人々たちを、本来ならば国を挙げて人命を大切にする国際貢献の見本だとしてノーベル平和賞に推薦すべきだったと、私は思わずにはいられません。
そんな中で唯一救いだったのは、2006年に当時の小泉純一郎首相があらためて、トルコに対して感謝の意を表明し、日本人救援を決断したトルグト・オザル首相(1993年没)の夫人に感謝状を贈り、さらにトルコ航空の機長や客室乗務員ら関係者13人に叙勲が授与されたことです。
さて、今度は私の番です。一番気にかけていたのは邦人救出に対する謝意です。まずは在日トルコ共和国大使館に連絡をとり、2008年12月10日に足を運びました。当日は参事官が応対をしてくださりました。
私は直ぐに握手をしてテーブルを挟んで座り、25年前に戦時下のテヘランからトルコ航空で助けてもらったことを手短に話し、心からお礼を述べました。そばにいた秘書の方がトルコ語に訳してくれて私の気持ちが直接参事官に伝わり、逆に参事官からわざわざ感謝を言うために来たことにお礼を言われて感無量でした。
そのあと1999年9月のトルコ北西部大震災の復興状況をお聞きしました。復興支援の募金を申し出ると、トルコ政府としては、義援金の受付はすでに終了していて、せっかくの申し出ですが、お受けできないと丁寧に説明をしてくださいました。
この寄付に関することで何かできないかと尋ねると、兵庫県のある団体が活動されていることを教えてもらい、兵庫県国際交流協会に連絡を取りました。この協会は、トルコの大震災で遺児や孤児になった子供たちを日本に招いて、95年の阪神淡路大震災で被災した子供たちや同県の子供たちとの交流活動を行っていました。この活動ならトルコ人に直接支援ができるかもしれないと思い、早速寄付の手続きをしました。やっとトルコの人たちに直接、感謝の気持ちを伝えることができました。
そこで今度は、トルコが日本に対して強い親愛の気持ちを持つようになった原点ともいえる、エルトゥールル号遭難事故の時の献身的な救助活動をしてくれた串本町の人にお礼が言いたくなって連絡を取ったのです。この頃ちょうど「ふるさと納税制度」が創設された時で、串本町では、「串本町ふるさとのまちづくり応援寄付制度」をスタートさせたところでした。
この制度に寄付をさせていただければ、トルコとの友好関係の促進に役立てて頂けるのではないか。学校の教育や文化の振興に何かしら役立てて頂けるのではないかと考え、寄付を申し込みしました。
この寄付が同町での納税制度第1号となり、制度のPRにもなったのではと自負しています。そして日本とトルコの友情の原点でもある和歌山県串本町に足を運んだことで、新たな出会いや、催しへの参加、そしてこれからの人生を謳歌するための目標を持つこともできました。
2010年は日本とトルコの友好関係が始まって120年という大きな節目の年にあたり、串本町は「日本・トルコ友好120周年記念事業」が企画されたのです。この事業は5年ごとに行われ、今回は私にトルコ航空機によるテヘランからの日本人救出劇の時の体験を語ってほしいとの依頼がありました。自分にとっては、串本町の皆さんに直接お礼が言えるチャンスだとしてありがたいことだと思いました。
でも、テヘランからトルコ航空で助けていただいたのは我々イラン戦友会10人を含め、215人だったわけです。私一人が参加するのであれば、どうも趣旨とは違うのではないかと考えました。そこで、串本町の実行委員会にイラン戦友会のメンバーで出席できる人を何人か出席させていただけないか、相談しました。同委員会は快く受け入れて頂きました。
これで215人とは言わないまでも、何人かの人が、串本町の皆様にお礼が言えるチャンスを頂けたと思い、串本町には参加の意を伝え、6月4日に串本町文化センターで感謝の言葉を言わせていただきました。このことは私の生涯にとってどれほど大きな意味を持っているものか、計り知れません。これで悔いを残さず人生を終えることができる、そう思いました。
これらの活動を通して多くの人々と出会い、その後イスタンブールの地を3回も踏むことが出来たことはとても大きかったです。和歌山県海南市の作曲家で、指揮者でもある向山精二さんもその一人です。同年6月に突然、電話をいただきました。
向山さんは、最近になってエルトゥールル号事故のことを知り、和歌山県の先人がした素晴らしい人間愛の行動を音楽にしたいと思い立ち、「紀伊の国交響組曲第四楽章」に「エルトゥールル号の乗員に捧げる曲」「友情・エルトゥールル号の軌跡」を追加作詞作曲し、さらに、このエルトゥールル号の事故から95年後の1985年3月にトルコ航空によるテヘランからの日本人救出劇があったことを知りました。
これが両国の「友情」を更に深めたことを知り、このことを音楽にして日本とトルコの友情を広く伝えて行きたいと考え「友情」その1「九死に一生」を作詞・作曲したのです。
向山さんは私がトルコ航空でテヘランから助けられた日本人の一人である事を知り、コンサートの休憩時間に当時のことなどを話してもらえないかと依頼を受け、喜んでお受けしました。そのコンサートが同年7月、トルコ・イスタンブール・アヤイリニ教会で行われました。実に救出から25年ぶりのことです。
会場に集まった1200人と会場の外に集まった人たちを前に心からお礼を述べました。驚いたことに、サプライズが用意されていたのです。
私たち日本人を助けるために航空機を飛ばしてくださったあのトルコ航空の機長だったオルハン・スヨルジュさん、機関長のコライ・ギョクベルクさん、キャビンアテンダントのアイシェ・オザルプさん、デニス・ジャンスズさん、ナーザン・アキュンレルさん、そして、トルコの首相に直接電話で日本人救出を頼んだ伊藤忠商事イスタンブール支店長だった森永堯さんが会場にいたのです。壇上にお上がりになり、私と握手をしてくれたのです。余りの突然のことで私の頭の中は真っ白になってしまいました。
思い出すと、胸が熱くなります。国を超えて友情を育む。みんな笑顔で、会えば国は違えども抱き合う。そんな世界を取り戻そうではありませんか。
(終わり)
拝読してくださった皆様へ心からお礼を申し上げます。さて、ご好評につき、「連載トルコ航空機の日本人215人救出に思う(番外編)」として来週の水曜日に1回だけ、ISF独立言論フォーラムの梶山天副編集長が2015年12月に映画化された日本とトルコの二つの国の人命救助の知られざる感動の秘話を紹介します。殺人事件の真実に迫る調査報道や、はたまた人々の心をわしづかみする彼独特の温かくて、優しさの溢れる世界をご堪能ください。
※ご支援のお願いのチラシ作成しました。ダウンロードはこちらまで。
1942年、青森県生まれ。1961年、プリンス社入社(66年に日産自動車と合併し、社名が日産自動車に)。78年にイラン自動車工場の技術指導担当。1985年3月、トルコ航空機でイラン・テヘランから救出された邦人215人の一人。その後93年までイラン自動車工場の技術指導を継続。95年に菊地プレス工業に転属、2002年に定年退職した。現在、串本ふるさと大使、エルトゥルルが世界を救う特別顧問、日本・トルコ協会会員。