【櫻井ジャーナル】2024.09.09 櫻井春彦 :イスラエルによるパレスチナ人虐殺と小型中性子爆弾
国際政治イスラエルの大量虐殺
イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相はパレスチナからパレスチナ人を一掃しようとしている。
イスラエル軍がガザ住民を大量虐殺する中、ジョー・バイデン政権は「停戦案」を提示したというが、これは11月の大統領選挙をにらんだパフォーマンスにすぎないだろう。
ヨルダン川西岸でも虐殺が始まった。
ネタニヤフがパレスチナ人との停戦や和平を真剣に考えているとは思えない。
虐殺を継続させるための時間稼ぎだと推測する人もいる。
イスラエルを支援しているアメリカをはじめとする欧米諸国もそうしたことを熟知しているはずだ。
昨年10月7日にハマスがイスラエルへ攻め込んだ後、「われわれの聖書(キリスト教における旧約聖書)」を持ち出し、「アマレク人があなたたちにしたことを思い出しなさい」(申命記25章17節から19節)という部分を引用しているのだが、そこには神の命令として、「アマレク人」を家畜と一緒に殺した後、「イスラエルの民」は天の下からアマレクの記憶を消し去れと書かれている。
アマレク人は歴史の上で存在が確認されていないが、この民族をパレスチナ人と重ねていることは確かだろう。
また、サムエル記上15章3節には「アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」ということが書かれている。
これこそがガザでイスラエルによって行われていることだ。
ネタニヤフの思考の中にはパレスチナ国家どころかパレスチナ人も存在しないだろう。
イスラエル政府が行おうとしていることは併合でなく民族浄化だ。
ピューリタンとシオニズム
パレスチナに「ユダヤ人の国」を作ろうというシオニズムがイギリスに出現したのは16世紀のことである。
スチュワート朝のスコットランド王ジェームズ6世(イングランド王ジェームズ1世)は自分を「イスラエルの王」だと信じていたという。
その息子であるチャールズ1世はピューリタン革命で処刑された。
イギリスにおける宗教改革で中心的な役割を果たしたのはカルバン派に属すピューリタン。
その革命で重要な役割を果たした人物がオリヴァー・クロムウェル。
彼の私設秘書だったジョン・サドラーもジェームズ6世と同じように自分をイスラエルの王と考えていたようだ。
実権を握ったクロムウェルは革命で仲間だったはずの水平派を弾圧、さらにアイルランドへ軍事侵攻して住民を虐殺する。
侵攻前の1641年には147万人だった人口は侵攻後の52年に62万人へ減少。50万人以上が殺され、残りは「年季奉公」や「召使い」、事実上の奴隷としてアメリカなどに売られたと言われている。
クロムウェルを支援していた富裕層の中にポルトガル出身のフェルナンデス・カルバジャルというコンベルソ(ユダヤ教からキリスト教へ改宗した人びと)が含まれていた。
イングランドでは13世紀からユダヤ教徒が追放されていたが、クロムウェルとカルバジャルの関係も一因になり、再び移民を認めようという動きが現れる。
その中心的な存在がポルトガル出身でオランダのラビ(ユダヤ教の聖職者)だったメナセ・ベン・イスラエルだ。(Laurent Guyenot, “From Yahweh To Zion,” Sifting and Winnowing, 2018)
しかし、このピューリタンの体制は長く続かなかった。
クロムウェルは1658年9月に死亡、その2年後に王政復古、一部のピューリタンはアメリアへ亡命している。
ピューリタンは1620年にメイフラワー号でアメリカへ渡り、ピルグリム(巡礼者)・ファーザーズと呼ばれるようになるが、北アメリカでイギリスが植民した地域でピューリタンは「新イスラエル」を建設していると信じていたという。
その過程で先住民であるアメリカ・インディアンは虐殺された。
アメリカでは先住民が「アマレク人」だった。
このように、シオニズムはイギリスから始まり、アメリカへ広がっていく。
ユダヤ教シオニストが現れるのは19世紀になってからだ。
1896年にセオドール・ヘルツルが『ユダヤ人国家』という本を出版している。
