【連載】知られざる地政学(塩原俊彦)

「知られざる地政学」連載(54):地政学の基本中の基本「安全保障」について講義する(下)

塩原俊彦

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気遣いの再帰的繰り返し

ここで重要なのは、「気遣いのない状態は、気遣いなしには到達できないことに気づかなければならない」ということである。これは自由が不自由を意識できるところでしか意識化できないのとよく似ている。

気遣いのない状態は気遣いという概念なしには語れないのである。気遣いと安全の関係に着目すると、「気遣いがあるから危険が立ち現れるのであり、また、危険が見出されるから、それへの気遣いが求められるのである」ということになる。これが安全保障問題を考察する際、もっとも重要な視角である。

安全保障のための諸装置は、安全を脅かすある危険に対して、それを除去・否定する気遣いに傾斜することで、別の危険に対する気遣いへの配慮を忘れ、結局、その諸装置の安全が脅かされかねないのだ。これを避けるには、気遣いを再帰的に繰り返し継続することが必要になる。

実は、「自己への配慮」を意味する“epimeleia heautou”(ギリシャ語)や“cura sui”(ラテン語)は、多くの哲学教義のなかに繰り返し見出される命令である。「自己への配慮」、「自己陶冶」といった課題こそ、人間が共同体で生きるための生活術の核心をなしていたのである。その裏返しとしての「他者への配慮」こそ、安全保障に直結した問題であったと言えるだろう(この反転は、拙著『復讐としてのウクライナ戦争』において、利益しか考察対象にしていない「正の互酬性」から、損失を分析対象とする「負の互酬性」への反転に通じている。つまり、私の思想上の「視角」のもち方にも重大な影響を与えている)。

ここでの指摘こそ、安全保障問題を考察する際の出発点なのである。

論点3:日本政府による「セキュリティ」分野の拡大

ここまでの話は、「セキュリティ」という西洋の概念をめぐるものであった。「セキュリティ」を「安全保障」と訳すとき、その「安全」とは先に紹介したように『平家物語』以降に日本で育った概念ということになる。

第三の論点として、この日本独自の概念である「安全保障」と、西洋の「セキュリティ」という概念が日本政府を悩ませてきたという話をしたい。
日本人の多くはいま、国の安全保障を理由にやたらに法律がつくられたり、歳出が膨らんだりしているのではないかと感じているのではないか。どうやら、これは世界的な傾向であり、際限のない安全保障のための歳出に対する疑問がくすぶりつつある。

安全保障名目で、いったいどこまで国民の税金を使いつづけなければならないのかというモヤモヤが湧いている。逆に、官僚は安全保障を理由にして、予算を過度に膨らませ、貴重な税金を無駄遣いしているのではないか、という疑いが濃厚だ。

だからこそ、今年8月、『フォーリン・アフェアーズ』は「すべてが国家安全保障になった経緯 そして、国家安全保障がすべてになった経緯」という論文を公表した。著者は、タフツ大学フレッチャー法律外交大学院の国際政治学のダニエル・W・ドレズナー特別教授である。なお、このタイトルは、“How Everything Became National Security And National Security Became Everything”と英語表記されており、ここでは、“security”を「安全保障」と翻訳している。

ペンタゴン・ビル:バージニア州アーリントン (Carlos Barria / Reuters)
(出所)こちら

国家安全保障の恐るべき拡大

紹介した論文は、2001年の9.11同時多発テロ以降、「国家安全保障の対象は谷底まで広がった」と書いている。気候変動からランサムウェア(身代金要求)型不正プログラム、個人用保護具、重要鉱物、人工知能に至るまで、いまやすべてが国家安全保障の対象となっているというのだ。こうして、「政治的立場を問わず、政策立案者たちは、より多くの注目とリソースを得ることを期待して、自らの問題を国家安全保障上の優先事項として、政権や連邦議会議員、その他の米国の外交政策の立案者に位置づけてもらいたいと考える」ことになる。これは、アメリカばかりでなく、ヨーロッパでも日本でも起きている傾向だろう。

