日航123便墜落事故:123便が18時40分ごろレーダーから一時的に消えた可能性について
社会・経済今回の記事では、123便が18時40分ごろレーダーから一時的に消えた可能性について解説する。
第五弾目の記事と前回の記事で紹介した通り、事故当時、日航のパイロットだった小林宏之氏は、著書『航空安全とパイロットの危機管理』で以下の通り述べている。
≪12日の夕方はフライトを終えて、NHKの7時のニュースの前の天気予報を観ていた時、「日航機の機影がレーダーから消えた」というテロップが出た。
その瞬間は「多分、積乱雲を北西に大きく迂回して、その陰になって管制レーダーから一時的に消えたのだろう」と思ったが、徐々に信じられない事実が報道されてきた。4重のシステムが装備されているジャンボが墜落することなど誰も想像していなかった。≫
小林氏の証言から、NHKが第一報を流した時刻は18時台だったことがわかる。
また、前回の記事で紹介した通り、1985年8月20日付『電波タイムズ』には、事故当日のフジテレビについて「午後八時五十四分、他社に先がけて第一報のニュースを送り出した」と書かれている。第一報を流した時刻は20時54分となっているが「他社に先がけて第一報のニュースを送り出した」と明記されていることから、フジテレビは、18時台にNHKよりも早く第一報を流したと推測できる。つまり、フジテレビもNHKと同様に、18時台に第一報を流したと考えられる。
しかし、123便が墜落した時刻は18時56分26秒ごろであるから、墜落時のレーダー消失を伝える速報を18時台にテレビで報じるのは不可能である。
では、なぜフジテレビとNHKは18時台に第一報を流せたのか。その理由は、123便が墜落時だけでなく、飛行中にもレーダーから消えたからだと推測できる。
実は、123便が18時40分ごろレーダーから一時的に消えた可能性を示唆する資料があるので、以下に紹介する。
1985年8月13日付『サンパウロ新聞』(ブラジルの日本語新聞)1面には、以下の通り記載されている。
≪【東京十二日=UPI至急報】東京航空事務所(羽田)の発表によると、十二日午後六時四十分 (日本時間)に長野県佐久郡御座山の山中に墜落した日航ジャンボ機の高浜正美機長(四九)は、墜落する一分前に東京羽田空港の管制タワーに対し「機体後部左側のドアの絞め金部分が不調で、問題が起きたため、埼玉県の横田米空軍基地に緊急着陸するため飛行ルートを変更する」と、最後の連絡を行った。この直後に同機の姿はレーダー画面から消えたという。
【長野十二日=UPI】長野県警の発表によると、JALのジャンボ機が墜落した十二日午後六時四十分頃、事故現場一帯の広範囲では強風を伴った雷雨となっていたという。≫
UPI至急報を文字通りに解釈すると、123便は18時40分にレーダー画面から消えたことになる。
また、1985年8月23日付『時事解説』(時事通信発行の雑誌)には以下の通り記載されている。
≪八月十二日夜、七時のNHKテレビのニュースが終わりに近づいたころ、松平アナウンサーが急に飛び込んできたニュースを伝えた。「六時十二分羽田発大阪行きの日航機の機影が六時四十分ごろレーダーから消えた」という趣旨の短いものだった。≫
時事通信も、自社発行の雑誌上に「123便は18時40分ごろレーダーから消えた」という情報を載せていたのだ。
ただし、松平定友氏は、実際には「六時四十分ごろ」とは述べていない。
松平氏の著書『負けずにキザですが』には、事故当日、NHKの19時のニュース内で松平氏が述べた言葉が記載されている。その言葉は以下の通りである。
≪「今、羽田にある運輸省の東京航空管制部から入った連絡では、航空管制部のレーダーから日航ジャンボ機の機影が消えたということです。繰り返します。羽田にある運輸省の東京航空管制部のレーダーから日航ジャンボ機の機影が消えたという情報が、今、入りました」≫
松平氏は「六時四十分ごろ」とは言っていない。それにもかかわらず、時事通信は「123便は18時40分ごろレーダーから消えた」という情報を『時事解説』に載せたのである。
123便は実際に18時40分ごろレーダーから消えたのではないだろうか。18時40分ごろレーダーから一時的に消えたのであれば、その情報を18時台にテレビで伝えるのは可能だろう。
また、レーダーから一時的に消えたのであれば、その間、レーダーに映らなくなるほど低空飛行していた可能性も出てくる。123便は横田基地に緊急着陸するため低空飛行し、レーダーから消えたと考えることもできる。
123便が18時40分ごろレーダーから一時的に消えた可能性を検証する価値は、十分あるのではないだろうか。
付記:「ドアが開いた」という情報について
実は、『東京新聞』と『朝雲』(安保・防衛問題の専門紙)は、「ドアが開いた」という旨の情報を報じている。
●1985年8月13日付『東京新聞』朝刊14面
≪18・31 伊豆大島の西五十四㌔上空で緊急コール。管制センターへ「機体に故障、羽田へ引き返す」
18・41 「右側最後部ドア(R5)に異常あり」との連絡。前後して日航にも「機体に故障あり。羽田へ引き返す」の連絡。
