☆2022-01-03 浜地さんのブログ 【第242回】 日中国交回復50週年 ~ アルバニアに想う
国際(承前) アルバニアを生きる
【第97回】 アルバニアを生きる 〜 IkonomiとEconomy – 浜地道雄の「異目異耳」
1972年9月29日、日中国交回復。
その一年前1971年10月25日に採択された第26回国際連合総会2758号決議(英語:2758 XXVI. Restoration of the lawful rights of the People’s Republic of China in the United Nations. で中国は国連加盟を果たした。それは「アルバニア決議」と呼ばれる。なぜか?
そこで、拙稿、アルバニア記を再掲する (2005/10/18記)
NHKブックの一行の記述が頭を離れない。「なぜ日本語を話せるアルバニア人がいるのか?」ティラナ放送局を訪ねたところ、「Voice Of Americaにいるはず」との説明を受けた。
VOA! アメリカ政府の主として政治的宣伝活動のために1942年に設立され、未だに世界の億の人間が聴いている。
世の中は本当に便利になった。さっそくインターネットで検索(VOA!)してみる。
そしてそこで「アルバニア語担当者」宛にメールを入れる。何と反応があった。
しばらく交信が続いた後、某日、ワシントンDC出張の際、当人と会うことができた。
写真上のごとく、にこやかで温厚な人物。その名をIkonomiというので、「面白い名前だね。英語のEconomy=経済=のようだ」と指摘したところ、「その通り。これは教会における財務担当を意味する」とのこと。
やはりそうだ。憲法での禁止下にあっても、宗教は生きているのだ。
50歳の同氏は上手な日本語で応える。日本に行ったことがない同氏がどうして日本語ができるのか?
これらの背景について、今回、『JanJan』に寄稿にあたり同氏から寄せられたメモを下記抄訳するが、中国共産党史の一側面の証人であり、興味深い。
写真下はアルバニア労働党青年連盟第5回代表大会(1968年7月)でのエンベル・ホッジャと姚文元(後に4人組のメンバーとして逮捕)。
●Ikonomi氏から寄せられたメモの抄訳
私Ilil Ikonomiは1954年9月1日アルバニアの生まれ。1973年12月に中国に行った。両国の関係は良好だった。アルバニア政府は当時エンジニアリング、コンピュータ、金属工学、そして言葉の習得を目的とする40人の留学生を送り込んだ。
私のグループには4人のスペイン語、4人のドイツ語研修生もいた。なぜならアルバニアはスペイン語圏とドイツ語圏には国交がなかったからである。
私はアルバニアで中国語の教師になるということで、中国語グループに配置された。
しかしながら、1976年から1977年ごろに、アルバニアと中国との関係は悪化。
そこで中国語を学ぶことの意義はないと判断した。
1977年当時、北京大学には多くの日本人留学生の友人があり、彼らに日本語を教えてくれるよう頼んだ。
当時、アルバニアには日本語ができるものはだれもいなかった。
1978年、中国とアルバニアの関係は完全に切れ、孤立化した。アルバニアの独裁者エンベル・ホジャは全ての留学生を中国から引き上げることを決定した。
私はまさにギリギリのタイミング、同年7月に卒業した。
アルバニアに帰った後、政府は中国語によるラジオ番組を開始し、私は翻訳者、アナウンサーとして働いた。
しかし、中国にはその短波放送を聴くものはなく、11年間無意味な仕事をした。
1991年、アルバニアは門戸を世界に開きだした。
私はまだラジオ・ティラナで働いていたが、時折、ニュース番組でアルバニア語で話をした。
ある日、デモ隊が首都ティラナの中心部にある独裁者の銅像を倒し、私はその現場にいた。
私はすぐにラジオ局にもどり、その出来事を放送した。
ラジオでそのニュースを私が一番最初に流した。多くの人々がそれを聴き、他の町の住民も独裁者の銅像を倒しだした。
やがて、私はロイター通信社に雇われ、2年間働いた。
その後、近隣のコソボ(住民の大部分はアルバニア人)における内戦が勃発、アルバニア人の難民があふれかえり、非常に危険な状態となった。
1992年、私は現在の勤務先であるVoice Of Americaに働くことになり、移住。今はアメリカ市民権もとり、4人の子供とワシントンに住んでいる。
Ikonomiというのはギリシャ正教会における位の名前である。祖父が正教会の神父だった。
アルバニアには回教、オーソドックス、カトリックの3つの宗教がある。
ラジオ・ティラナ勤務時代、私には多くの日本人訪問者があった。何人かはアルバニアにとって左翼の友人であり、政府招聘で来たもの。あるものはジャーナリスト、日経、朝日ほか主要新聞。
かれらは私の目を開けてくれ、日本を知る機会を与えてくれた。
1980年代、私の日本語は流暢だったが、今は大分忘れた。
共産党支配当時、アルバニアでは宗教は禁止されていた。1966年、独裁者ホジャは宗教を禁じ、すべての教会、モスクを閉鎖した。それ以前は礼拝も教会にいくことも許されていた。
私の父親はそれ以前は教会に行き、子供も同道し、主として教会の裏庭で遊んでいた。
1966年には教会は焼き払われたり、倉庫やスポーツクラブに改造され、私の父親は家でひっそりと祈るしかなかった。彼は全ての宗教本を隠した
。彼の職業はギリシャで学んだ医者で、宗教はオーソドックス・キリスト教であった。
本原稿は(浜地道雄の「異目異耳」【第242回】日中国交回復50週年 ~ アルバニアに想うからの転載になります。
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国際ビジネスコンサルタント。1965年、慶応義塾大学経済学部卒業。同年、ニチメン(現・双日)入社。石油部員としてテヘラン、リヤド駐在。1988年、帝国データバンクに転職。同社米国社長としてNYCに赴任、2002年ビジネスコンサルタントとして独立。現在、(一財)グローバル人材開発顧問。「月刊グルーバル経営」誌にGlobal Business English Fileを長期連載中。