重要なのは、「すべてが国家安全保障として定義されてしまうと、国家安全保障の優先事項は何もなくなる」という指摘である。ドレズナーは、国家安全保障の問題であるもの、そうでないものについて、政策立案者間でより熟考された議論が行われなければ、歳出といったリソースが分散しすぎてしまうリスクがある、と懸念しているのだ。だからこそ、自民党総裁候補者は「国家安全保障」という概念について、しっかりした見解をもつ必要がある。

国家安全保障上の懸念

アメリカの場合、国家安全保障上の懸念として、ソ連が筆頭である冷戦時代以降、テロ、核拡散、ならず者国家が中心的な対象となった。その後、やがて気候変動やサイバーセキュリティといった懸念も俎上にのぼるようになる。これに、人工知能(AI)や量子コンピューティング、バイオサイエンスといった最先端技術が話題となり、気候変動対策としての化石燃料からの移行がバッテリーやその他のクリーンエネルギー用途に必要なレアアースに対する世界的な需要が尽きることがないための「重要な鉱物」のリストの拡大をもたらしている。

これらは、各国の国家安全保障上の懸念だが、アメリカ国内では、麻薬、犯罪組織、移民の流入が新たな懸念材料となり、それも世界各国に広がっている。
留意すべきことは、いったん国家安全保障上の脅威が確立されると、政権がそれを優先事項から外すことはほとんどない点である(例外はソ連崩壊で、1991年以降しばらくの間、ロシアが最重要事項とはみなされなくなったことである)。そう、国家安全保障上の懸念は際限なく拡大しつづける運命にあるかのようなのだ。だからこそ、安全保障概念の整理が必要になっていると言えるだろう。

ドレズナーは論文のなかで、「古い国家安全保障上の優先事項がほとんど廃止されないもう一つの理由は、官僚政治である」と指摘している。問題が国家安全保障に関する事項として戦略文書に分類されている限り、政府機関は継続的な資金提供を期待できるから、官僚は既存の優先事項を格下げする試みに対して抵抗する。日本のような「官僚国家」では、この指摘がそのまま当てはまるだろう。だからこそ、自民党総裁候補は、国家安全保障上の優先事項を大胆に見直す勇気をもたなければならない、と私は思う。

ドレズナーの主張

国家安全保障上の課題を簡単に格下げしたり排除したりできないのであれば、少なくとも、より適切に分類すべきである、というのがドレズナーの主張である。たとえば、国家安全保障上の問題を時間軸と緊急性の度合いで分類することもできる。テロやロシアの再膨張主義といった懸念は、差し迫ったリスクだが、AIや中国の台頭は、中期的な懸念に分類できる。気候変動は、目下の課題だが、長期的にもっとも大きな影響をもたらす。

ドレズナーの提言にしたがえば、国家安全保障上の懸念について、時間軸と緊急性の観点から的確に分類し、優先順位を定めるための方針を明確に打ち出すべきなのではないか。漫然と国家安全保障の重要性を語るだけでは、指導者としては失格なのではないか。こうした主張が可能となる。

日本のいま:「セキュリティ」対象の拡大

安倍晋三政権は2014年7月1日の閣議において、「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」を閣議決定した。そこでは、国家安全保障について、「政府の最も重要な責務は、我が国の平和と安全を維持し、その存立を全うするとともに、国民の命を守ることである」と記されている。そのうえで、「武力攻撃に至らない侵害への対処」が掲げられ、国家安全保障の対象範囲の拡大がはかられている。

この閣議決定を契機に、日本は「安全保障」ではなく、「セキュリティ」という言葉を用いて国家安全保障に諸政策を結びつけるようになっている。

“security”をどう翻訳するか

説明しよう。日本政府は長年にわたって翻訳で国民をミスリードしつづけている。“nuclear power plants”はどう考えても「核発電所」と翻訳すべきだが、日本政府や主要マスメディアは「原子力発電所」と訳しつづけている。 “cryptocurrency”は「暗号通貨」と翻訳するのが筋なのに、「暗号資産」と訳すという約束事になっている。最近の誤訳としては、“disinformation”を「偽情報」と訳して、国民を騙そうとしている(「現代ビジネス」のサイトに公開した「「鉄腕アトム」も誤訳された…少し小難しい「危険な誤訳」という話をしよう」という記事をぜひ読んでほしい)。