バルフォア宣言
イギリス政府は1838年、エルサレムに領事館を建設。
その翌年にはスコットランド教会がパレスチナにおけるユダヤ教徒の状況を調査し、イギリスの首相を務めていたベンジャミン・ディズレーリは1875年にスエズ運河運河を買収した。
その際に資金を提供したのは友人のライオネル・ド・ロスチャイルドだ。(Laurent Guyenot, “From Yahweh To Zion,” Sifting and Winnowing, 2018)
パレスチナに「ユダヤ人の国」を建設する第一歩と言われる書簡をアーサー・バルフォアがウォルター・ロスチャイルドへ出したのは1917年11月のこと。これがいわゆる「バルフォア宣言」だ。
イギリスは1920年から48年の間パレスチナを委任統治、ユダヤ人の入植を進めたが、1920年代に入るとパレスチナのアラブ系住民は入植の動きに対する反発を強める。
そうした動きを抑え込むため、デイビッド・ロイド・ジョージ政権で植民地大臣に就任したウィンストン・チャーチルはパレスチナへ送り込む警官隊の創設するという案に賛成、アイルランドの独立戦争で投入された「ブラック・アンド・タンズ」のメンバーを採用した。
この組織はIRA(アイルランド共和国軍)を制圧するために設立されたのだが、殺人、放火、略奪など残虐さで有名だった。
そして1936年から39年にかけてパレスチナ人は蜂起。アラブ大反乱だ。
1938年以降、イギリス政府は10万人以上の軍隊をパレスチナに派遣する一方、植民地のインドで警察組織を率いていたチャールズ・テガートをパレスチナへ派遣、収容所を建設する一方、残忍な取り調べ方法を訓練した。
イギリス軍はパトロールの際、民間のパレスチナ人を強制的に同行させていたともいう。
反乱が終わるまでにアラブ系住民のうち成人男性の10パーセントがイギリス軍によって殺害、負傷、投獄、または追放された。植民地長官だったマルコム・マクドナルドは1939年5月、パレスチナには13の収容所があり、4816人が収容されていると議会で語っている。
その結果、パレスチナ社会は荒廃した。
イスラエル建国
シオニストはパレスチナからアラブ人を追い出すため、1948年4月4日に「ダーレット作戦」を始めるが、これは1936年から39年にかけて行われたパレスチナ人殲滅作戦の詰めだったという見方もある。
1948年当時、イスラエルの「建国」を宣言したシオニストの武装組織に対して無防備な状態となっていた。
4月6日にはハガナ(後にイスラエル軍の母体になった)の副官、イェシュルン・シフがエルサレムでイルグン(シオニストのテロ組織)のモルデチャイ・ラーナンとスターン・ギャング(同)のヨシュア・ゼイトラーに会い、ハガナのカステル攻撃に協力できるかと打診。
イルグンとスターン・ギャングは協力することになる。
まず、イルグンとスターン・ギャングはデイル・ヤシンという村を襲うが、この村が選ばれた理由はエルサレムに近く、攻撃しやすかったからだという。
村の住民は石切で生活し、男が仕事で村にいない時を狙って攻撃するプラン。早朝ということで、残された女性や子どもは眠っていた。
国連総会で1948年12月に採択された決議194号はシオニストに追い出されたパレスチナ人が故郷に帰還することを認めているが、実現していない。
皆殺しの最終兵器
パレスチナ人を皆殺しにしようとしていることをネタニヤフ政権は隠していない。
西側の有力メディアはその宣言を聞かなかったことにしているだけだ。
アメリカやイスラエルは小型核兵器を使っているという噂が以前から流れている。
そして現在、アメリカ平和情報評議会(APIC)とイギリスのグリーン・オーディットは、イスラエルがガザと南レバノンで小型核兵器を使用している可能性について調査しているという。
クリストファー・バスビー教授によると、ガザやレバノン南部の爆撃地域を走行した救急車のエンジンエアフィルター、爆撃地域に住んでいる人の髪の毛、爆撃痕跡のガイガーカウンターの測定値と土壌サンプルを提出するよう求めているようだ。
この調査への協力をレバノン赤十字社は拒否しているともいう。
イスラエル軍は2006年7月から9月にかけてレバノンへ軍事侵攻してヒズボラに敗北した。
