第23回 過酷な取り調べの内容が詳らかに・・
メディア批評&事件検証ISF独立言論フォーラム副編集長の梶山天の手元に、ある手書きの文書がある。千葉刑務所にいる勝又拓哉受刑者(41)が2014年1月29日に栃木県警に商標法違反の現行犯で逮捕され、同年の9月末に一木明弁護士らに送った文書だ。
A4判の32枚の文書の内容は、どのような取り調べで被害女児の殺害の調書ができたのか。克明に記されていた。一審で、弁護団が取り調べの実態を把握するために、勝又受刑者が自白した時の取り調べ官たちの言動や反応、そして勝又受刑者の応答内容を失念しないうちに記録しておくよう指示していたのだ。
文書の内容を追いかけると、大半は、平仮名で書かれ、誤字や言葉に不慣れなことが一目瞭然だ。まず思ったのは、取調官が発する質問内容がほんとに理解できていたのであろうかということだ。
勝又受刑者は、台湾出身で小学6年生の時に母と一緒に日本に来た。わずかだが、今市事件の被害女児が通った小学校でも学んだ。母親によると、人と話をするのに苦労をしたという。今市事件での取調室では検察官や警察官に厳しい言葉で追求されたり、暴力を受けてけがも負ったりした。そんなことを考えると、心が痛む。
この文書を読んでいくと、警察、検察の取調べが、まさに足利事件の被害者である菅家利和さんに対する取調べ内容と酷似していることに気づかされる。私は、朝日新聞東京本社特別報道部部長代理時代にこの足利事件を追いかけた。
日本テレビなどは真犯人追求に力を入れる中、当時の私は真犯人にはそれといって興味はなく、DNA型鑑定で真犯人を割り出した孤高の法医学者である筑波大の本田克也元教授に関心を持ち、証拠と取り調べの実態になぜかひかれたのである。2018年3月に出版社の金曜日から「孤高の法医学者が暴いた足利事件の真実」を出版した。その著書の中でも紹介しているのだが、取調官がああだこうだと質問をして殺害を飴と鞭を使い分けて供述させた内容が酷似しているのだ。
それでは、その主な内容を紹介する(字の間違いは直している)
文章は「はじまり」と題してスタートする。14年2月18日は、勝又受刑者の商標法違反罪での第1回目の起訴当日のことだった。午前10時半ごろ、宇都宮地検での大友亮介検事の調べの時だ。
「最初は商標法違反の取り調べで、『最後の確認だけで終わるから』と言われ、確認を終えた後、いきなり『君、人を殺したしたことあるよね』と言われた。私は頭?マークでいいえと答えると、『君しか考えられない事件があるのよね』と続けて聞かれた。私は再び、いいえ、と答えると、大友検事は机の上にある書類を持ち上げて机に叩きつけて、『だからキミにしか考えられないと言ってるだろ』と言ってきて、私は怖さで委縮して黙り始めました。
そうしたら、『ほら心当たりがあるだろう』と言ってきて、私はいいえと言ったら、怒られ、言わないと『心当たりがある』と言われ、どうしようもない状態になりました。そのうちずーと怒鳴られ続けて頭が真っ白になりました。そこからの記憶が断片的になり始めました」。
「記憶として『凶器は帰り道に捨てたのか??』と聞かれ、私は頭を縦に振ったような感じになった。『服とかどうした??』。私は無反応。そうしたら大友検事が『燃えるゴミとして捨てたのか??』と聞いてきて、私は再び頭を縦に振ったような感じ。だいたいこんな感じで話を作られて、そのうち後ろの看守が私の肩を揺さぶり、そして調書にサインをと言われた。
私はわけがわからずで、そうしたら検事が『早くサインしろ。それで午前中は終わりだ』と言って、私はわけがわからないまま後ろは看守のプレッシャーがあり、前には大友検事の『早くしろ』とせかされて、わけかわからないまま調書にサインをさせられました」。
私はこの大友検事の取り調べに対して、勝又受刑者が初めて自供を認めたとする取り調べの際に同席し、勝又受刑者の背後から肩を揺さぶり、調書にサインを促したとされる看守が本当にそうした行為をしているのなら違法だと思う。
その数日後に勝又受刑者は、母あてに手紙を書いた。取り調べがきつくてうつろになり、やってもいない殺人を認めてしまい家族に迷惑がかかることを詫びることと、病気がちな母を心配する内容の手紙を接見に来る姉に託して渡してもらおうとしたためたものだ。