同じように、日本政府は“security”という言葉についても、翻訳による誤魔化しを行っている。実は、日本政府はこれを「安全保障」と訳したり、「セキュリティ」と翻訳したりしているのだ。ここでは、その経緯について説明したい。

政府が“security”の訳語として公然と「セキュリティ」を用いるようになったのは、2000年以降のことである。2000年2月、内閣官房に「情報セキュリティ対策推進室」が設置され、2005年4月には、同推進室を強化・発展させた「情報セキュリティセンター」(NISC)が内閣官房に設置される。このNISCこそ、 “National Information Security Center”と英語表記された機関の登場だった(同機関のサイト情報を参照)。“security”という単語を「安全保障」と翻訳せずに「セキュリティ」としたのである。

「セキュリティ」対象の拡大

近年、ほかにも「セキュリティ」が用いられるようになる。まさに、日本もまた国家安全保障上の懸念対象を拡大することで、「すべてが国家安全保障」という方向に向かっているようにみえるのだ。しかも、英語では同じ“security”なのに、「セキュリティ」と翻訳される分野を拡大しようとしている。
やや複雑怪奇で奇妙な話をしたい。煩雑だが、日本政府の「手口」を知るうえでは興味深いので、お付き合い願いたい。

内閣官房のサイトにある「国家安全保障戦略について」をみると、「政府は、令和4年12月16日、国家安全保障会議及び閣議において国家安全保障に関する基本方針である「国家安全保障戦略」等を決定いたしました」と書かれている。同戦略の英語訳として“National Security Strategy”が紹介されている。つまり、「security=安全保障」という理解が示されていることになる。

ところが、同じ内閣官房のサイトにある、2013年12月制定の「特定秘密の保護に関する法律」(特定秘密保護法)の英語版(仮訳)をみると、日本語にない“security”という言葉が何カ所も補われている。たとえば、「第五章 適正評価」は、“Security Clearance Assessment”と翻訳されている。この法律はアメリカの制度を日本に輸入するためのものであることを考慮すると、アメリカで“Security Clearance Assessment”と呼ばれているものを日本語としては、「適性評価」なる言葉で置き換えようとしていることになる。つまり、「security=?(無視する)」という、不可思議な姿勢に日本政府は変化したのである。

「セキュリティ」の登場

この奇妙さは、2023 年 2 月 21 日に内閣府に設置された「経済安全保障分野におけるセキュリティ・クリアランス制度等 に関する有識者会議」という名前の機関に対応している。どうやら“security”を、必要に応じて「セキュリティ」とカタカナ表記して誤魔化す分野を、2000年からはじまった通信分野のみにとどめるのではなく、拡大する方針が決まったらしい。

別言すると、この段階で、日本政府は“security”という言葉を、「安全保障」と「セキュリティ」をより明確に区別するようになったとみなすことができる。

それでは、どう使い分けているのか。そのヒントは、先に紹介した有識者会議が「最終とりまとめ」で求めた経済安全保障分野におけるセキュリティ・クリアランス制度を導入するための「重要経済安保情報の保護及び活用に関する法律」(重要経済安保情報保護活用法)にある。法案は、国会の審議を経て 2024 年 5 月 10 日に成立した。

2014年施行の特定秘密保護法では、①防衛、②外交、③特定有害活動の防止、④テロリズムの防止の4分野の情報に関するセキュリティ・クリアランス制度が規されていた。それに、必ずしも保護対象となっていなかった経済安全保障に関する情報が重要経済安保情報保護活用法によって追加されたことになる。

以上から、日本政府は“security”を「安全保障」と「セキュリティ」に区別しつつ、後者の適用範囲が拡大されつづけていることがわかる。すなわち、「セキュリティ」は通信分野だけに使用していたのに、いつの間にか、防衛、外交、テロ、経済などにまでその使用範囲が広げられてしまったことになる。

