能登半島地震から半年、インド料理店閉店、救援物資は何処に(151-1)
国際(インドへの一時帰国から日本に戻ってきましたので、タイトルはそのままです)
【モハンティ三智江のインドからの帰国記=2024年7月23日】以前、インド・オディシャ(Odisha)州出身の男性、セク・ラジ(Sekh Raj)さん(イスラム教徒)と日本人の奥さん、セク明子さんがその名もズバリ「オリッサ」(ORISSA、旧州名)というインド料理店を金沢市諸江町で営業している紹介記事を載せたことがあったが(2023年6月6日第128回、https://ginzanews.net/?page_id=63297)、その「オリッサ」が閉店したとの寝耳に水の噂を、知人筋から聞いた。
折り返し電話がかかってきて、当たって欲しくない憂慮どおり、まさにセク明子さんは能登町松波(震源地の珠洲市から10キロ南で震度6強)にある祖父から譲り受けた旧宅が被災した旨漏らした。
元旦を直撃した大地震のせいで、建物はかろうじて残ったものの、全壊ぎりぎりの瀬戸際に追い込まれ、8月中には取り壊すや否やの決断を迫られているという。
「解体費用は県から出るんですが、8月末までに申請しないといけないので。壊すにしても、中の家具とかあるし、どこに保管したらいいのか頭を悩ませています」。
電話ではもどかしいので、詳しくお話を聞かせていただくことにし、6月12日午前に金沢市小立野にある石川県立図書館(旧金沢大学工学部跡)で再会する段取が整った。
石川県立図書館については、2022年7月に開業してしばらく後に紹介記事を書いたことがあったが(2022年11月9日第112回、https://ginzanews.net/?page_id=60644)、あまりにきらびやかすぎて、私が考える静かで落ち着いた図書館のイメージにそぐわず、すっかりご無沙汰していた。
自室から歩いて30分ほどで行けたとの記憶があったので、うろ覚えに道を辿ったが、行き過ぎてしまい、通行人に聞いて今来た道を戻り、途上あった警察署でも訊いて、何とか辿り着けた。
平日のせいか、館内(地上4階地下1階)は意外に人は少ない。
オープンしたばかりの頃は、モダンで洒落た設計が「新観光名所」として話題を呼び、平日にもかかわらず混んでいた記憶があるが、2年経った今は、人はまばらでガランとしていた。
早目に着いた私はロビーをチェックした後、中に入り、吹き抜けの空間(グレートホール)、華麗なデザインの円天井の下に開ける閲覧エリア(30万冊)、フロアごとにジャンルの違う貸出図書を収めた円形棚をざっと見渡し、またロビーに出て、階段状の休憩コーナーでセク明子さんを待った。
ほどなく本人が登場、児童コーナーに案内された。
絵本などの児童書が収納された棚のほか、遊び場コーナー、奥にカウンターと椅子のコーナーもあり、ここなら声を出しての会話も問題なさそうだった。
小立野小学校に通うセク明子さんの男児2人は常日頃、ここを遊び場に立ち寄っていると言う。
全面ガラス窓に面した明るい日差しが緑越しに差し込むカウンターに隣り合わせて座りながら、じっくりお話を伺った。
いの一番に、「オリッサ」を閉店したのはいつかと、そのいきさつを問いただした。
「私たちが組んでいた共同経営者とのもつれから閉業に追い込まれたのが2023年8月、その後インド料理店で働かないかとの話も持ち込まれ、仕事が決まりかけた矢先に、能登地震が発生、能登町松波にあった祖父宅が被災しました。私たち一家は金沢市にいたため、全員無事でしたが、市内でも結構揺れたので、子どもたちが怖がって」
元旦を直撃した大地震(震度7)の震源地が珠洲市(すずし、松波から北10キロ)と知ったセク明子さんは、別宅の被害状況が心配でならなかった。何とか現地に行ける手段はないかと、心当たりを探っていたところ、知人のライブハウスに出入りしていたお客さんが店からの救援物資を届けに被災地までバンを出す情報をキャッチ、同乗させてもらえないかと頼み込んだ。
