【特集】沖縄の日本復帰50周年を問い直す

宮古諸島・重層する被支配の歴史 —虐げられし者たちの系譜―(後)

清水早子

▼▼航空自衛隊宮古島駐屯基地の麓に日本軍「慰安婦」の祈念碑建立

2005年市町村合併で旧平良市は宮古島市となる。2007年3月、宮古島市議会で、「宮古島における「慰安婦」問題の実態を記録するため「慰安所」跡の地図作成などに取り組むこと」に対する市長の見解を求めた議員に対し、一部保守系議員から「従軍『慰安婦』問題は地方議会にはそぐわない」として反発。それに対して市長は「戦時中、『慰安所』が自宅から100メートルも離れない所にあった」と発言、「『旧平良市史』にも記述がある」と応じた。

この発言に対して保守系議員たちは発言の撤回と謝罪を求めて退席し議会は空転、結局、提案した議員と市長は発言を取り消し、議会でのやりとり、「慰安婦」の質疑は議事録から削除されるという事態が起こった。

このような事態に憤りと懸念を感じた女性たちが、「宮古島の日本軍『慰安婦』問題を考える女たちの会」を結成、4月、宮古の「慰安婦」調査をしていた洪沇伸(ホンユンシン)さん(韓国からの早稲田大学大学院留学生・「沖縄・韓国における軍事暴力」研究者)を招き、「宮古島の日本軍『慰安婦』について証言を聞く会」を開催した。

出席した戦時中の記憶を持ち続けた宮古島の高齢の証言者の口から、こうして「慰安婦」たちが再生した。5月には、韓国から尹貞玉さん(元韓国挺身隊問題対策協議会代表・元梨花女子大学教授―伊さんは戦時中「挺身隊」として日本へ駆り出され戦後も帰らぬ同級生たちの足跡を辿ることをライフワークにしており、アジア太平洋諸国の日本軍が「慰安所」を置いた全ての場所へ出かけ証言を集めている)、中原道子さん(早稲田大学アジア近現代史名誉教授)、東海林得子さん(VAWW-NET(戦争と女性への暴力)ジャパン)他の日韓合同調査団が来島、当時を知る島民から聞き取り調査を行った。(※尹さん、中原さん、東海林さんたちは、日本軍の「慰安婦」制度を裁いた2000年の女性国際戦犯法廷の国際実行委員たちである)。

宮古島市議会の保守系議員たちは、皮肉にも宮古島の「慰安婦」問題に大きく火をつけてくれたことになる。この調査活動の中で、当時を知る証言者の一人から「『慰安婦』の女性たちを悼む碑を建てたい」との声があり、「宮古島の『慰安婦』問題を考える女たちの会」が祈念碑建立へと動いていく。東京からまず、募金運動が始まり、韓国、宮古島と「宮古島に日本軍『慰安婦』の祈念碑を建てる会」が結成され、海外や全国から600余の個人・団体の賛同と募金が寄せられた。

韓国内では、もう20年近く、毎週水曜日に、いまだに公式な謝罪や賠償をしない日本政府に抗議してソウルの日本大使館前で座り込みを続ける元「慰安婦」たちを支えてきた挺身隊問題対策協議会が中心となって祈念碑建立の運動を担った。毎年、元「慰安婦」女性たちは高齢となり次々と亡くなっていく状況なので、存命する彼女たちに一刻も早く碑の完成を伝えたいと、短期間のうちに東京・宮古の限られた人数のメンバーたちも懸命に働いた。そして、2008年9月7日、碑は完成し除幕式が執り行なわれた。

Buenos Aires, Argentina – November 3, 2019: Stand in the memory of the Comfort Women at Korea community celebrations

 

戦時中は日本軍司令部が、戦後は米軍基地が、本土復帰後は航空自衛隊通信基地が置かれている宮古島の中央、宮古で最標高110メートルの野原岳のふもとに建った碑は、「女たちへ」と「アリランの碑」と題字を彫られ、次の碑文が刻まれた。

「アジア太平洋戦争期、日本軍はアジア太平洋全域に『慰安所』を作りました。沖縄には130ヶ所、宮古島には少なくとも17ヶ所あり、日本や植民地・占領地から連行された少女・女性が性奴隷として生活することを強いられました。2006年から2007年にかけて『慰安婦』を記憶していた島人と韓国・日本の研究者との出会いから碑を建立する運動が始まり、世界各地からの賛同が寄せられました。

日本軍によって被害を受けた女性の故郷の11の言語と、今も続く女性への戦時性暴力の象徴として、ベトナム戦争時に韓国軍による被害を受けたベトナム女性たちのためにベトナム語を加え、12の言語で追悼の碑文を刻みます。

故郷を遠く離れて無念の死をとげた女性たちを悼み、戦後も苦難の人生を生きる女性たちと連帯し、彼女たちの記憶を心に刻み、次の世代に託します。この想いが豊かな川となり、平和が春の陽のように暖かく満ちることを希求します。この碑をすべての女たちへ、そして平和を愛する人々に捧げます」と。

そして、両側の碑には「日本軍による性暴力被害を受けた一人ひとりの女性の苦しみを記憶し、全世界の戦時性暴力の被害者を悼み、二度と戦争のない平和な世界を祈ります」との碑文が12ヶ国語(中国・台湾、グアム、インドネシア・マレーシア、韓国、ミャンマー、オランダ、タイ、フィリピン、東チモール、オーストラリア、日本、ベトナム)で刻まれている。

除幕式直前、宮古島にいた「慰安婦」の唯一の生存者として韓国の病院にいることが調査で判明した朴ゼナムさんが亡くなった。碑の完成を心待ちにしていたという。

韓国から除幕式に来島した元「慰安婦」85歳の朴順姫(パクスンヒ)さんは、自分の過去の証言を初めて、宮古島の高校生たちも含め、150余名もの老若男女の聴衆の前で語った。

平安南道元山で生まれ、16歳のときに日本の憲兵に連行され、満州の日本軍「慰安所」での6年間の恥辱と苦渋の生活を告白することは耐えがたく、証言の途中、彼女は貧血を起こし中座しなければならなくなった。会場の150余名は心をえぐられる告白に、屈強な男も、冷静なはずの司会者もみんなが涙した。

除幕式当日は、建設中の自衛隊基地内の巨大な「地上電波傍受施設」を向こうに見上げながら、高校生たちの吹奏楽で「アリランの唄」の演奏とともに、100名を超える島内外の参加者で賑やかに楽しい除幕式が行われた。

薩摩藩の侵攻以来400年の歴史を、この沖縄の離島である小さな島々で連綿と生きてきた虐げられし者たちの末裔が、今、一つの国際連帯のシンボルを形にしたのである。

 

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清水早子 清水早子

1995 年、進学塾講師として関⻄より宮古島教室へ赴任。宮古島の子どもたちと向き合い、反戦活動や持ち上がる基地問題への取り組みを地元の市⺠と共に続けている。ミサイル基地いらない宮古島住⺠連絡会事務局⻑、宮古島ピースアクション実行委員会代表。

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