【連載】データの隠ぺい、映像に魂を奪われた法廷の人々(梶山天)

第19回 女児の左目付近に爪の傷

梶山天

今市事件の捜査は、殺人罪で起訴された勝又拓哉被告の殺害場所や殺害状況を記した供述調書だけでなく、被害女児の頭部から採取された布製の粘着テープのDNA型鑑定結果についてもうさん臭いことだと、筑波大の本田克也元教授が感じ始めた。どうやって科捜研の技官2人が汚染するのだろうか?そのプロセスを聞いてみたいと思ったのだ。この粘着テープの重要性はどれだけ犯人の割り出しに大切か、分かっているはずだから汚染対策はしていたはずなのに……。

2016年2月29日から始まった今市事件の一審裁判で、被害者の遺体を司法解剖した本田元教授は、同年3月8日に出廷することが決まった。裁判所から2月中に、公判で使用する資料をあらかじめ提出するよう求められた。それは、死体解剖所見だった。これは写真がなければ説得力がない。しかし、この裁判は裁判員裁判だ。一般人がその模様を見ることになるので、視覚的に刺激の強い写真は使えない。

裁判員裁判は、今では一般的に認知されているものの、法医学の立場からは、制限の多い裁判だ。なぜかというと、見ただけでぞっとする生の事実を写した写真の多くが使えない。そこで本田元教授は、解剖のカラー写真を白黒写真に変換して使い、写真の一部のみをカットして残酷なイメージを連想させないように工夫するなど準備だけでも大変な労力をつかった。

死因にあたる遺体の胸の傷は、ほぼ同じ方向を向いていた。つまり犯人が凶器を持ち替えたり、被害者が体位を変えたりすることはほとんどないようであった。被害者はどうして動いていないのであろうか?まるで金縛りにあっているようだ。怖いとか、逃げたいという気持ちの前に、思いも寄らぬことをされて、なすすべもなく、呆然としてしまったようだ、と思った。

本田元教授は、筑波大学の大学院で法医学を専攻して以来、同大学、信州大学、東京都監察医務院、大阪大学、大阪府監察医、兵庫県監察医などを歴任し、すでに1万体を超える解剖を行ってきた。

今市事件の被害者の司法解剖で、結果として分かったのは刃物で刺してできた傷の順番だった。初めにできた傷ほど血圧が高いから出血が強い。しかし、出血が進むほど、血圧が下がるために次にできる傷は出血が小さくなっていく。その中には心臓を刺した致命傷があり、胸の中には大量の血液が固まったまま残っていた。血が固まっているということは、比較的初めにできた傷に由来することを意味する。出血が進めば進むほど、血液中の凝固因子が少なくなっていき、固まりにくくなるのである。

結果として、最も細く深い傷から凶器を明らかにしていく。刺し傷の場合は、凶器の幅は最も小さな傷口の長さを超えることはない。なぜかというと、小さな凶器で大きな傷の入り口は作れるが、大きな凶器で小さな傷の入り口は作れないからだ。一方、深さに関しては、これとは逆に長い凶器で浅い傷は作れるけれども、短い凶器で深い傷は作れない。そうしたことを踏まえて、凶器の大きさを推定していく。かれこれ3時間で全ての傷を明らかにしていった。

こうやって凶器の大きさは確定していったが、皮膚にはどうにも不可解な傷が含まれていた。この傷が今市事件の冤罪の扉を開く大きな手がかりになっていくとはだれも予想もつかなかっただろう。しかし、孤高の法医学者とも言われる「頑固医師」の元教授は遺体のどこかに犯人につながるサインを被害女児が必ず送っていると時間をかけてさがし始めるのだ。

1万体の解剖をこなしてきた経験値がそう胸に刻み込まれている。そのまなざしが鋭い瞬間(とき)には、声をかけるだけでも憚られる。実はそんな時があったという。被害者の左目に見られた奇妙な形状の傷である。この傷は刃物で出来たものではない。なぜなら入り口にこすったような傷があるからだ。しかもこれは上下で対になっている。これはなんだろうか。本田元教授は、その傷が何でできたものかわからず、その後もずっとひっかかっていた。

本田元教授が女児の司法解剖を行って約5年後のことだった。左目付近の奇妙な傷の謎を解くことができたのは、偶然に見た自分の子どもの傷だった。それは長男と次男との兄弟喧嘩で取っ組み合いになったあと、次男の左目の外側に、皮膚を浅くえぐったような傷が上下対になっていたのである。本田元教授はこれを目の当たりにして「何だか見覚えがある傷だな」と思って、しばらく考え込んだ。

思い出したのが、今市事件の被害者に見られた左目外側の傷だった。元教授は未解決事件の解剖所見については、脳裏を離れることなく、ことあるごとに思い出していたのだ。その後に行った解剖に解を導く手掛かりがあることも少なくないからである。

子どもの傷はなぜ出来たのか。確かめてみたところ、長男の爪によって目の横を切りつまんだことによる傷だった。そのとき、長男の爪が伸びていたことから、利き腕で右手の親指と人さし指の爪で、目の横をつまんだことによる傷だったことが判明した。日常生活にすべて謎を解く鍵があるというのは元教授の信条であったが、実際に事実で確かめてみるという法医学の基本は実は日常生活そのものにあるのである。

こう考えていくと、全ての謎が解けてくる。というのは、この今市事件の被害者には爪でひっかいたような小さな傷がたくさんあったからだ。具体的に述べてみよう。たとえば被害者の右頸部に残された傷に注目してみよう。

左の眼の下についている対の傷は爪によるもの。

 

ここには長さ数㍉程度の線状の小さな傷が対になっているものが2ヵ所ある。左の傷の上下の間隔は2.73㌢で、右の傷の上下の間隔は2.98㌢で2.5㍉の差がある。白黒写真に変換しているが、もともとの傷の色は薄赤色であり、その傷の方向はおおむね左上から右斜め方向で、深さは浅くわずか数㍉程度しかない。

これは小さな擦り傷のようなものであることはわかるが、注意深くみると上の傷と下の傷の大きさが異なり、下の傷の方が細くなっている。また下の傷は傷の縁が鋭利であるのに上の傷は傷の縁がこすれたようになっている。この傷の性状は以上のようであるが、問題はこの傷の成傷器は何か、さらに成傷器はどう作用したか、ということが問題である。

結論から言えば、これはよく切れる刃物によって出来た傷ではない。というのも傷の辺縁に不整な擦過傷があるからだ。とくに下部の傷は鋭利な切れ込みがあり直線ではなくわずかに弧状をなしている。

このような傷を作るのに最も適当な成傷器は爪であり、より具体的には右利きの人が右手の親指と人差し指ないし、中指で、強くつまんだことによってできた傷である。親指の皮膚に食い込むように当てられ、人差し指または中指の方は皮膚を上下方向に擦るように作用させたものと考えられる。

こういった傷を法医学では挫創と称している。これは刃を持たない物体(鈍体)が強く接触してできた傷のことをいう。ここからわかることは加害者、つまり真犯人は右利きで、また爪の長い人であるということである。だとすれば、どちらかといえば女性である可能性が高いことになる。

 

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梶山天 梶山天

独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。

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