こう考えると、日本は他の多くの国々と同様に、セキュリティなる言葉をつかって、国家安全保障上の懸念を「すべて」に広げつつある途上になると言える。西側諸国では、そもそもの“security”という概念を「悪用」して、「気遣いのない状態」としての「セキュリティ」の守備範囲を際限なく広げつつある。日本も、せっかく「安全」という概念があるにもかかわらず、「セキュリティ」という“security”をカタカナにしただけの概念を拡大することで、西側諸国に足並みをそろえようとしている。

「安全」を保障することの意味

以上の講義から理解してほしいのは、「安全保障」という概念を西洋の概念からの「借り物」として受け入れるのではなく、『平家物語』以降、日本で培ってきた「安全」という概念でもう一度定義し直す勇気の必要性だ。

具体的には、「気遣いのない状態」とか「リスクのない状況」といった西洋式の「ある概念の否定形」として消極的に考えるのではなく、「平穏無事なこと」といった積極的な概念として、「安全」を定義することが重要なのだ(なお、「リスク」は海事用語であり、岩礁にぶつかる危険といった特定対象を区別して、それに対する危険というものを言語化した概念で、地中海を中心に、こうした視線が近世以降に広まったのである)。

平穏無事な状態を維持することが安全保障であるとみなせば、いまの日本の安全保障の対象の優先度を見直しやすくなるのではないか。

理解してほしいのは、深く思考すれば、何となく受け入れている安全保障概念を突き崩し、時代に合わせた改良が可能になるということだ。その意味で、レベルの高い地政学教育が必要だと、私は考えている。だが、残念ながら、日本の研究者には不勉強な者が多すぎるだけでなく、彼らは自らの「無知」に気づいていない。そう、絶望的な状況にある。

自らが愚かであることを知らず、勉強もせず、それでいて、その生半可な知識をテレビや新聞で広げることで多くの人々を「だましている」輩が多すぎる。私は、無知を知ったうえで、毎日勉強し、少しでも自分および他者を「だまさない」ように生きようとひたすら努力していると書いておこう。「だましているかもしれない」ので、読者はこの記事を疑うことも忘れないでほしい。そのために、たくさんの情報源にURLをつけているのだから。

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塩原俊彦 塩原俊彦

1956年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。学術博士。評論家。 著書:(2024年6月に社会評論社から『帝国主義アメリカの野望:リベラルデモクラシーの仮面を剥ぐ』を刊行) 【ウクライナ】 『ウクライナ戦争をどうみるか』(花伝社、2023)、『復讐としてのウクライナ戦争』(社会評論社、2022)『ウクライナ3.0』(同、2022)、『ウクライナ2.0』(同、2015)、『ウクライナ・ゲート』(同、2014) 【ロシア】 『プーチン3.0』(社会評論社、2022)、『プーチン露大統領とその仲間たち』(同、2016)、『プーチン2.0』(東洋書店、2012)、『「軍事大国」ロシアの虚実』(岩波書店、2009)、『ネオ KGB 帝国:ロシアの闇に迫る』(東洋書店、2008)、『ロシア経済の真実』(東洋経済新報社、2005)、『現代ロシアの経済構造』(慶應義塾大学出版会、2004)、『ロシアの軍需産業』(岩波新書、2003)などがある。 【エネルギー】 『核なき世界論』(東洋書店、2010)、『パイプラインの政治経済学』(法政大学出版局、2007)などがある。 【権力】 『なぜ「官僚」は腐敗するのか』(潮出版社、2018)、『官僚の世界史:腐敗の構造』(社会評論社、2016)、『民意と政治の断絶はなぜ起きた:官僚支配の民主主義』(ポプラ社、2016)、Anti-Corruption Policies(Maruzen Planet、2013)などがある。 【サイバー空間】 『サイバー空間における覇権争奪:個人・国家・産業・法規制のゆくえ』(社会評論社、2019)がある。 【地政学】 『知られざる地政学』〈上下巻〉(社会評論社、2023)がある。

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