「ついでに松波の家にも立ち寄ってくれるようお願いして、1月7日に車に乗り込みました。家のことも心配でしたが、それよりも、頼まれて倉庫に保管していたキリコ祭の神輿の破損状況が心配でした」
名物祭が多い能登だが、宇出津(うしつ)のキリコ祭(別称「あばれ祭」、末尾の注1参照)もそのひとつで、古来の伝統行事は観光の目玉として名を馳せている。それにしても、被災後1週間足らずでよくも現地に入れたものだ。
「国道249号線で海側から行ったので、7時間以上と日頃の倍かかりましたけど、何とか辿り着きました。途中警察の検問に引っかかり、自衛隊優先と差し止められそうになりながらもなんとか説明して突破、道路の陥没や瓦礫を避けて、現地に入りました」
旅行者が能登の奥地に行くには交通が不便で、バスの本数も少ないし、自家用車がなければ行きにくいところだ。私も過去3度ほど訪ねたことがあり、近年は珠洲岬(聖域の岬)のパワースポット、青の洞窟(このたびの地震で隆起し水が干上がり、地形変化)に行きたいと計画したこともあったが、同じ石川県内といえども、車を運転しない私には、1泊しないと無理そうで、断念したいきさつがあった。
ちなみに、私は地震発生時インドにいて、ネットでニュースを見て、ショックを受けたものだ。ただでさえ不便なところが、道路の陥没や寸断でボランティアも思うように被災地に入れないとの情報もキャッチしていた。
「松波に着いて、町並みが一変して、近隣の家屋も8割がたが損壊している惨状にショックを受けました。幸いにも、祖父の家は倒壊を免れ、キリコ祭の神輿も無事だったんですが、後の調査で建物は全壊ぎりぎりの損傷を受けていたことがわかりました」
幸いにも、隣の白丸(しろまる)地区(松波地区から4.6キロ)のような津波被害はなかったそうだが、近隣の13歳の少年が柱の下敷きになって亡くなったとの訃報には、心を痛め、ショックを受けたという。震源地の珠洲市の被害は松波以上で、あまりの惨状に絶句、言葉を失ったそうだ。
2011年3月11日の東日本大震災以来、ボランティア活動に従事していたセク明子さんは、NPOの炊き出しに積極的に参加、1月19日には夫のセク・ラジさん、友人同伴で避難所になっていた松波中学校を訪問し、味噌汁とカレースープを80人に提供、2月11日と12日には2日連続で額谷(ぬかたに)触れ合い体育館で豚汁や、クリームシチュー、中華丼の調理を手伝い、空腹に耐えていた180人の避難民に喜ばれた。
「2月の炊き出しは、NPO法人の主催者に提案して、被災したお母さん方も加わっていただき、みんなで協力し合いながらできたことで、横の繋がりも生まれてよかったと思います」
あれから5カ月以上、自らも被災しながらボランティア活動に参加、炊き出しや救援物資を届けに駆けつけたセク明子さんは、体験から現状について語る。
「とにかくボランティアの人数が足りなくて、その分、復興も進まず、ノロノロ。
5月いっぱいでほとんどの支援活動が終わってしまい、まだまだ問題は山積みなのに、ここに来て、被災者たちは忘れ去られた、見捨てられたとの遺恨すら抱く人も多く、それだけ県や市の支援が充分に行き渡ってないということなんです。
寄付の名目で集められた膨大な金額は一体、どこに消えたのか、何に使われたかの明細の公表もないし、実際、たくさんあるはずの救援物資が行き届いていない現状、未だに水や米が足りない状況なんです。食事に困っている人が多かったので、温かい汁物などの炊き出しはひじょうに喜ばれました」