その際にイスラエルが誇るメルカバ4戦車も破壊されている。
その侵攻作戦の直後にバスビー教授はレバノンへ入り、残されたクレーターを調査したところ、濃縮ウラニウムが見つかったという。レバノンやガザを走っていた自動車のフィルターからもそうした物質が発見されたという。
同教授はイラクの2011年10月にイラクのファルージャでも調査、そこで濃縮ウラニウムが人の髪の毛や土の中から検出されたと語っている。
バスビーによると、彼が濃縮ウラニウムに関する調査を始めた切っ掛けは、キアムにあるイスラエルの爆弾の穴が放射能に汚染されているという2006年の記事。レバノンの新聞が掲載したという。
アリ・コベイシ博士がガイガーカウンターをクレーターに持ち込んでクレーター内の放射線レベルを調べたところ、近隣の20倍であることを発見したとされている。
こうした発見に基づく記事をロバート フィスクが2006年10月、イギリスのインディペンデント紙に書いている。
ファルージャに放射性物質の汚染があることは知られていたが、劣化ウラン弾によるものだと理解されていた。その理解が濃縮ウランの発見で揺らぐことになる。
バスビーはイタリアの核物理学者、エミリオ・デル・グイディーチェから濃縮ウランがなぜ存在しているのかという理由を2006年に聞いたという。
グイディーチェは1970年代初頭の超弦理論のパイオニアで、後にイタリアのINFN(国立原子核物理学研究所)でジュリアーノ・プレパラータと共同研究している。
そのグイディーチェによると、ウランに重水素を溶かした野球ボールほどの弾頭を固体に向けて発射すると水素は常温核融合を起こしてヘリウムになり、強力なガンマ線を放出するという。
高温の放射線フラッシュと中性子で人を殺す新しいタイプの核兵器で、セシウム137のような核分裂生成物は出さないという話だった。
この兵器をアメリカはファルージャやコソボで使用したとバスビーは説明している。
ドミニク作戦をアメリカは1962年10月、太平洋で一連の核兵器実験を実施している。
ドミニク作戦だ。その中にジョンストン島で行われたホーサトニックと名付けられた実験がある。
ウィキペディア(英文)でさえ、アメリカ最後の核兵器空中投下で、99.9%クリーンであると報告されたとされている。
バスビーの解説によると、フラッシュを直接浴びた場合、体の一部、腕、脚、遮蔽物のない場所が黒焦げになり、エアロゾル化したウランの粉塵は吸い込まれて肺を破壊し、リンパ系に移行してリンパ腫や白血病を引き起こす。ウランの粒子が臓器に蓄積すれば癌の原因になる。
ウラン粒子が飲み込まれると、大腸で固定化され、そこでがんを引き起こす可能性がある。
また遺伝的な影響、乳児死亡率の上昇、先天性奇形、流産、出生時の性比の乱れ、不妊なども指摘されている。
イスラエルは世界有数の核兵器保有国である。
その実態を初めて具体的に告発者したのはモロッコ出身のモルデカイ・バヌヌ。
1977年8月から約8年間、技術者としてディモナの核施設で働いていた。
彼の証言は1986年10月にサンデー・タイムズ紙が掲載した記事に書かれている。
それによると、その当時、イスラエルが保有していた核弾頭の数は150から200発。
水素爆弾をすでに保有し、中性子爆弾の製造も始めていたという。
中性子爆弾は実戦で使う準備ができていたとしている。
後にカーターはイスラエルが保有する核兵器の数を150発だとしている。
また、イスラエルの軍情報機関ERD(対外関係局)に勤務、イツァク・シャミール首相の特別情報顧問を務めた経歴を持つアリ・ベン-メナシェによると、1981年時点でイスラエルがサイロの中に保有していた原爆の数は300発以上。
水爆の実験にも成功していたという。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option”, Faber and Faber, 1991)
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「イスラエルによるパレスチナ人虐殺と小型中性子爆弾」
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