管制センターが「着陸地点は東京、大阪、名古屋のどの空港にするか」と呼びかけるが応答なし
18・42 富士山近くから再び緊急コール。「ドアが開いた」≫
●1985年8月22日付『朝雲』3面
≪18・42 入間基地の救難調整所(RCC)が、富士山の近くで「ドア・オープン」のエマージェンシーコールを傍受。≫
私としては、実際にはドアは開いていなかったと推測しているが、勘違いした乗組員が「ドアが開いた」と地上に連絡した可能性はあると考えている。
また、青山透子氏の著書『JAL裁判』でも取り上げられた1985年8月14日付『いばらき』には以下の通り記載されている。
≪さらに“異常”なのは、緊急発信から八分後に、日航専用の無線では「R5のドアが壊れた。与圧が下がっており緊急降下をする。機長の判断はあとで連絡する」と事態の詳細を日航だけに連絡している点だ。
「事態を軽く見たため」という疑問も出るが、その連絡の直前には管制官に「現在、操縦不能」と訴えている。
この連絡は日航側から直ちに電話で東京管制部に知らされたが、なぜか同管制部のメモには問題のR5が「壊れた」ではなく「開いた」と記録されている点も大きなナゾの一つとなっている。≫
生のボイスレコーダーには「ドアが開いた」という言葉が入っている可能性もあるのではないだろうか。
付記その2:自衛隊群馬地方連絡部について
実は、自衛隊群馬地方連絡部も、事故当日の深夜には「上野村の山中が事故現場ではないか」との情報を得ていた。
1985年8月23日付『防衛日報』(自衛隊広報紙)1面には、以下の通り記載されている。
≪群馬地連は、八月十二日夕、「日航ジャンボ機が、群馬県内に墜落しているかもしれない」という報道に接し、情報の収集に努めた。
同日、深夜にいたり「多野郡上野村の山中が事故現場ではないか」との情報を得て、同村の状況に詳しい高崎募集事務所長坂元茂一陸尉と広報官一人を同村に派遣した。
翌十三日未明、上野村役場に到着した坂元一尉らは、村人から「事故現場の方角で大きな音がし、光が見えた」等の話を聞き、逐次、地連本部を経由して関係方面へ伝達するとともに、自衛隊機により墜落現場が確認された後も、十三日昼頃まで同役場にとどまり、第十二師団司令部と上野村当局の間に立って、連絡調整に当たった。≫
自衛隊群馬地連にも、深夜には正確な情報が入っていたのだ。
現在「朝まで墜落場所はわからなかった」というのが定説となっている。しかし、実際には正確な情報が深夜には出回っていたのである。
事故の真相が一刻も早く明らかになることを願っている。
【参考文献】
• 小幡瞭介. “日航123便墜落事故:NHKの第一 報について”. ISF独立言論フォーラム. 2024年6月21日公開. https://isfweb.org/post-38976/ (参照 2024-08-04)
• 小幡瞭介. “日航123便墜落事故:他社に先がけて第一報を流したのはフジテレビだった”. ISF独立言論フォーラム. 2024年8月1日公開. https://isfweb.org/post-40914/ (参照 2024-08-04)
• 小林宏之. 航空安全とパイロットの危機管理. 交通研究協会. 2016. p.98-99.
• 劇的救出をスクープ 現地↓ヘリ中継で機先. 電波タイムズ. 1985-08-20. p.5.
• 運輸安全委員会. 日本航空123便の御巣鷹山墜落事故に係る航空事故調査報告書についての解説. 2011. p.27-32. https://www.mlit.go.jp/jtsb/kaisetsu/nikkou123-kaisetsu.pdf (参照 2024-08-04)
• 後部ドアが不調 機長が最後の連絡「横田基地に緊急着陸する」. サンパウロ新聞. 1985-08-13. p.1.
• 時事通信社. 新聞界の話題 日航機墜落事故報道の投げかける問題 新聞はいかにしてテレビを超えるか. 時事解説. 1985. 昭和60年8月23日(金) 第9368号. p.20-23.
• 松平定友. 負けずにキザですが. 講談社. 1985. p.19.
• 日航機墜落ドキュメント. 東京新聞. 1985-08-13. 朝刊. p.14.
• ドキュメント. 朝雲. 1985-08-22. p.3.
• 朝雲新聞社. 公式サイトトップページ. 朝雲新聞社 ホームページ. https://www.asagumo-news.com/ (参照 2024-08-04)
• 青山透子. JAL裁判. 河出書房新社. 2022. p.290-295.
• 管制官に事前説明なし 機長ナゾの対応. いばらき. 1985-08-14. p.1.
• 群馬地連も初動 日航機事故 協力団体が隊員を慰問. 防衛日報. 1985-08-23. p.1.
• 防衛日報社. Xプロフィールページ. 防衛日報社@自衛隊広報紙. https://x.com/dailydefense123 (参照 2024-08-04)
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