だが、その手紙を看守に渡したら、翌日には所々黒色で塗りつぶされ「詳しくは書いてはいけない」として書き直しを命じられた。戸惑いを隠せない勝又受刑者に「手伝ってあげる」などと言い、言われたまま書き直しをすると、意味が分からなくなったなどと証言した。
一審でこの手紙は、文中の「事件」が殺人事件を指すのか、商標法違反なのか、分からないとして証拠価値は重要視されなかった。ところが控訴審では第1級の証拠となってしまう。
私は勝又受刑者に母親を通じて上記の看守が16年3月3日に一審の法廷で証言をした警務課留置管理係長の伊藤和彦氏であることを確認した。
続いての文書は「殺害の強要」となっていた。
「(翌日の)2月19日の警察署で松沼史剛刑事の取り調べで私は、否認をしていました。そしたら夜になって、否認し続ける私に松沼刑事は『今日は認めるまで寝かせないぞ』と言いました。そしたら本当に11時過ぎても取り調べが終わらなくて、根負けして私は吉田有希ちゃんを殺しましたと言ったらそこでやっと取り調べが終わった。
翌20日は、私はまた否認を始めたら、今度は午後になって『吉田有希ちゃんを殺してごめんなさいを50回言うまで晩飯抜きだ』と言われ、私は昨日のこともあって本当に言わないと晩飯を食わせてもらえないと思いました。そこで、仕方なく吉田有希ちゃん殺してごめんなさいと言いました。それが30回近くになって私は全身がけいれんを起こし、そこで一旦休息をするということに。
そして1時間後、取調室に戻されて『残りの二十数回を言い終わるまで終わらないからな』と言われ、私は恐怖で仕方なく言い続けていました。そして言い終えて刑事は『明日頑張って事実を言ってくれるよね』と言うので、私は恐怖と疲労でハイと答えるしかありませんでした」。
「当時私がカリーナEDという車で『何回大沢小学校へ行ったのだ??』と聞かれて、私は1回です。刑事は問い直しました。『本当に1回でそんなに運よく1人で帰り道にいる子が見つかるのか』と聞かれて、私も1回じゃさすがにへんと思えて3回と言いなおしました。
そして刑事は『なぜ大沢小学校を狙ったの??鹿沼の近くの小学校を狙わなかったの』と聞かれ、私は考えました。そしたら刑事がらは『昔大沢小学校に通っていたから狙ったのか??』と言われ、私はあーはい、昔住んでいたから道もよくわかるし、それにアパートから遠かったからと答えました」。
「そして刑事は続けて『当時の事をデジカメとかに撮影していないか』と聞かれ私は、ロリコンでデジカメ持ってたし、撮影しないのはおかしいと思って、撮影はしたと答えました。それと『今回犯罪を犯した季節??』を聞かれ、私はとっさの質問で夏……秋??と答えたら、それで刑事に『もっとよく思い出せ』。この時は私はよくわからないので、うまく答えられなくて、この件はこのままうやむやのままになってしまいました。
そして2月に今回の事件の動機を聞かれ、50万円とかで高く売れると言ったのは検事の誘導で、検事が『お金のためじゃないのか??』との問いに私がうなづいたらしい。それで検事が勘違いでそのままになっていました」。
「刑事が私に『事件当日の事を思い出すように』と言われ、私は12月1日登校時に誘拐したと答えたら刑事はおごりだし、『本当に登校時間か??もっとよく思い出すよう』言われ、私が言葉が詰まったら、刑事が『下校時間じゃないか』と言ってきたので、私はあっはいと、下校時間ですと答えました。
独立言論フォーラム(ISF)副編集長(国内問題担当)。1956年、長崎県五島市生まれ。1978年朝日新聞社入社。西部本社報道センター次長、鹿児島総局長、東京本社特別報道部長代理などを経て2021年に退職。鹿児島総局長時代の「鹿児島県警による03年県議選公職選挙法違反『でっちあげ事件』をめぐるスクープと一連のキャンペーン」で鹿児島総局が2007年11月に石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『「違法」捜査 志布志事件「でっちあげ」の真実』(角川学芸出版)などがある。