「ヘリコプターでタレント夫人(末尾の注2参照)のいる東京に通う余裕があるなら、なんでもっと被災者支援に力を注いでもらえないのか、私用でヘリを使うくらいなら、もっと被災地に回せばいいのに。ボランティアの数を控えるよう指示していたと聞くし(末尾注3参照)、どうなってるのか、不信感が強まるばかりです」
と歯に衣着せず苦言、被災民に見捨てられたと恨まれる対応のまずさや、現在の放任状態を批判した。
「被災者が支援を求めて県や市の窓口に行っても、たらい回しにされるだけ。どこに苦情を持ち込めばいいのか。能登の過疎地には一人暮らしの高齢者が多く、避難所生活やホテル暮らしで認知症が進んだ人もいる。高齢の父親が金沢市内の娘宅に引き取られても、それまで別居だったのが、やむを得ず同居に追い込まれたことで、親子関係もぎくしゃくしだす。仮設住宅も2年と期限付きだし、行き場がない。病院も被災したし、特に産婦人科は能登では対応できず、出産にあたっては、金沢市まで行かないとならないんです。家族を亡くしたり、家が壊れたりと精神的トラウマを経た被災民の心のケア問題もある。役所に相談しようとしても、対応する相談窓口がないんです」
問題山積みの現状に警鐘を鳴らすセク明子さんは、外国人の被災者もいて、地元民から差別待遇を受けていると、能登の保守性についてもちくり。火事場泥棒というか、混乱時に乗じて窃盗などの悪事を働く輩もおり、治安面も心配という。
メディアを通して、最後に望みたいこと、伝えたいメッセージはないかと、訊いてみた。
「能登は自然豊かな景勝地で、海山の幸も豊富と食もおいしく、輪島塗りなどの伝統工芸も盛ん、キリコ祭など、名物祭も多い。豊かな郷土の財産を風化させることなく、次世代へと繋げていきたい、それが能登に住み、能登を愛する私たちの願いであり、務めと思う。『能登はやさしや土までも』と言われるように(著者注:原典は加賀藩士、浅加久敬=あさか・ひさたか、1657-1727=の日記と言われる)、能登のいいところが子どもたちに受け継がれ、能登は素晴らしいところとの誇りを持って郷土を守り、未来に繋げてもらいたい」
とセク明子さんが能登への思いを熱っぽく語ったところで、ご主人のセク・ラジさん(愛称バブ=Babuちゃん)がひょっこり顔を覗かせた。現在は、近くのスーパーで勤務中とのこと(パート勤務のセク明子さんとは共稼ぎ)。
地震について問うと、やはりショックだったとの返事が流暢な日本語で返ってきた。
「日本のおじいちゃんが遺してくれた家が被災したのが残念、せっかく次世代に引き継いでいける貴重な財産と思ったのに」
「オリッサ」復活に水を向けると、
「有機野菜を使った、無添加のヘルシーなカレー、それにハラール(halal、イスラム上合法の許されたもの)対応の店は金沢には1軒もないし、需要はあるので、折を見て復活したい」
と希望を述べた。ただ、今は被災後の家の処理問題もあるので、それが片付いてからと、横合いからセク明子さんが口添えする。
「子どもたちをインドのおじいちゃん宅に近年中に送ることも考えています。英語を学ばせたいのと、将来ITエンジニアの道を目指すのがいいように思うので、それにはやはりインドかなと」
私は自身の体験から、息子が外見上の違いからいじめを受けたことや、今後AIが席巻し、エンジニア職激減の危惧があることを述べたが、子息をインドに送りたいとの意思は変わらないようだった。
ちなみに、セク・ラジさんの実家は、オディシャ州のガンジャム(Ganjam)地方バレシュワル(Baleswar)にある(私が35年在住したベンガル湾沿いのヒンドゥー教聖地プリーから251キロ)。
「バレシュワルにいじめはないから大丈夫」
と断言するのだが、私は半信半疑。しかし、部外者の私が口を差し挟むことではない。
夫婦の意思で決めればいい。
「1度被災地を見た方がよくはないですか」と、セク明子さんが提案し、私は頷く。それは自身も考えていたことだ。また、被災地に出向く機会があれば、ぜひ同行させていただきたいと、心からお願いした。兼ねてより1度現地を見たいと思っていたし、現実を見なければ、わからないこともある。
「来月、あばれ祭りの頃なんかどうかな。また連絡します」
と、セク明子さんは快く応じてくれた。
そろそろいとまの時間が近づいている。私が腰を上げると同時に、並んで立ち上がった40代の日印カップルに、「オリッサ」の再開を期待しています、ハラール対応店のニーズに応えるべく、復活を目指してがんばってくださいと、惜しみないエールを贈った。
外の舗道で駐車場に向かう2人と別方向に分かれる。真夏に近い日差しが木立ちの隙から強烈に降り注いできた。未だ避難所暮らしの被災民に、冷房設備は充分だろうかと思いを馳せずにはいられなかった。
〇脚注
1.「あばれ祭、または宇出津のキリコ祭」は、石川県鳳珠郡(ほうすぐん)能登町宇出津で、毎年7月第1金曜日および土曜日に行われる。1989年10月23日に、県の無形民俗文化財に指定された。
宇出津の八坂神社の祭礼に、酒垂(さかたる)神社・白山(はくさん)神社の宮司が奉仕する祭礼で、4メートルから6メートルの高さのキリコ、奉燈(ほうとう)と呼ばれる切子灯籠(きりことうろう)を20人以上で担いで町内を練り歩く(40基ほど)。2日目の目玉として、氏子若衆が御輿を壊しながら、目抜き通りを駆け抜け、川に投げ入れ、宮入後火中に放つ、まさに暴れの勇壮さが見もの。熱気と圧倒的迫力の奇祭は、1665(寛文4)年ころに疫病退散または、大漁・豊作を願って始まったとされる。
2.プロレスラー出身の馳浩石川県知事(自民党)の配偶者は、1994年に結婚したタレント、エッセイストの高見恭子(1959年東京都渋谷区生まれ、福井県坂井市三国町出身の詩人・作家の高見順=1907-1965=の非嫡出子)で、東京在住(馳知事の自宅は東京にある)。
3.1月時点で、馳知事は能登の地理的要因が活動を阻み、復興を遅らせているとして、ボランティアを控えるよう呼びかけていた。今、様々な指摘や検証がなされる中で、馳知事が当初ボランティアを控えるよう呼びかけたことは間違っていなかったとし、県は息の長い活動としてのボランティア募集を継続すると述べた。
能登半島の地理的要因と被害の大きさを踏まえ、ボランティアのあり方について教訓になったと振り返り、冬場の天候不順や、インフラがずたずたになった被災地支援について、県としてはひとつのモデルを提示したと思っている、悪条件が重なったところで起きた災害でも、今回以上のボランティアが参加できる体制や計画づくりが必要と強調した。ちなみに社会福祉法人全国社会福祉協議会によると、1月から6月24日までの能登半島地震の延べボランティア活動者数は11万4391人となっているが、登録者数に比べ、実態は少ない。
(「インド発コロナ観戦記」は、92回から「インドからの帰国記」にしています。インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いてきましたが、92回からはインドからの「帰国記」として随時、掲載しています。
モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行している。編集注は筆者と関係ありません)
本記事は「銀座新聞ニュース」掲載されたモハンティ三智江さん記事の転載になります。
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作家・エッセイスト、俳人。1987年インド移住、現地男性と結婚後ホテルオープン、文筆業の傍ら宿経営。著書には「お気をつけてよい旅を!」、「車の荒木鬼」、「インド人にはご用心!」、「涅槃ホテル」等。